は畑の草をとりつゝ、心に心田《しんでん》の草をとる。心が畑か、畑が心か、兎角に草が生え易い。油断をすれば畑は草だらけである。吾儕《われら》の心も草だらけである。四囲《あたり》の社会も草だらけである。吾儕は世界の草の種を除り尽すことは出来ぬ。除り尽すことは、また我儕人間の幸福でないかも知れぬ。然しうつちやつて置けば、我儕は草に埋もれて了《しま》ふ。そこで草を除る。己《わ》が為に草を除るのだ。生命《いのち》の為に草をとるのだ。敵国外患なければ国常に亡ぶで、草がなければ農家は堕落して了ふ。
「爾《なんじ》我言に背いて禁菓を食ひたれば、土は爾の為に咀《のろ》はる。土は爾の為に荊棘《いばら》と薊《あざみ》を生ずべし。爾は額に汗して苦しみて爾のパンを食《くら》はん」
斯く旧約聖書は草を人間の罰と見た。実は此の罰は人の子に対する深い親心の祝福である。
二
美的百姓の彼は兎角見るに美しくする為に草をとる。除るとなれば気にして一本残さずとる。農家は更に賢いのである。草を絶やすと地力を尽すと云ふ。草をとつて生のまゝ土に埋め、或は烈日に乾燥させ、焼いて灰にし、積んで腐らし、いづれにしても土
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