したことだが、卿《おまえ》も知っとるが、武男さんの事だがの――」
 むなしき槽櫪《そうれき》の間に不平臥《ふてね》したる馬の春草の香《かんば》しきを聞けるごとく、お豊はふっと頭《かしら》をもたげて両耳を引っ立てつ。
 「卿《おまえ》が写真を引っかいたりしたもんだからとうとう浪子さんも祟《たた》られて――」
 「あんた!」お隅夫人は三たび眉《まゆ》をひそめつ。
 「これから本題に入るのだ。とにかく浪子さんが病気《あんばい》が悪い、というンで、まあ離縁になるのだ。いいや、まだ先方に談判はせん、浪子さんも知らんそうじゃが、とにかく近いうちにそうなりそうなのだ。ところでそっちの処置《かた》がついたら、そろそろ後釜《あとがま》の売りつけ――いやここだて、おれも母《おっか》さんも卿《おまえ》をな、まあお浪さんのあとに入れたいと思っているのだ。いや、そうすぐ――というわけにも行くまいから、まあ卿《おまえ》を小間使い、これさ、そうびっくりせんでもいいわ、まあ候補生のつもりで、行儀見習いという名義で、川島家《あしこ》に入り込ますのだ。――御隠居に頼んで、ないいかい、ここだて――」
 一息つきて、山木は妻《さい》と娘の顔をかれよりこれと見やりつ。
 「ここだて、なお豊。少し早いようだが――いって聞かして置く事があるがの。卿《おまえ》も知っとる通り、あの武男さんの母《おっか》さん――御隠居は、評判の癇癪《かんしゃく》持ちの、わがまま者の、頑固《がんこ》の――おっと卿《おまえ》が母《おっか》さんを悪口《あっこう》しちゃ済まんがの――とにかくここにすわっておいでのこの母《おっか》さんのように――やさしくない人だて。しかし鬼でもない、蛇《じゃ》でもない、やっぱり人間じゃ。その呼吸さえ飲み込むと、鬼の※[#「※」は「おんなへん+息」、第4水準2−5−70、123−15]《よめ》でも蛇《じゃ》の女房にでもなれるものじゃ。なあに、あの隠居ぐらい、おれが女なら二日もそばへいりゃ豆腐のようにして見せる。――と自慢した所で、仕方ないが、実際あんな老人《としより》でも扱いようじゃ何でもないて。ところで、いいかい、お豊、卿《おまえ》がいよいよ先方へ、まあ小間使い兼細君候補生として入り込む時になると、第一今のようになまけていちゃならん、朝も早く起きて――老人《としより》は目が早くさめるものじゃ――ほかの事はどう
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