北西から南東へ青白く流るゝ玉川の流域から「夕立の空より広き」と云う武蔵野の平原をかけて自然を表わす濃淡の緑色と、磧《かわら》と人の手のあとの道路や家屋を示す些《ちと》の灰色とをもて描《えが》かれた大きな鳥瞰画《ちょうかんが》は、手に取る様に二人が眼下に展《ひろ》げられた。「好《い》い喃《なあ》」二人はかわる/″\景《けい》を讃《ほ》めた。
 やゝ眺《なが》めて居る内に、緑の武蔵野がすうと翳《かげ》った。時計をもたぬ二人は最早《もう》暮《く》るゝのかと思うた。蒸暑かった日は何時《いつ》しか忘られ、水気を含んだ風が冷々と顔を撫でて来た。唯《と》見《み》ると、玉川の上流、青梅あたりの空に洋墨《いんき》色の雲がむら/\と立って居る。
「夕立が来るかも知れん」
「然《そう》、降るかも知れんですな」
 二人は茶菓の代《しろ》を置いて、山を下りた。太田君はこれから日野の停車場に出て、汽車で帰京すると云う。日野までは一里強である。山の下で二人は手を分った。
「それじゃ」
「じゃ又」
 人家の珊瑚木《さんごのき》の生籬《いけがき》を廻って太田君の後姿《うしろすがた》は消えた。残る一人は淋しい心になって、西北の空を横眼に見上げつゝ渡《わたし》の方へ歩いて行った。川上《かわかみ》の空に湧いて見えた黒雲は、玉川《たまがわ》の水を趁《お》うて南東に流れて来た。彼の一足毎に空はヨリ黯《くら》くなった。彼は足を早めた。然し彼の足より雲の脚は尚早かった。一《いち》の宮《みや》の渡を渡って分倍河原に来た頃は、空は真黒になって、北の方で殷々※[#「門+眞」、第3水準1−93−54]々《ごろごろ》雷が攻太鼓をうち出した。農家はせっせとほし麦を取り入れて居る。府中の方から来る肥料車《こやしぐるま》も、あと押しをつけて、曳々声《えいえいごえ》して家の方へ急いで居る。
「太田君は何《ど》の辺まで往ったろう?」
 彼は一瞬時《またたくま》斯く思うた。而して今にも泣き出しそうな四囲《あたり》の中を、黙って急いだ。
 府中へ来ると、煤色《すすいろ》に暮れた。時間よりも寧空の黯い為に町は最早火を点《とも》して居る。早や一粒二粒夕立の先駆が落ちて来た。此処《ここ》で夕立をやり過ごすかな、彼は一寸斯く思うたが、こゝに何時《いつ》霽《は》れるとも知らぬ雨宿りをすべく彼の心はとく四里を隔つる家《うち》に急いで居た。彼は一の店に寄って糸経《いとだて》を買うて被《かぶ》った。腰に下げた手拭《てぬぐい》をとって、海水帽の上から確《しか》と頬被《ほおかむり》をした。而して最早大分|硬《こわ》ばって来た脛《すね》を踏張《ふんば》って、急速に歩み出した。
 府中の町を出はなれたかと思うと、追《おい》かけて来た黒雲が彼の頭上《ずじょう》で破裂《はれつ》した。突然《だしぬけ》に天の水槽《たんく》の底がぬけたかとばかり、雨とは云わず瀑布落《たきおと》しに撞々《どうどう》と落ちて来た。紫色の光がぱッと射す。直《す》ぐ頭上で、火薬庫が爆発した様に劇《はげ》しい雷《らい》が鳴った。彼はぐっと息《いき》が詰《つま》った。本能的に彼は奔《はし》り出したが、所詮此雷雨の重囲を脱けることは出来ぬと観念して、歩調をゆるめた。此あたりは、宿と村との中間で、雷雨を避くべき一軒の人家もない。人通りも絶え果てた。彼は唯一人であった。雨は少しおだれるかと思うと、また思い出した様にざあ※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]ドウ※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]と漲《みなぎ》り落ちた。