》に導かれて、古寺《こじ》の廃跡|石《いし》累々《るゐ/\》たるを見つゝ、小石階《せうせきかい》を下りて、穹窿《きゆうりゆう》の建物いと小さく低きが中に入る。内に井あり、口径三尺ばかり、石を畳むでふちとす。番僧蝋燭の火をつりおろして井の中を見す。中はやゝ広く、岩を穿《うが》ち石を畳みて深さ七十尺、底には一滴の水無くして、石ころ満てり。哀しいかな、この水涸《か》れたること久し。井の傍《かたはら》なる壁に基督《きりすと》サマリヤの婦人《をんな》に語り玉ふ小さき画額を掲ぐ。建物の中にとりこめたるは、あらずもがなと思へど、昔のガリラヤ街道も此辺《このへん》を通りしと云へば、井《ゐど》其《その》ものは昔より云ひ伝へしヤコブの井たること疑《うたがひ》なし。
井《ゐど》の側《はた》より出でゝ、境内カヤツリ草の離々《りゝ》たる辺に佇《たたず》み、ポッケットより新約聖書取り出でゝ吾愛する約翰《よはね》伝第四章を且読み且眺む。頭上には「此山」ゲリジムの山聳ふ。見よ、サマリヤの婦人は指《ゆびさ》し、基督は目して居玉ふなり。直ぐ背《うしろ》なるエバルの山の山つゞきには、昔のスカル今のアスカルの三家村《さんかそん》山に靠《よ》りて白し。瓶《かめ》を忘れて婦人の急ぎ行く後影《うしろかげ》を見よ。弟子たち何ぞ愚《おろか》しく顔見合すや。「目を挙げて観よ」、田は現に色づきて刈入時となりぬ、東の方狭き谷より向山《むかふやま》の頂かけて熟せる麦一面夕日に黄金《こがね》の波をうたすを見ずや。あゝ二千年何ものぞ。幽明何をか隔つる。基督は猶ここに坐して教へ玉ふ。活ける水は涸れず。感謝すべきかな。
ナブルスの一夜
ヤコブの井より遠からずして、其子《そのこ》ヨセフの墓なるものあれど、さるものは見ず。また馬に上りて西へナブルスの谷に入る。南はゲリジム山、北はエバル山に挟まれたる谷なり。ゲリジムの山頂には古き建物の跡多く、エバルの山には一面に覇王樹《しやぼてん》茂《しげ》れり。覇王樹は土地の人新芽を皮剥《む》きて咀嚼す。
やがてナブルスに着き、羅甸《らてん》派の精舎《しやうじや》に宿《しゆく》す。総じてパレンスタインの僧舎は、紹介状だに持参せば、旅客を泊むる仕組にて、此処にも幾個の客床《かくしやう》を設けあり、食堂も備《そな》はる。客《かく》は去る時応分の謝金を出して行くなり。エルサレムよりナブル
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