に、そこここに立つ孤松《ひとつまつ》の影長々と横たわりつ。目をあぐれば、遠き山々静かに夕日を浴び、麓《ふもと》の方は夕煙諸処に立ち上る。はるか向こうを行く草負い牛の、しかられてもうと鳴く声空に満ちぬ。
武男は千々岩と並びて話しながら行くあとより浪子は従いて行く。三人《みたり》は徐《しず》かに歩みて、今しも壑《たに》を渉《わた》り終わり、坂を上りてまばゆき夕日の道に出《い》でつ。
武男はたちまち足をとどめぬ。
「やあ、しまった。ステッキを忘れた。なに、さっき休んだところだ。待っててくれたまえ、ひと走り取って来るから――なに、浪さんは待ってればいいじゃないか。すぐそこだ。全速力で駆けて来る」
と武男はしいて浪子を押しとめ、ハンケチ包みの蕨を草の上にさし置き、急ぎ足に坂を下りて見えずなりぬ。
三の三
武男が去りしあとに、浪子は千々岩《ちぢわ》と一間ばかり離れて無言に立ちたり。やがて谷を渉《わた》りてかなたの坂を上り果てし武男の姿小さく見えたりしが、またたちまちかなたに向かいて消えぬ。
「浪子さん」
かなたを望みいし浪子は、耳もと近き声に呼びかけられて思わず身を震わしたり。
「浪子さん」
一歩近寄りぬ。
浪子は二三歩引き下がりて、余儀なく顔をあげたりしが、例の黒水晶の目にひたとみつめられて、わき向きたり。
「おめでとう」
こなたは無言、耳までさっと紅《くれない》になりぬ。
「おめでとう。イヤ、おめでとう。しかしめでたくないやつもどこかにいるですがね。へへへへ」
浪子はうつむきて、杖《つえ》にしたる海老色《えびいろ》の洋傘《パラソル》のさきもてしきりに草の根をほじりつ。
「浪子さん」
蛇《へび》にまつわらるる栗鼠《りす》の今は是非なく顔を上げたり。
「何でございます?」
「男爵に金、はやっぱりいいものですよ。へへへへへ、いやおめでとう」
「何をおっしゃるのです?」
「へへへへへ、華族で、金があれば、ばかでも嫁に行く、金がなけりゃどんなに慕っても唾《つばき》もひッかけん、ね、これが当今《いま》の姫御前《ひめごぜ》です。へへへへ、浪子さんなンざそんな事はないですがね」
浪子もさすがに血相変えてきっと千々岩をにらみたり。
「何をおっしゃるンです。失敬な。も一度武男の目前《まえ》で言ってごらんなさい。失敬な。男らしく父に相談も
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