彼の頬被りした海水帽《かいすいぼう》から四方に小さな瀑が落ちた。糸経《いとだて》を被った甲斐もなく総身濡れ浸《ひた》りポケットにも靴にも一ぱい水が溜《たま》った。彼は水中を泳ぐ様に歩いた。紫色や桃色の電《いなずま》がぱっ/\と一しきり闇に降る細引《ほそびき》の様《よう》な太い雨を見せて光った。ごろ/\/\雷《かみなり》がやゝ遠のいたかと思うと、意地悪く舞い戻って、夥《おびただ》しい爆竹《ばくちく》を一度に点火した様に、ぱち/\/\彼の頭上に砕《くだ》けた。長大《ちょうだい》な革の鞭を彼を目がけて打下ろす音かとも受取られた。其《その》度《たび》に彼は思わず立竦《たちすく》んだ。如何《どう》しても落ちずには済《す》まぬ雷《らい》の鳴り様である。何時落ちるかも知れぬと最初思うた彼は、屹度《きっと》落ちると覚期《かくご》せねばならなかった。屹度彼の頭上に落ちると覚期せねばならなかった。此《この》街道《かいどう》の此部分で、今動いて居る生類《しょうるい》は彼一人である。雷が生《い》き者に落ちるならば即ち彼の上に落ちなければならぬ。雷にうたれて死《し》ぬ運命の人間が、地の此部分にあるなら、其は取りも直《なお》さず彼でなくてはならぬ。彼は是非なく死を覚期した。彼は生命が惜しくなった。今此処から三里|隔《へだ》てゝ居る家の妻の顔が歴々と彼の眼に見えた。彼は電光の如く自己《じこ》の生涯を省みた。其れは美《うつく》しくない半生であった。妻に対する負債《ふさい》の数々も、緋の文字《もじ》をもて書いた様に顕れた。彼は此まゝ雷にうたれて死んだあとに残る者の運命を考えた。「一人《ひとり》はとられ一人は残さるべし」と云う聖書の恐ろしい宣告が彼の頭《あたま》に閃《ひらめ》いた。彼は反抗した。然し其反抗の無益なるを知った。雷はます/\劇《はげ》しく鳴った。最早《もう》今度《こんど》は落ちた、と彼は毎々《たびたび》観念した。而して彼の心は却て落ついた。彼の心は一種自己に対し、妻に対し、一切の生類《しょうるい》に対する憐愍《あわれ》に満された。彼の眼鏡《めがね》は雨の故ならずして曇《くも》った。斯くして夕暮の街道二里を、彼は雷と共に歩いた。
 調布の町に入る頃は、雷は彼の頭上を過ぎて、東京の方に鳴った。雨も小降《こぶ》りになり、やがて止んだ。暮れたと思うた日は、生白《なまじろ》い夕明《ゆうあかり》になった。調布の町では、道の真中《まんなか》に五六人立って何かガヤ/\云いながら地《ち》を見て居る。雷が落ちたあとであろう、煙の様なものがまだ地から立って居る。戸口に立ったかみさんが、向うのかみさんを呼びかけ、
「洗濯物取りに出《で》りゃあの雷だね、わたしゃ薪小屋《まきごや》に逃げ込んだきり、出よう/\と思ったけンど、如何しても出られなかったゞよ」
と云って居る。
 雷雨が過ぎて、最早|大丈夫《だいじょうぶ》と思うと、彼は急に劇しい疲労を覚えた。濡《ぬ》れた洋服の冷たさと重たさが身にこたえる。足が痛む。腹はすく。彼は重たい/\足を曳きずって、一足ずつ歩いた。滝坂近くなる頃は、永い/\夏の日もとっぶり暮れて了うた。雨は止んだが、東北の空ではまだ時々ぱッ/\と稲妻が火花を散らして居る。
 家へ六七丁の辺《へん》まで辿《たど》り着くと、白いものが立って居る。それは妻《つま》であった。家をあけ、犬を連れて、迎に出て居るのであった。あまり晩《おそ》いので屹度先刻の雷におうたれなすったと思いました、と云う。

