りはしなかったの」
「一人《ひとり》あったわ。でもね、松平さんがきらって、このごろは妾《めかけ》を置いたり、囲い者をしたり、乱暴ばかりするからね、萩原さんのおとうさんがひどく怒《おこ》つてね、そんな薄情な者には、娘はやって置かれぬてね、とうとう引き取ってしまったんですッて」
「まあ、かあいそうね。――どうしてきらうのでしょう、本当にひどいわ」
「腹が立つのねエ。――逆さまだとまだいいのだけど、舅姑《しゅうと》の気に入っても良人《おっと》にきらわれてあんな事になっては本当につらいでしょうねエ」
浪子は吐息しつ。
「同じ学校に出て同じ教場で同じ本を読んでも、みんなちりぢりになって、どうなるかわからないものねエ。――お千鶴さん、いつまでも仲よく、さきざき力になりましょうねエ」
「うれしいわ!」
二人《ふたり》の手はおのずから相結びつ。ややありて浪子はほほえみ、
「こんなに寝ていると、ね、いろいろな事を考えるの。ほほほほ、笑っちゃいやよ。これから何年かたッてね、どこか外国と戦争が起こるでしょう、日本が勝つでしょう、そうするとね、お千鶴さん宅《とこ》の兄さんが外務大臣で、先方へ乗り込んで講和の談判をなさるでしょう、それから武男《うち》が艦隊の司令長官で、何十|艘《そう》という軍艦を向こうの港にならべてね……」
「それから赤坂の叔父さんが軍司令官で、宅《うち》のおとうさんが貴族院で何億万円の軍事費を議決さして……」
「そうするとわたしはお千鶴さんと赤十字の旗でもたてて出かけるわ」
「でもからだが弱くちゃできないわ。ほほほほ」
「おほほほほ」
笑う下より浪子はたちまちせきを発して、右の胸をおさえつ。
「あまり話したからいけないのでしょう。胸が痛むの?」
「時々せきするとね、ここに響いてしようがないの」
言いつつ浪子の目はたちまちすうと薄れ行く障子の日影を打ちながめつ。
四の一
山木が奥の小座敷に、あくまで武男にはずかしめられて、燃ゆるがごとき憤嫉《ふんしつ》を胸に畳《たた》みつつわが寓《ぐう》に帰りしその夜《よ》より僅々《きんきん》五日を経て、千々岩《ちぢわ》は突然参謀本部よりして第一師団の某連隊付きに移されつ。
人の一生には、なす事なす事皆図星をはずれて、さながら皇天ことにわれ一|人《にん》をえらんで折檻《せっかん》また折檻の笞
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