》といわずと今夜からそのけいこを始めるのだ」
言葉のうちに、襖《ふすま》開きて、小間使いの竹「御返事がいるそうでございます」
と一封の女筆《にょひつ》の手紙を差し出《いだ》しぬ。
封をひらきてすうと目を通したる山木は、手紙を妻《さい》と娘の目さきにひけらかしつつ
「どうだ、川島の御隠居からすぐ来てくれは!」
七の三
武男が艦隊演習におもむける二週の後、川島家より手紙して山木を招ける数日前《すじつぜん》、逗子《ずし》に療養せる浪子はまた喀血《かっけつ》して、急に医師を招きつ。幸いにして喀血は一回にしてやみ、医師は当分事なかるべきを保証せしが、この報は少なからぬ刺激を武男が母に与えぬ。間《あわい》両三日を置きて、門を出《い》づることまれなる川島未亡人の尨大《ぼうだい》なる体《たい》は、飯田町《いいだまち》なる加藤家の門を入りたり。
離婚問題の母子《おやこ》の間に争われつるかの夜《よ》、武男が辞色の思うにましてはげしかりしを見たる母は、さすがにその請いに任せて彼が帰り来るまでは黙止《もだ》すべき約をばなしつれど、よしそれまでまてばとて武男が心は容易に移すべくもあらずして、かえって時たつほど彼の愛着のきずなはいよいよ絶ち難かるべく、かつ思いも寄らぬ障礙《しょうげ》の出《い》で来たるべきを思いしなり。さればその子のいまだ帰らざるに乗じて、早く処置をつけ置くのむしろ得策なるを思いしが、さりとてさすがにかの言質《ことじち》もありこの顧慮もまたなきにあらずして、その心はありながら、いまだ時々来てはあおる千々岩を満足さすほどの果断なる処置をばなさざるなり。浪子が再度喀血の報を聞くに及びて、母は決然としてかつて媒妁《ばいしゃく》をなしし加藤家を訪《と》いたるなり。
番町と飯田町といわば目と鼻の間に棲《す》みながら、いつなりしか媒妁の礼に来しよりほとんど顔を見せざりし川島未亡人が突然来訪せし事の尋常にあらざるべきを思いつつ、ねんごろに客間に請《しょう》ぜし加藤夫人もその話の要件を聞くよりはたと胸をつきぬ。そのかつて片岡川島両家を結びたる手もて、今やそのつなげる糸を絶ちくれよとは!
いかなる顔のいかなる口あればさる事は言わるるかと、加藤夫人は今さらのように客のようすを打ちながめぬ。見ればいつにかわらぬ肥満の体格、太き両手を膝《ひざ》の上に組みて、膚《はだえ》た
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