を破りぬ。途端に「はッ」と襖のあなたに片唾《かたず》をのむ人の気《け》はいせしが、やがて震い声に「御免――遊ばせ」
 「だれ? ――何じゃ?」
 「あの! 電報が……」
 襖開き、武男が電報をとりて見、小間使いが女主人《あるじ》の一|睨《げい》に会いて半ば消え入りつつそこそこに去りしまで、わずか二分ばかりの間――ながら、この瞬間に二人《ふたり》が間の熱やや下《くだ》りて、しばらくは母子《おやこ》ともに黙然《もくねん》と相対しつ。雨はまたひとしきり滝のように降りそそぐ。
 母はようやく口を開きぬ。目にはまだ怒りのひらめけども、語はどこやらに湿りを帯びたり。
 「なあ、武どん。わたしがこういうも、何も卿《おまえ》のためわるかごとすっじゃなかからの。わたしにゃたッた一人《ひとり》の卿《おまえ》じゃ。卿《おまえ》に出世をさせて、丈夫な孫|抱《で》えて見たかばかいがわたしの楽しみじゃからの」
 黙然と考え入りし武男はわずかに頭《かしら》を上げつ。
 「母《おっか》さん、とにかく私《わたくし》も」電報を示しつつ「この通り出発が急になッて、明日《あす》はおそくも帰艦せにゃならんです。一月ぐらいすると帰って来ます。それまではどうかだれにも今夜の話は黙っていてください。どんな事があっても、私《わたくし》が帰って来るまでは、待っていてください」
       *
 あくる日武男はさらに母の保証をとり、さらに主治医を訪《と》いて、ねんごろに浪子の上を託し、午後の汽車にて逗子《ずし》におりつ。
 汽車を下《くだ》れば、日落ちて五日の月薄紫の空にかかりぬ。野川の橋を渡りて、一路の沙《すな》はほのぐらき松の林に入りつ。林をうがちて、桔槹《はねつるべ》の黒く夕空にそびゆるを望める時、思いがけなき爪音《つまおと》聞こゆ。「ああ琴をひいている……」と思えば心《しん》の臓をむしらるる心地《ここち》して、武男はしばし門外に涙《なんだ》をぬぐいぬ。今日は常よりも快かりしとて、浪子は良人《おっと》を待ちがてに絶えて久しき琴取り出《い》でて奏《かな》でしなりき。
 顔色の常ならぬをいぶかられて、武男はただ夜ふかししゆえとのみ言い紛らしつ。約あれば待ちて居し晩餐《ばんさん》の卓《つくえ》に、浪子は良人《おっと》と対《むか》いしが、二人《ふたり》ともに食すすまず。浪子は心細さをさびしき笑《えみ》に紛らして、手ずか
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