れて汐風に香る。
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野糞《のぐそ》放《ひ》る外が濱邊や※[#「王+攵」、第3水準1−87−88]瑰花《まいくわいくわ》
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    大沼

      (一)
 津輕《つがる》海峽を四時間に駛せて、余等を青森から函館へ運んでくれた梅ヶ香丸は、新造の美しい船であつたが、船に弱い妻は到頭醉うて了うた。一夜函館埠頭の朴《きと》旅館に休息しても、まだ頭が痛いと云ふ。午後の汽車で、直ぐ大沼へ行く。
 函館停車場は極粗朴な停車場である。待合室では、眞赤に喰ひ醉うた金襴の袈裟の坊さんが、佛蘭西《フランス》人らしい髯の長い宣教師を捉へて、色々管を捲いて居る。宣教師は笑ひながら好い加減にあしらつて居る。
 札幌《さつぽろ》行の列車は、函館《はこだて》の雜沓をあとにして、桔梗、七飯《なゝえ》と次第に上つて行く。皮をめくる樣に頭が輕くなる。臥牛山《ぐわぎうざん》を心《しん》にした巴形《ともゑなり》の函館が、鳥瞰圖《てうかんづ》を展べた樣に眼下に開ける。
「眼に立つや海青々と北の秋」左の窓から見ると、津輕海峽の青々とした一帶の秋潮を隔てゝ、遙に津輕の地方が水平線上に浮いて居る。本郷へ來ると、彼|醉僧《すゐそう》は汽車を下りて、富士形の黒帽子を冠り、小形の緑絨氈《みどりじうたん》のカバンを提げて、蹣跚《まんさん》と改札口を出て行くのが見えた。江刺《えさし》へ十五里、と停車場の案内札に書いてある。函館から一時間餘にして、汽車は山を上り終へ、大沼驛を過ぎて大沼公園に來た。遊客の爲に設けた形《かた》ばかりの停車場である。ここで下車。宿引が二人待つて居る。余等は導かれて紅葉館の旗を艫《とも》に立てた小舟に乘つた。宿引は一禮して去り、船頭は軋《ぎい》と櫓聲を立てゝ漕ぎ出す。
 黄金色に藻の花の咲く入江を出ると、廣々とした沼の面、絶えて久しい赤禿の駒が岳が忽眼前に躍り出た。東の肩からあるか無いかの煙が立上《のぼ》つて居る。余が明治三十六年の夏來た頃は、汽車はまだ森までしかかゝつて居なかつた。大沼公園にも粗末な料理屋が二三軒|水際《みぎは》に立つて居た。駒が岳の噴火も其後の事である。然し汽車は釧路《くしろ》まで通うても、駒が岳は噴火しても、大沼其ものは舊に仍つて晴々した而して寂かな眺である。時は九月の十四日、然し沼のあたりのイタヤ楓はそろ/\染めかけて居る。處々|楢《なら》や白樺《しらかば》にからむだ山葡萄の葉が、火の樣に燃えて居る。空氣は澄み切つて、水は鏡の樣だ。夫婦島《めをとじま》の方に帆舟が一つ駛《はし》つて居る。櫓聲靜に我舟の行くまゝに、鴨が飛び、千鳥が飛ぶ。やがて舟は一の入江に入つて、紅葉館の下に着いた。女中が出迎へる。夥しくイタヤ楓の若木を植ゑた傾斜を上つて、水に向ふ奧の一間に案内された。
 都の紅葉館は知らぬが、此紅葉館は大沼に臨み、駒が岳に面し、名の如く無數の紅葉樹に圍まれて、瀟洒《さつぱり》とした紅葉館である。殊に夏の季節も過ぎて、今は宿もひつそりして居る。薪を使つて鑛泉に入つて、古めかしいランプの下、物靜かな女中の給仕で沼の鯉、鮒の料理を食べて、物音一つせぬ山の上、水の際の靜かな夜の眠に入つた。
 眞夜中にごろ/\と雷が鳴つた。雨戸の隙から電が光つた。而して颯《ざあ》と雨の音がした。起きて雨戸を一枚繰つて見たら、最早《もう》月が出て、沼の水に螢の樣に星が浮いて居た。
      (二)
 明方にはまたぽつ/\降つて居たが、朝食を食ふと止むだ。小舟で釣に出かける。汽車の通ふセバツトの鐵橋の邊《あたり》に來ると、また一しきりざあと雨が來た。鐵橋の蔭に舟を寄せて雨宿りする間もなく、雨は最早過ぎて了うた。此邊は沼の中でもやゝ深い。小沼の水が大沼に流れ入るので、水は川の樣に動いて居る。いくら釣つても、目ざす鮒はかゝらず、ゴタルと云ふ※[#「魚+少」、第3水準1−94−34]《はぜ》の樣な小魚ばかり釣れる。舟を水草《みづくさ》の岸に着けさして、イタヤの薄紅葉の中を彼方此方《あちこち》と歩いて見る。下生《したばえ》を奇麗に拂つた自然の築山、砂地の踏心地もよく、公園の名はあつても、あまり人巧の入つて居ないのがありがたい。駒が岳のよく見える處で、三脚を据ゑて、十八九の青年が水彩寫生をして居た。駒が岳に雲が去來して、沼の水も林も倏忽《たちまち》の中に翳《かげ》つたり、照つたり、見るに面白く、寫生に困難らしく思はれた。時が移るので、釣を斷念し、また舟に上つて島めぐりをする。大沼の周圍《めぐり》八里、小沼を合せて十三里、昔は島の數が大小百四十餘もあつたと云ふ。中禪寺の幽凄《いうせい》でもなく、霞が浦の淡蕩《たんたう》でもなく、大沼は要するに水を淡水にし松を楢白樺其他の雜木にした松島である。沼尻は瀑《たき》になつて居る。沼には
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