鯉、鮒、鰌《どぜう》ほか産しない。今年銅像を建てたと云ふ大山島、東郷島がある。昔此邊の領主であつたと云ふ武家の古い墓が幾基《いくつ》も立つて居る島もあつた。夏は好い遊び場であらう。今は寂しいことである。それでも、學生の漕いで行く小さなボートの影や、若い夫婦の遊山舟も一つ二つ見えた。舟を唯有《とあ》る岸に寄せて、殊に美しい山葡萄の紅葉を摘むで宿に歸つた。
午後は畫はがきなど書いて、館の表門から陸路停車場に投函に往つた。軟らかな砂地に下駄を踏み込んで、葦やさまざまの水草の茂つた入江の假橋を渡つて行く。やゝ色づいた樺、楢、イタヤ、などの梢から尖つた頭の赭い駒が岳が時々顏を出す。寂しい景色である。北海道の氣が總身にしみて感ぜられる。
夕方館の庭から沼に突き出た岬の※[#「山+鼻」、第4水準2−8−70]《はな》で、細君が石に腰かけて記念に駒が岳の寫生をはじめた。余は鶴子と手帖の上を見たり、附近《あたり》の林で草花を折つたり。秋の入り日の瞬《またゝ》く間に落ちて、山影水光見るが中に變つて行く。夕日の名殘をとどめて赭く輝やいた駒が岳の第一峯が灰がかつた色に褪めると、つい前の小島も紫から紺青に變つて、大沼の日は暮れて了うた。細君はまだスケツチの筆を動かして居る。黯青《あんせい》に光る空。白く光る水。時々ポチヤンと音して、魚がはねる。水際《みぎは》の林では、宿鳥《ねどり》が物に驚いてがさがさ飛び出す。ブヨだか蚊だか小さな聲で唸つて居る。
「到頭出來なかつた」
ぱたんと畫具箱の葢をして、細君は立ち上つた。鶴子を負ふ可く、蹲《しやが》むで後にまはす手先に、ものが冷やりとする。最早露が下りて居るのだ。
札幌へ
九月十六日。大沼を立つ。駒が岳を半周して、森に下つて、噴火灣の晴潮を飽かず汽車の窓から眺める。室蘭《むろらん》通ひの小さな汽船が波にゆられて居る。汽車は駒が岳を背《うしろ》にして、ずうと噴火灣に沿うて走る。長萬部《をしやまんべ》近くなると、灣を隔てゝ白銅色の雲の樣なものをむら/\と立てゝ居る山がある。有珠山《うずさん》です、と同室の紳士は教へた。
灣をはなれて山路にかゝり、黒松内《くろまつない》で停車蕎麥を食ふ。蕎麥の風味が好い。蝦夷《えぞ》富士※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]と心がけた蝦夷富士を、蘭越驛《らんこしえき》で仰ぐを得た。形容端正、絶頂まで樹木を纏うて、秀潤《しうじゆん》の黛色《たいしよく》滴《したゝ》るばかり。頻《しきり》に登つて見たくなつた。車中知人O君の札幌農科大學に歸るに會つた。夏期休暇に朝鮮漫遊して、今其歸途である。余市《よいち》に來て、日本海の片影を見た。余市は北海道林檎の名産地。折からの夕日に、林檎畑は花の樣な色彩を見せた。あまり美しいので、賣子が持て來た網嚢《あみぶくろ》入のを二嚢買つた。
O君は小樽《をたる》で下り、余等は八時札幌に着いて、山形屋に泊つた。
中秋
十八日。朝、旭川《あさひがは》へ向けて札幌を立つ。
石狩平原《いしかりへいげん》は、水田已に黄ばむで居る。其間に、九月中旬まだ小麥の收穫をして居るのを見ると、また北海道の氣もちに復《か》へつた。
十時、汽車は隧道《とんねる》を出て、川を見下ろす高い崖上の停車場にとまつた。神居古潭《かむゐこたん》である。急に思立つて、手荷物諸共|遽《あわ》てゝ汽車を下りた。
改築中で割栗石《わりぐりいし》狼藉とした停車場を出で、茶店《さてん》で人を雇うて、鶴子と手荷物を負はせ、急勾配の崖を川へ下りた。暗緑色の石狩川が汪々《わう/\》と流れて居る。兩岸から鐵線《はりがね》で吊つたあぶなげな假橋が川を跨げて居る。橋の口に立札がある。文言を讀めば、曰く、五人以上同時に渡る可からず。
恐《お》づ/\橋板を踏むと、足の底がふわりとして、一足毎に橋は左右に前後に上下に搖れる。飛騨山中、四國の祖谷《いや》山中などの藤蔓の橋の渡り心地がまさに斯樣《こんな》であらう。形ばかりの銕線《はりがね》の欄《てすり》はあるが、つかまつてゆる/\渡る氣にもなれぬ。下の流れを見ぬ樣にして一息に渡つた。橋の長さ二十四間。渡り終つて一息ついて居ると、炭俵を負うた若い女が山から下りて來たが、佇む余等に横目をくれて、飛ぶが如く彼吊橋を渡つて往つた。
山下道を川に沿うて溯《さかのぼ》ること四五丁餘、細い煙突から白い煙を立てゝ居る木羽葺《こつぱぶき》のきたない家に來た。神居古潭《かむゐこたん》の鑛泉宿である。取りあへず裏二階の無縁疊《へりなしだゝみ》の一室に導かれた。やがて碁をうつて居た旭川の客が歸つて往つたので、表二階の方に移つた。硫黄《いわう》の臭がする鑛泉に入つて、二階にくつ
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