熊の足跡
徳冨蘆花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)平潟《ひらがた》へ。

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)奧州|淺蟲《あさむし》温泉

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)※[#「革+堂」、第3水準1−93−80]々

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)氣をつけ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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    勿來

 連日の風雨でとまつた東北線が開通したと聞いて、明治四十三年九月七日の朝、上野から海岸線の汽車に乘つた。三時過ぎ關本驛で下り、車で平潟《ひらがた》へ。
 平潟は名だたる漁場である。灣の南方を、町から當面の出島をかけて、蝦蛄《しやこ》の這ふ樣にずらり足杭を見せた棧橋が見ものだ。雨あがりの漁場、唯もう腥《なまぐさ》い、腥い。靜海亭《せいかいてい》に荷物を下ろすと、宿の下駄傘を借り、車で勿來關址《なこそのせきあと》見物に出かける。
 町はづれの隧道《とんねる》を、常陸《ひたち》から入つて磐城《いはき》に出た。大波小波|※[#「革+堂」、第3水準1−93−80]々《だう/\》と打寄する淋しい濱街道を少し往つて、唯《と》有る茶店《さてん》で車を下りた。奈古曾《なこそ》の石碑の刷物、松や貝の化石、畫はがきなど賣つて居る。車夫《くるまや》に鶴子を負《おぶ》つてもらひ、余等は滑る足元に氣をつけ/\鐵道線路を踏切つて、山田の畔《くろ》を關跡の方へと上る。道も狹《せ》に散るの歌に因《ちな》むで、芳野櫻を澤山植ゑてある。若木ばかりだ。路、山に入つて、萩、女郎花《をみなへし》、地楡《われもかう》、桔梗《ききやう》、苅萱《かるかや》、今を盛りの滿山の秋を踏み分けて上る。車夫が折つてくれた色濃い桔梗の一枝を鶴子は握つて負られて行く。
 濱街道の茶店から十丁程上ると、關の址に來た。馬の脊の樣な狹い山の上のやゝ平凹《ひらくぼ》になつた鞍部《あんぶ》、八幡太郎弓かけの松、鞍かけの松、など云ふ老大な赤松黒松が十四五本、太平洋の風に吹かれて、翠《みどり》の梢に颯々の音を立てゝ居る。五六百年の物では無い。松の外に格別古い物はない。石碑は嘉永《かえい》のものである。茶屋がけがしてあるが、夏過ぎた今日、もとより遊人《いうじん》の影も無く、茶博士《さはかせ》も居ない。弓弭《ゆはづ》の清水《しみづ》を掬《むす》んで、弓かけ松の下に立つて眺める。西は重疊《ちようでふ》たる磐城《いはき》の山に雲霧白く渦まいて流れて居る。東は太平洋、雲間漏る夕日の鈍い光を浮べて唯とろりとして居る。鰹舟《かつをぶね》の櫓拍子が仄かに聞こえる。昔奧州へ通ふ濱街道は、此山の上を通つたのか。八幡太郎も花吹雪の中を馬で此處を通つたのか。歌は殘つて、關の址と云ふ程の址はなく、松風ばかり颯々と吟じて居る。人の世の千年は實に造作もなく過ぎて了ふ。茫然と立つて居ると、苅草を背一ぱいにゆりかけた馬を追うて、若い百姓が二人峠の方から下りて來て、余等の前を通つて、また向の峯へ上つて往つた。
 日の暮に平潟《ひらがた》の宿に歸つた。湯はぬるく、便所はむさく、魚は鮮《あたら》しいが料理がまづくて腥く、水を飮まうとすれば潟臭《かたくさ》く、加之《しかも》夥しい蚊が眞黒にたかる。早々蚊帳に逃げ込むと、夜半に雨が降り出して、頭の上に漏つて來るので、遽《あわ》てゝ床を移すなど、わびしい旅の第一夜であつた。

    淺蟲

 九月九日から十二日まで、奧州|淺蟲《あさむし》温泉滯留。
 背後《うしろ》を青森行の汽車が通る。枕の下で、陸奧灣《むつわん》の緑玉潮《りよくぎよくてう》がぴた/\言《ものい》ふ。西には青森の人煙|指《ゆびさ》す可く、其|背《うしろ》に津輕富士の岩木《いはき》山が小さく見えて居る。
 青森から藝妓連《げいしやづれ》の遊客が歌うて曰く、一夜添うてもチマはチマ。
 五歳《いつゝ》の鶴子初めて鴎を見て曰く、阿母《おかあさん》、白い烏が飛んで居るわねえ。
 旅泊のつれ/″\に、濱から拾うて來た小石で、子供一人|成人《おとな》二人でおはじきをする。余が十歳の夏、父母に伴はれて舟で薩摩境の祖父を見舞に往つた時、唯《たつた》二十五里の海上を、風が惡くて天草の島に彼此十日も舟がかりした。昔話も聞き盡し、永い日を暮らしかねて、六十近い父と、五十近い母と、十歳の自分で、小石を拾うておはじきをした。今日不器用な手に小石を數へつゝ、不圖其事を思ひ出した。
 海岸を歩けば、帆立貝の殼が山の如く積んである。淺蟲で食つたものの中で、帆立貝の柱の天麩羅はうまいものであつた。海濱隨處に※[#「王+攵」、第3水準1−87−88]瑰《まいくわい》の花が紫に咲き亂
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