かさき》に泊まって、今朝《けさ》渋川まで来たんだが、伊香保はひと足と聞いたから、ちょっと遊びに来たのさ。それから宿に行ったら、君たちは蕨《わらび》採りの御遊《ぎょゆう》だと聞いたから、路《みち》を教《おそ》わってやって来たんだ。なに、明日《あす》は帰らなけりゃならん。邪魔に来たようだな。はッはッ」
 「ばかな。――君それから宅《うち》に行ってくれたかね」
 「昨朝《きのう》ちょっと寄って来た。叔母様《おばさん》も元気でいなさる。が、もう君たちが帰りそうなものだってしきりとこぼしていなすッたッけ。――赤坂《あかさか》の方でもお変わりもありませんです」と例の黒水晶の目はぎらりと浪子の顔に注ぐ。
 さっきからあからめし顔はひとしお紅《あこ》うなりて浪子は下向きぬ。
 「さあ、援兵が来たからもう負けないぞ。陸海軍一致したら、娘子《じょうし》軍百万ありといえども恐るるに足らずだ。――なにさ、さっきからこの御婦人方がわが輩|一人《ひとり》をいじめて、やれ蕨の取り方が少ないの、採ったが蕨じゃないだの、悪口《あっこう》して困ったンだ」と武男は顋《あご》もて今来し姥《うば》と女中をさす。
 「おや、千々岩様――どうしていらッしゃいまして?」と姥《うば》はびっくりした様子にて少し小鼻にしわを寄せつ。
 「おれがさっき電報かけて加勢に呼んだンだ」
 「おほほほ、あんな言《こと》をおしゃるよ――ああそうで、へえ、明日《あす》はお帰り遊ばすンで。へえ、帰ると申しますと、ね、奥様、お夕飯《ゆう》のしたくもございますから、わたくしどもはお先に帰りますでございますよ」
 「うん、それがいい、それがいい。千々岩君も来たから、どっさりごちそうするンだ。そのつもりで腹を減らして来るぞ。ははははは。なに、浪さんも帰る? まあいるがいいじゃないか。味方がなくなるから逃げるンだな。大丈夫さ、決していじめはしないよ。あはははは」
 引きとめられて浪子は居残れば、幾は女中《おんな》と荷物になるべき毛布《ケット》蕨などとりおさめて帰り行きぬ。
 あとに三人《みたり》はひとしきり蕨を採りて、それよりまだ日も高ければとて水沢《みさわ》の観音に詣《もう》で、さきに蕨を採りし所まで帰りてしばらく休み、そろそろ帰途に上りぬ。
 夕日は物聞山《ものききやま》の肩より花やかにさして、道の左右の草原は萌黄《もえぎ》の色燃えんとする
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