みみずのたはこと
徳冨健次郎

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)儂《わし》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)二千|余坪《よつぼ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「木+要」、第4水準2−15−13]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)近来ます/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−

   故人に

       一

 儂《わし》の村住居《むらずまい》も、満六年になった。暦《こよみ》の齢《とし》は四十五、鏡を見ると頭髪《かみ》や満面の熊毛に白いのがふえたには今更《いまさら》の様に驚く。
 元来田舎者のぼんやり者だが、近来ます/\杢兵衛《もくべえ》太五作式になったことを自覚する。先日上野を歩いて居たら、車夫《くるまや》が御案内しましょうか、と来た。銀座日本橋あたりで買物すると、田舎者扱いされて毎々腹を立てる。後《あと》でぺろり舌を出されるとは知りながら、上等のを否《いや》極《ごく》上等《じょうとう》のをと気前を見せて言い値《ね》でさっさと買って来る様な子供らしいこともついしたくなる。然し店硝子《みせがらす》にうつる乃公《だいこう》の風采《ふうさい》を見てあれば、例令《たとえ》其れが背広《せびろ》や紋付羽織袴であろうとも、着こなしの不意気さ、薄ぎたない髯顔《ひげがお》の間抜け加減、如何に贔屓眼《ひいきめ》に見ても――いや此では田舎者扱いさるゝが当然だと、苦笑《にがわら》いして帰って来る始末。此程村の巡査が遊びに来た。日清戦争の当時、出征軍人が羨ましくて、十五歳を満二十歳と偽り軍夫になって澎湖島《ほうことう》に渡った経歴もある男で、今は村の巡査をして、和歌など詠み、新年勅題の詠進などして居る。其巡査の話に、正服《せいふく》帯剣《たいけん》で東京を歩いて居ると、あれは田舎のお廻《まわ》りだと辻待《つじまち》の車夫がぬかす。如何して分《わ》かるかときいたら、眼《め》で知れますと云ったと云って、大笑した。成程《なるほど》眼で分かる――さもありそうなことだ。鵜《う》の目、鷹の目、掏摸《すり》の眼、新聞記者の眼、其様《そん》な眼から見たら、鈍如《どんより》した田舎者の眼は、嘸《さぞ》馬鹿らしく見えることであろう。実際馬鹿でなければ田舎住居は出来《でき》ぬ。人にすれずに悧巧になる道はないから。
 東京に出ては儂《わし》も立派な田舎者だが、田舎ではこれでもまだ中々ハイカラだ。儂の生活状態も大分変った。君が初めて来た頃の彼《あの》あばら家とは雲泥《うんでい》の相違だ。尤も何方が雲か泥《どろ》かは、其れは見る人の心次第だが、兎に角著しく変った。引越した年の秋、お麁末《そまつ》ながら浴室《ゆどの》や女中部屋を建増した。其れから中一年置いて、明治四十二年の春、八畳六畳のはなれの書院を建てた。明治四十三年の夏には、八畳四畳板の間つきの客室兼物置を、ズッと裏の方に建てた。明治四十四年の春には、二十五坪の書院を西の方に建てた。而して十一間と二間半の一間幅の廊下を以て、母屋と旧書院と新書院の間を連ねた。何れも茅葺、古い所で九十何年新しいのでも三十年からになる古家を買ったのだが、外見は随分立派で、村の者は粕谷御殿《かすやごてん》なぞ笑って居る。二三年ぶりに来て見た男が、悉皆《すっかり》別荘式になったと云うた。御本邸無しの別荘だが、実際別荘式になった。畑も増して、今は宅地耕地で二千|余坪《よつぼ》になった。以前は一切無門関、勝手《かって》に屋敷の中を通る小学校通いの子供の草履ばた/\で驚いて朝寝の眠《ねむり》をさましたもので、乞食《こじき》物貰《ものもら》い話客千客万来であったが、今は屋敷中ぐるりと竹の四ツ目籬《めがき》や、※[#「木+要」、第4水準2−15−13]《かなめ》、萩ドウダンの生牆《いけがき》をめぐらし、外から手をさし入れて明けられる様《よう》な形ばかりのものだが、大小《だいしょう》六つの門や枝折戸が出入口を固《かた》めて居る。己《われ》と籠を作って籠の中の鳥になって居るのが可笑《おか》しくもある。但花や果物を無暗に荒《あら》されたり、無遠慮なお客様に擾《わずら》わさるゝよりまだ可と思うて居る。個人でも国民でも斯様な所から「隔て」と云うものが出来、進んでは喧嘩《けんか》、訴訟、戦争なぞが生れるのであろう。
「後生願わん者は糂※[#「米+太」、第3水準1−89−82]甕《じんたがめ》一つも持つまじきもの」とは実際だ。物の所有は隔ての原《もと》で、物の執着《しゅうちゃく》は争の根《ね》である。儂も何時しか必要と云う名の下に門やら牆やら作って了うた。まさか忍び返えしのソギ竹を黒板塀の上に列べたり、煉瓦塀《れんがべい》上《うえ》に硝子の破片を剣の山と植《う》えたりはせぬつもりだが、何、程度《ていど》の問題だ、これで金でも出来たら案外|其様《そん》な事もやるであろうよ。

