ら良人《おっと》のコートのボタンゆるめるをつけ直し、ブラシもて丁寧にはらいなどするうちに、終列車の時刻迫れば、今はやむなく立ち上がる武男の手にすがりて
「あなた、もういらッしゃるの?」
「すぐ帰ってくる。浪さんも注意して、よくなッていなさい」
互いにしっかと手を握りつ。玄関に出《い》づれば、姥《うば》のいくは靴《くつ》を直し、僕《ぼく》の茂平《もへい》は停車場《ステーション》まで送るとて手かばんを左手《ゆんで》に、月はあれど提燈《ちょうちん》ともして待ちたり。
「それじゃばあや、奥様を頼んだぞ。――浪さん、行って来るよ」
「早く帰ってちょうだいな」
うなずきて、武男は僕が照らせる提燈の光を踏みつつ門を出《い》でて十数歩、ふりかえり見れば、浪子は白き肩掛けを打ちきて、いくと門にたたずみ、ハンケチを打ちふりつつ「あなた、早く帰ってちょうだいな」
「すぐ帰って来る。――浪さん、夜気《やき》にうたれるといかん、早くはいンなさい!」
されど、二度三度ふりかえりし時は、白き姿の朦朧《もうろう》として見えたりしが、やがて路《みち》はめぐりてその姿も見えずなりぬ。ただ三たび
「早く帰ってちょうだいな」
という声のあとを慕うてむせび来るのみ。顧みれば片破月《かたわれづき》の影冷ややかに松にかかれり。
七の一
「お帰り」の前触れ勇ましく、先刻玄関先に二|人《にん》びきをおりし山木は、早湯に入りて、早咲きの花菖蒲《はなしょうぶ》の活《い》けられし床を後ろに、ふうわりとした座ぶとんにあぐらをかきて、さあこれからがようようこっちのからだになりしという風情《ふぜい》。欲には酌人《しゃくにん》がちと無意気《ぶいき》と思い貌《がお》に、しかし愉快らしく、妻《さい》のお隅《すみ》の顔じろりと見て、まず三四杯|傾《かたぶ》くるところに、婢《おんな》が持《も》て来し新聞の号外ランプの光にてらし見つ。
「うう朝鮮か……東学党《とうがくとう》ますます猖獗《しょうけつ》……なに清国《しんこく》が出兵したと……。さあ大分《だいぶ》おもしろくなッて来たぞ。これで我邦《こっち》も出兵する――戦争《いくさ》になる――さあもうかるぜ。お隅、前祝いだ、卿《おまえ》も一つ飲め」
「あんた、ほんまに戦争《いくさ》になりますやろか」
「なるとも。愉快、愉快、実に愉快。――愉快といや、な
前へ
次へ
全157ページ中81ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング