どに期限迫りて、果てはわが勤むる官署にすら督促のはがきを送らるる始末となりたれば、今はやむなくあたかも帰朝せる武男を説き動かし、この三千円を借り得てかの三千円を償い、武男の金をもって武男の名を贖《あがな》わんと欲せしなり。さきに武男を訪《と》いたれどおりあしく得逢《えあ》わず、その後二三日職務上の要を帯びて他行しつれば、いまだ高利貸のすでに武男が家に向かいしを知らざるなりき。
 山木はうなずき、ベルを鳴らして朱肉の盒《いれもの》を取り寄せ、ひと通り証書に目を通して、ふところより実印取り出《い》でつつ保証人なるわが名の下に捺《お》しぬ。そを取り上げて、千々岩は武男の前に差し置き、
 「じゃ、君、証書はここにあるから――で、金はいつ受け取れるかね」
 「金はここに持っている」
 「ここに?――戯談《じょうだん》はよしたまえ」
 「持っている。――では、参千円、確かに渡した」
 懐中より一通の紙に包みたるもの取り出《い》でて、千々岩が前に投げつけつ。
 打ち驚きつつ拾い上げ、おしひらきたる千々岩の顔はたちまち紅《くれない》になり、また蒼《あお》くなりつ。きびしく歯を食いしばりぬ。彼はいまだ高利貸の手にあらんと信じ切ったる証書を現に目の前に見たるなり。武男は田崎に事の由を探らせし後、ついに怪《け》しかる名前の上の三千円を払いしなりき。
 「いや、これは――」
 「覚えがないというのか。男らしく罪に伏《ふく》したまえ」
 子供、子供と今が今まで高をくくりし武男に十二分に裏をかかれて、一|腔《こう》の憤怨《ふんえん》焔《ほのお》のごとく燃え起こりたる千々岩は、切れよと唇《くちびる》をかみぬ。山木は打ちおどろきて、煙管《きせる》をやに下がりに持ちたるまま二人《ふたり》の顔をながむるのみ。
 「千々岩、もうわが輩は何もいわん。親戚《しんせき》のよしみに、決して私印偽造の訴訟は起こさぬ。三千円は払ったから、高利貸のはがきが参謀本部にも行くまい、安心したまえ」
 あくまではずかしめられたる千々岩は、煮え返る胸をさすりつ。気は武男に飛びもかからんとすれども、心はもはや陳弁の時機にあらざるを認むるほどの働きを存せるなり。彼はとっさに態度を変えつ。
 「いや、君、そういわれると、実に面目ないがね、実はのっぴきならぬ――」
 「何がのっぴきならぬのだ? 徳義ばかりか法律の罪人になってまで高利を
前へ 次へ
全157ページ中52ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング