っとも疲れはしませんの。西洋まででも行けるわ」
 「いいかい、それじゃそのショールをおやりな。岩がすべるよ、さ、しっかりつかまって」
 武男は浪子をたすけ引きて、山の根の岩を伝える一条の細逕《さいけい》を、しばしば立ちどまりては憩《いこ》いつつ、一|丁《ちょう》あまり行きて、しゃらしゃら滝の下にいたりつ。滝の横手に小さき不動堂あり。松五六本、ひょろひょろと崖《がけ》より秀《ひい》でて、斜めに海をのぞけり。
 武男は岩をはらい、ショールを敷きて浪子を憩わし、われも腰かけて、わが膝《ひざ》を抱《いだ》きつ。「いい凪《なぎ》だね!」
 海は実に凪《な》げるなり。近午の空は天心にいたるまで蒼々《あおあお》と晴れて雲なく、一碧《いっぺき》の海は所々《しょしょ》練《ね》れるように白く光りて、見渡す限り目に立つ襞《ひだ》だにもなし。海も山も春日を浴びて悠々《ゆうゆう》として眠れるなり。
 「あなた!」
 「何?」
 「なおりましょうか」
 「エ?」
 「わたくしの病気」
 「何をいうのかい。なおらずにどうする。なおるよ、きっとなおるよ」
 浪子は良人《おっと》の肩に倚《よ》りつ、「でもひょっとしたらなおらずにしまいはせんかと、そう時々思いますの。実母《はは》もこの病気で亡《な》くなりましたし――」
 「浪さん、なぜ今日に限ってそんな事をいうのかい。だいじょうぶなおる。なおると医師《いしゃ》もいうじゃアないか。ねエ浪さん、そうじゃないか。そらア母《おっか》さんはその病気で――か知らんが、浪さんはまだ二十《はたち》にもならんじゃないか。それに初期だから、どんな事があったってなおるよ。ごらんな、それ内《うち》の親類の大河原《おおかわら》、ね、あれは右の肺がなくなッて、医者が匙《さじ》をなげてから、まだ十五年も生きてるじゃないか。ぜひなおるという精神がありさえすりアきっとなおる。なおらんというのは浪さんが僕を愛せんからだ。愛するならきっとなおるはずだ。なおらずにこれをどうするかい」
 武男は浪子の左手《ゆんで》をとりて、わが唇《くちびる》に当てつ。手には結婚の前、武男が贈りしダイヤモンド入りの指環《ゆびわ》燦然《さんぜん》として輝けり。
 二人《ふたり》はしばし黙して語らず。江の島の方《かた》より出《い》で来たりし白帆《しらほ》一つ、海面《うなづら》をすべり行く。
 浪子は涙に曇る目に微
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