ブヨばかり。倒れ木に腰かけて、路をさし覆ふ七つ葉の蔭で、眞桑瓜《まくはうり》を剥いた。甘味の少ないは、爭はれぬ北である。最早日が入りかけて、薄ら寒く、秋の夕の淋しさが人少なの新開町を押かぶせる樣に四方から包むで來る。二《ふた》たび川を渡つて、早々宿に歸る。町の眞中を乘馬の男が野の方から駈《かけ》を追うて歸つて來る。馬蹄の音が名寄中に響き渡る。
 宿の主人は讚岐《さぬき》の人で、晩食の給仕に出た女中は愛知の者であつた。隣室には、先刻馬を頼むで居た北見の農場に歸る男が、客と碁をうつて居る。按摩の笛が大道を流して通る。

    春光臺

 明治三十六年の夏、余は旭川まで一夜泊の飛脚旅行に來た。其時の旭川は、今の名寄よりも淋しい位の町であつた。降りしきる雨の中を車で近文《ちかぶみ》に往つて、土産話にアイヌの老酋《らうしう》の家を訪うて、イタヤのマキリなぞ買つて歸つた。余は今車の上から見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]して、當年のわびしい記憶を喚起《よびおこ》さうとしたが、明治四十三年の旭川から七年前の旭川を見出すことは成功しなかつた。
 余等は市街を出ぬけ、石狩川を渡り、近文のアイヌ部落を遠目に見て、第七師團の練兵場を横ぎり、車を下りて春光臺《しゆんくわうだい》に上つた。春光臺は江戸川を除いた旭川の鴻《こう》の臺《だい》である。上川原野《かみかはげんや》を一目に見て、旭川の北方に連壘の如く蟠居《ばんきよ》して居る。丘上は一面水晶末の樣な輝々《きら/\》する白砂、そろそろ青葉の縁《ふち》を樺に染めかけた大きな※[#「木+解」、第3水準1−86−22]樹《かしはのき》の間を縫うて、幾條の路がうねつて居る。直ぐ眼下は第七師團である。黒《くろず》むだ大きな木造の建物、細長い建物、一尺の馬が走つたり、二寸の兵が歩いたり、赤い旗が立つたり、喇叭《らつぱ》が鳴つたりして居る。日露戰爭凱旋當時、此|丘上《をかのうへ》に盛大な師團招魂祭があつて、芝居、相撲、割れる樣な賑合《にぎはひ》の中に、前夜戀人の父から絶縁の一書を送られて血を吐く思の胸を抱いて師團の中尉|寄生木《やどりぎ》の篠原良平が見物に立まじつたも此春光臺であつた。
 余は見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]はした。丘の上には余等の外に人影も無く、秋風がばさり/\※[#「木+解」、第3水準1−86−22]《かしは
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