           *

 翌々日の新聞は、彼が其日行った玉川《たまがわ》の少し下流で、雷が小舟に落ち、舳《へさき》に居た男はうたれて即死、而して艫《とも》に居た男は無事だった、と云う事を報じた。
「一人はとられ、一人は残さるべし」の句がまた彼の頭に浮んだ。
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     月見草

 村の人になった年《とし》、玉川の磧《かわら》からぬいて来た一本の月見草が、今はぬいて捨てる程に殖《ふ》えた。此頃は十数株、少《すくな》くも七八十輪|宵毎《よいごと》に咲いて、黄昏《たそがれ》の庭に月が落ちたかと疑われる。
 月見草は人好きのする花では無い。殊《こと》に日間《ひるま》は昨夜の花が赭《あか》く凋萎《しお》たれて、如何にも思切りわるくだらりと幹《みき》に付いた態《ざま》は、見られたものではない。然し墨染《すみぞめ》の夕に咲いて、尼《あま》の様に冷たく澄んだ色の黄、其《その》香《か》も幽に冷たくて、夏の夕にふさわしい。花弁《はなびら》の一つずつほぐれてぱっと開く音も聴くに面白い。独物思うそゞろあるきの黄昏に、唯一つ黙って咲いて居る此花と、はからず眼を見合わす時、誰か心跳《こころおど》らずに居られようぞ。月見草も亦心浅からぬ花である。
 八九歳の弱い男の子が、ある城下の郊外の家《うち》から、川添いの砂道を小一里もある小学校に通う。途中、一方が古来《こらい》の死刑場《しおきば》、一方が墓地の其|中間《ちゅうかん》を通らねばならぬ処があった。死刑場には、不用になった黒く塗った絞台や、今も乞食が住む非人小屋があって、夕方は覚束ない火が小屋にともれ、一方の古墳《こふん》新墳《しんふん》累々《るいるい》と立並ぶ墓場の砂地には、初夏の頃から沢山月見草が咲いた。日間《ひるま》通る時、彼は毎《つね》に赭くうな垂《だ》れた昨宵《ゆうべ》の花の死骸を見た。学校の帰りが晩くなると、彼は薄暗い墓場の石塔や土饅頭の蔭から黄色い眼をあいて彼を覗《のぞ》く花を見た。斯《か》くて月見草は、彼にとって早く死の花であった。
 其墓場の一端には、彼が甥《おい》の墓もあった。甥と云っても一つ違い、五つ六つの叔父《おじ》甥は常に共に遊んだ。ある時叔父は筆の軸《じく》を甥に与えて、犬の如く啣《くわ》えて振れと命じた。従順な子は二度三度云わるゝまゝに振った。叔父はまた振れと迫った。甥はもういやだと頭を掉《ふ》った。憎さげに甥を睨《にら》んだ叔父は、其筆の軸で甥の頬《ほお》をぐっと突いた。甥は声を立てゝ泣いた。其甥は腹膜炎にかゝって、明《あ》くる年の正月元日病院で死んだ。屠蘇《とそ》を祝うて居る席に死のたよりが届《とど》いた。叔父の彼は異な気もちになった。彼ははじめてかすかな Remorse を感じた。
 墓地は一方大川に面《めん》し、一方は其大川の分流に接して居た。甥は其分流近く葬《ほうむ》られた。甥が死んで二三年、小学校に通う様になった叔父は、ある夏の日ざかりに、二三の友達と其小川に泳いだ。自分の甥の墓があると誇り貌《が》に告げて、彼は友達を引張って、甥の墓に詣《まい》った。而して其小さな墓石の前に、真裸の友達とかわる/″\跪《ひざまず》いて、凋《しお》れた月見草の花を折って、墓前の砂に插《さ》した。
 彼は今月見草の花に幼き昔を夢の様に見て居る。
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     腫物

       一

 人声が賑《にぎ》やかなので、往って見ると、久《ひさ》さんの家は何時《いつ》の間にか解き崩《くず》されて、煤《すす》けた梁《はり》や虫喰《むしく》った柱、黒光りする大黒柱、屋根裏の煤竹《すすたけ》、それ/″\類《るい》を分って積まれてある。近所近在の人々が大勢寄ってたかって居る。件《くだん》の古家《ふるや》を買った人が、崩す其まゝ古材木を競売するので、其《そ》れを買いがてら見がてら寄り集うて居るのである。一方では、まだ崩し残りの壁など崩して居る。時々|壁土《かべつち》が撞《どう》と落ちて、ぱっと汚ない煙をあげる。汚ないながらも可なり大きかった家が取り崩され、庭木《にわき》や境の樫木は売られて切られたり掘られたりして、其処らじゅう明るくガランとして居る。
 家族はと見れば、三坪程の木小屋に古畳《ふるだたみ》を敷いて、眼の少し下って肥《こ》え脂《あぶら》ぎったおかみは、例の如くだらしなく胸を開けはだけ、おはぐろの剥《は》げた歯を桃色の齦《はぐき》まで見せて、買主に出すとてせっせと茶を沸かして居る。頬冠りした主人の久さんは、例の厚い下唇を突出《つきだ》したまゝ、吾不関焉と云う顔をして、コト/\藁《わら》を打って居る。婆さんや唖の巳代吉《みよきち》は本家へ帰ったとか。末の子の久三は学校へでも往ったのであろ、姿は見えぬ。
 一切の人と物との上に泣く様な糠雨《ぬかあめ》が落ちて居る。
 あゝ此《この》家《うち》も到頭《とうとう》潰《つぶ》れるのだ。

       二

 今は二十何年の昔、
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