笑を帯びて「なおりますわ、きっとなおりますわ、――あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ! 死ぬなら二人で! ねエ、二人で!」
 「浪さんが亡くなれば、僕も生きちゃおらん!」
 「本当? うれしい! ねエ、二人で!――でもおっ母《かあ》さまがいらッしゃるし、お職分《つとめ》があるし、そう思っておいでなすッても自由にならないでしょう。その時はわたくしだけ先に行って待たなけりゃならないのですねエ――わたくしが死んだら時々は思い出してくださるの? エ? エ? あなた?」
 武男は涙をふりはらいつつ、浪子の黒髪《かみ》をかいなで「ああもうこんな話はよそうじゃないか。早く養生して、よくなッて、ねエ浪さん、二人で長生きして、金婚式をしようじゃないか」
 浪子は良人《おっと》の手をひしと両手に握りしめ、身を投げかけて、熱き涙をはらはらと武男が膝《ひざ》に落としつつ「死んでも、わたしはあなたの妻ですわ! だれがどうしたッて、病気したッて、死んだッて、未来の未来の後《さき》までわたしはあなたの妻ですわ!」

     五の一

 新橋停車場に浪子の病を聞きける時、千々岩の唇《くちびる》に上りし微笑は、解かんと欲して解き得ざりし難問の忽然《こつぜん》としてその端緒を示せるに対して、まず揚がれる心の凱歌《がいか》なりき。にくしと思う川島片岡両家の関鍵《かんけん》は実に浪子にありて、浪子のこの肺患は取りも直さず天特にわれ千々岩安彦のために復讎《ふくしゅう》の機会を与うるもの、病は伝染致命の大患、武男は多く家にあらず、姑※[#「※」は「おんなへん+息」、第4水準2−5−70、103−8]《こそく》の間に軽々《けいけい》一片の言《ことば》を放ち、一指を動かさずして破裂せしむるに何の子細かあるべき。事成らば、われは直ちに飛びのきて、あとは彼らが互いに手を負い負わし生き死に苦しむ活劇を見るべきのみ。千々岩は実にかく思いて、いささか不快の眉《まゆ》を開けるなり。
 叔母の気質はよく知りつ。武男がわれに怒りしほど、叔母はわれに怒らざるもよく知りつ。叔母が常に武男を子供視して、むしろわれ――千々岩の年よりも世故に長《た》けたる頭《こうべ》に依頼するの多きも、よく知りつ。そもそもまた親戚《しんせき》知己も多からず、人をしかり飛ばして内心には心細く覚ゆる叔母が、若夫婦にあき
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