       二

 畑の物は可なり出来る。昨年は陸穂《おかぼ》の餅米が一俵程出来たので、自家で餅を舂いた。今年は大麦三俵|籾《もみ》で六円なにがしに売った。田園生活をはじめてこゝに六年、自家の作物が金になったのは、此れが皮切だ。去年は月に十日|宛《ずつ》きまった作男を入れたが、美的百姓と真物《ほんもの》の百姓とは反《そ》りが合わぬ所から半歳足らずで解雇《かいこ》してしまい、時々近所の人を傭ったり、毎日仕事に来る片眼のおかみを使って居る。自分も時々やる。少し労働をやめて居ると、手が直ぐ綺麗《きれい》になり、稀に肥桶を担《かつ》ぐと直ぐ肩が腫《は》れる。元来物事に極不熱心な男だが、其れでも年の功だね、畑仕事も少しは上手になった。最早《もう》地味《ちみ》に合わぬ球葱《たまねぎ》を無理に作ろうともせぬ。最早胡麻を逆につるして近所の笑草にもならぬ。甘藷苗の竪植《たてうえ》もせぬ。心《しん》をとめるものは心をとめ、肥料のやり時、中耕の加減《かげん》も、兎やら角やら先生なしにやって行ける。毎年|儂《わし》は蔬菜《そさい》花卉《かき》の種《たね》を何円《なんえん》と云う程買う。無論其れ程の地積《ちせき》がある訳《わけ》でも必要がある訳でも無いが、種苗店の目録を見て居るとつい買いたくなって買うのだ。蒔《ま》いてしまうのも中々骨だから、育《そだ》ったら事だが、幸か不幸か種の大部分は地に入《はい》って消えて了う。其度毎《そのたびごと》に種苗店の不徳義、種子の劣悪《れつあく》を罵《ののし》るが、春秋の季節になると、また目録をくって注文をはじめる。馬鹿な事さ。然し儂等は趣味空想に生きて、必しも結果《けっか》には活きぬ。馬鹿な事をしなくなったら、儂が最後だ。
 時の経《た》つは速いものだ。越《こ》した年の秋実を蒔いた茶が、去年あたりから摘《つ》め、今年は新茶が可なり出来た。砂利を敷いたり剪枝をしたり苦心の結果、水蜜桃も去年あたりから大分喰える。苺《いちご》は毎年移してばかり居たが、今年は毎日|喫飽《くいあき》をした上に、苺のシイロップが二|合瓶《ごうびん》二十余出来た。生籬の萩が葉を見て花を見てあとは苅《か》られて萩籬の料になったり、林の散歩にぬいて来て捨植《すてうえ》にして置いた芽生の山椒が一年中の薬味《やくみ》になったり、構わずに置く孟宗竹の筍《たけのこ》が汁の実になったり、杉籬の剪《はさ》みすてが焚附《たきつけ》になり、落葉の掃き寄せが腐って肥料になるも、皆時の賜物《たまもの》である。追々と植込んだ樹木が根づいて独立が出来る様になり、支えの丸太が取り去られる。移転の秋坊主になる程苅り込んで非常の労力を以て隣村から移植《いしょく》し、中一年を置いてまた庭の一隅《いちぐう》へ移《うつ》し植えた二尺八寸|廻《まわ》りの全手葉椎《マテバシイ》が、此頃では梢の枝葉も蕃茂《はんも》して、何時花が咲いたか、つい此程|内《うち》の女児が其下で大きな椎の実を一つ見つけた。と見て、妻が更に五六|粒《つぶ》拾った。「椎が実《な》った! 椎が実った!」驩喜《かんき》の声が家に盈《み》ちた。田舎住居は斯様な事が大《たい》した喜の原になる。一日一日の眼には見えぬが、黙って働く自然の力をしみ/″\感謝せずには居られぬ。儂が植えた樹木は、大抵《たいてい》根づいた。儂自身も少しは村に根を下《おろ》したかと思う。

