い。しかし今までのよしみに一|言《ごん》いって置くが、人の耳目は早いものだ、君は目をつけられているぞ、軍人の体面に関するような事をしたもうな。君たちは金より貴《たっと》いものはないのだから、言ったってしかたはあるまいが、ちっとあ恥を知りたまえ。じゃもう会うまい。三千円はあらためて君にくれる」
厳然として言い放ちつつ武男は膝の前なる証書をとってずたずたに引き裂き棄《す》てつ。つと立ち上がって次の間に出《い》でし勢いに、さっきよりここに隠れて聞きおりしと覚しき女《むすめ》お豊を煽《あお》り倒しつ。「あれえ」という声をあとに足音荒く玄関の方《かた》に出《い》で去りたり。
あっけにとられし山木と千々岩と顔見あわしつ。「相変わらず坊っちゃまだね。しかし千々岩さん、絶交料三千円は随分いいもうけをしたぜ」
落ち散りたる証書の片々を見つめ、千々岩は黙然《もくねん》として唇《くちびる》をかみぬ。
三の一
二月《きさらぎ》初旬《はじめ》ふと引きこみし風邪《かぜ》の、ひとたびは※[#「※」はやまいだれ+差、第4水準2−81−66、80−11]《おこた》りしを、ある夜|姑《しゅうとめ》の胴着を仕上ぐるとて急ぐままに夜《よ》ふかししより再びひき返して、今日二月の十五日というに浪子はいまだ床あぐるまで快きを覚えざるなり。
今年の寒さは、今年の寒さは、と年々に言いなれし寒さも今年こそはまさしくこれまで覚えなきまで、日々吹き募る北風は雪を誘い雨を帯びざる日にもさながら髄を刺し骨をえぐりて、健やかなるも病み、病みたるは死し、新聞の広告は黒囲《くろぶち》のみぞ多くなり行く。この寒さはさらぬだに強からぬ浪子のかりそめの病を募らして、取り立ててはこれという異なれる病態もなけれど、ただ頭《かしら》重く食《しょく》うまからずして日また日を渡れるなり。
今二点を拍ちし時計の蜩《ひぐらし》など鳴きたらんように凛々《りんりん》と響きしあとは、しばし物音絶えて、秒を刻み行く時計のかえって静けさを加うるのみ。珍しくうららかに浅碧《あさみどり》をのべし初春の空は、四枚の障子に立て隔てられたれど、悠々《ゆうゆう》たる日の光くまなく紙障に栄《は》えて、余りの光は紙を透かして浪子が仰ぎ臥《ふ》しつつ黒スコッチの韈《くつした》を編める手先と、雪より白き枕《まくら》に漂う寝乱れ髪の上にちらちらおどりぬ。左
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