思いませんでしたねエ」
 「実にいい天気だ。伊豆《いず》が近く見えるじゃないか、話でもできそうだ」
 二人《ふたり》はすでに乾《かわ》ける砂を踏みて、今日の凪《なぎ》を地曳《じびき》すと立ち騒ぐ漁師《りょうし》、貝拾う子らをあとにし、新月|形《なり》の浜を次第に人少なき方《かた》に歩みつ。
 浪子はふと思い出《い》でたるように「ねエあなた。あの――千々岩さんはどうしてらッしゃるでしょう?」
 「千々岩? 実に不埒《ふらち》きわまるやつだ。あれから一度も会わンが。――なぜ聞くのかい?」
 浪子は少し考え「イイエ、ね、おかしい事をいうようですが、昨夜《ゆうべ》千々岩さんの夢を見ましたの」
 「千々岩の夢?」
 「はあ。千々岩さんがお母さまと何か話をしていなさる夢を見ましたの」
 「はははは、気沢山《きだくさん》だねエ、どんな話をしていたのかい」
 「何かわからないのですけど、お母さまが何度もうなずいていらっしゃいましたわ。――お千鶴さんが、あの方と山木さんといっしょに連れ立っていなさるのを見かけたって話したから、こんな夢を見たのでしょうね。ねエ、あなた、千々岩さんが我等宅《うち》に出入りするようなことはありますまいね」
 「そんな事はない、ないはずだ。母《おっか》さんも千々岩の事じゃ怒《おこ》っていなさるからね」
 浪子は思わず吐息をつきつ。
 「本当に、こんな病気になってしまって、おかあさまもさぞいやに思っていらッしゃいましょうねエ」
 武男ははたと胸を衝《つ》きぬ。病める妻には、それといわねど、浪子が病みて地を転《か》えしより、武男は帰京するごとに母の機嫌《きげん》の次第に悪《あ》しく、伝染の恐れあればなるべく逗子には遠ざかれとまで戒められ、さまざまの壁訴訟の果ては昂《こう》じて実家《さと》の悪口《わるくち》となり、いささかなだめんとすれば妻をかばいて親に抗するたわけ者とののしらるることも、すでに一再に止《とど》まらざりけるなり。
 「はははは、浪さんもいろいろな心配をするね。そんな事があるものかい。精出して養生して、来春《らいはる》はどうか暇を都合して、母《おっか》さんと三人|吉野《よしの》の花見にでも行くさ――やアもうここまで来てしまッた。疲れたろう。そろそろ帰らなくもいいかい」
 二人は浜尽きて山起こる所に立てるなり。
 「不動まで行きましょう、ね――イイエち
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