       三

 少しはと儂は云うた。実は六年村に住んでもまだ村の者になり切れぬのである。固有の背水癖で、最初|戸籍《こせき》までひいて村の者になったが、過る六年の成績を省《かえりみ》ると、儂自身もあまり良い村民であったと断言は出来ない。吉凶の場合、兵隊送迎は別として、村の集会なぞにも近来滅多に出ぬ。村のポリチックスには無論超然主義を執る。燈台下暗くして、東京近くの此村では、青年会が今年はじめて出来、村の図書館は一昨年やっと出来た。儂は唯傍観して居る。郡教育会、愛国婦人会、其他一切の公的性質を帯びた団体加入の勧誘は絶対的に拒絶する。村の小さな耶蘇教会にすらも殆《ほとん》ど往《い》かぬ。昨年まで年に一回の月番役を勤めたが、月番の提灯を預《あずか》ったきりで、一切の事務は相番《あいばん》の肩に投げかけるので、皆迷惑したと見えて、今年から月番を諭旨免職になった。儂自身の眼から見る儂は、無月給の別荘番、墓掃除せぬ墓守、買って売る事をせぬ植木屋の亭主、位なもので、村の眼からは、儂は到底一個の遊び人である。遊人の村に対する奉公は、盆正月に近所の若い者や女子供の相手になって遊ぶ位が落である。儂は最初一の非望《ひぼう》を懐いて居た。其は吾家の燈火《あかり》が見る人の喜悦になれかしと謂《い》うのであった。多少気張っても見たが、其内くたびれ、気恥《きはず》かしくなって、儂《わし》は一切《いっさい》説法《せっぽう》をよした。而して吾儘一ぱいの生活をして居る。儂は告白する、儂は村の人にはなり切れぬ。此は儂の性分である。東京に居ても、田舎に居ても、何処までも旅《たび》の人、宿れる人、見物人なのである。然しながら生年百に満たぬ人《ひと》の生《いのち》の六年は、決して短い月日では無い。儂は其六年を已に村に過して居る。儂が村の人になり切れぬのは事実である。然し儂が少しも村を愛《あい》しないと云うのは嘘《うそ》である。ちと長い旅行でもして帰って来る姿《すがた》を見かけた近所の子供に「何処《どけ》へ往ったンだよゥ」と云われると、油然《ゆうぜん》とした嬉しさが心の底《そこ》からこみあげて来る。
 東京が大分《だいぶ》攻め寄せて来た。東京を西に距《さ》る唯三里、東京に依って生活する村だ。二百万の人の海にさす潮《しお》ひく汐《しお》の余波が村に響いて来るのは自然である。東京で瓦斯を使う様《よう》になって、薪の需用が減った結果か、村の雑木山が大分|拓《ひら》かれて麦畑《むぎばたけ》になった。道側の並木の櫟《くぬぎ》楢《なら》なぞ伐られ掘られて、短冊形の荒畑《あらばた》が続々出来る。武蔵野の特色なる雑木山を無惨※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]《むざむざ》拓かるゝのは、儂にとっては肉を削《そ》がるゝ思《おもい》だが、生活がさすわざだ、詮方《せんかた》は無い。筍が儲かるので、麦畑を潰して孟宗藪《もうそうやぶ》にしたり、養蚕《ようさん》の割が好いと云って桑畑が殖《ふ》えたり、大麦小麦より直接東京向きの甘藍白菜や園芸物に力を入れる様になったり、要するに曩時《むかし》の純農村は追々都会附属の菜園になりつゝある。京王電鉄が出来るので其等を気構え地価も騰貴した。儂が最初買うた地所は坪四十銭位であったが、此頃は壱円以上二円も其上もする様になった。地所買いも追々入り込む。儂自身東京から溢れ者の先鋒でありながら、滅多な東京者に入り込《こ》まれてはあまり嬉しい気もちもせぬ。洋服、白足袋の男なぞ工場の地所見に来たりするのを傍見《わきみ》する毎に
次へ
全69ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング