、儂は眉を顰《ひそ》めて居る。要するに東京が日々攻め寄せる。以前聞かなかった工場《こうば》の汽笛なぞが、近来《きんらい》明け方の夢を驚かす様になった。村人も寝《ね》ては居られぬ。十年前の此村を識って居る人は、皆が稼ぎ様の猛烈《もうれつ》になったに驚いて居る。政党騒《せいとうさわ》ぎと賭博は昔から三多摩の名物《めいぶつ》であった。此頃では、選挙争に人死《ひとじに》はなくなった。儂が越して来た当座《とうざ》は、まだ田圃向うの雑木山に夜灯《よるあかり》をとぼして賭博をやったりして居た。村の旧家の某が賭博に負《ま》けて所有地一切勧業銀行の抵当《ていとう》に入れたの、小農の某々が宅地《たくち》までなくしたの、と云う噂をよく聞いた。然し此の数年来《すうねんらい》賭博風《とばくかぜ》は吹き過ぎて、遊人と云う者も東京に往ったり、比較的《ひかくてき》堅気《かたぎ》になったりして、今は村民一同|真面目《まじめ》に稼いで居る。其筋の手入れが届くせいもあるが、第一|遊《あそ》んで居られぬ程生活難が攻め寄せたのである。

       四

 儂の家族は、主人夫婦《あるじふうふ》の外明治四十一年の秋以来兄の末女をもらって居る。名を鶴《つる》と云う。鶴は千年、千歳村に鶴はふさわしい。三歳の年|貰《もら》って来た頃は、碌々口もきけぬ脾弱《ひよわ》い児であったが、此の頃は中々|強健《きょうけん》になった。もらい立《たて》は、儂が結《ゆ》いつけ負《おん》ぶで三軒茶屋まで二里てく/\楽《らく》に歩いたものだが、此の頃では身長三尺五寸、体量《たいりょう》四貫余。友達が無いが淋《さび》しいとも云わず育《そだ》って居る。子供は全く田舎で育てることだ。紙鳶《たこ》すら自由に飛ばされず、毬《まり》さえ思う様にはつけず、電車、自動車、馬車、人力車、自転車、荷車《にぐるま》、馬と怪俄《けが》させ器械の引切りなしにやって来る東京の町内に育《そだ》つ子供は、本当に惨《みじめ》なものだ。雨にぬれて跣足《はだし》で※[#「足+包」、第3水準1−92−34]《か》けあるき、栗でも甘藷《いも》でも長蕪でも生でがり/\食って居る田舎の子供は、眼から鼻にぬける様な怜悧ではないかも知れぬが、子供らしい子供で、衛生法を蹂躙して居るか知らぬが、中々病気はしない。儂等《わしら》親子《おやこ》三人の外に、女中が一人。阿爺《おやじ》が天理教に凝って資産を無くし、母に死別れて八歳から農家の奉公に出て、今年二十歳だが碌にイロハも読めぬ女だ。東郷大将《とうごうたいしょう》の名は知って居るが、天皇陛下を知らぬ。明治天皇《めいじてんのう》崩御《ほうぎょ》の際、妻は天皇陛下の概念を其原始的頭脳に打込《うちこ》むべく大骨折った。天皇陛下を知らぬ程《ほど》だから、無論|皇后陛下《こうごうへいか》や皇太子殿下を知る筈が無い。明治天皇崩御の合点《がてん》が行くと、曰《いわ》くだ、ムスコさんでもありますかい、おかみさんが嘸《さぞ》困るでしょうねェ。御維新後四十五年、帝都《ていと》を離《はな》るゝ唯三里、加之《しかも》二十歳の若い女に、まだ斯様な葛天氏《かつてんし》無懐氏の民が居ると思えば、イワン王国の創立者も中々心強い訳だ。斯無懐氏の女の外《ほか》に、テリアル種の小さな黒《くろ》牝犬《めいぬ》が一匹。名をピンと云う。鶴子より一月《ひとつき》前《まえ》にもらって、最早《もう》五歳《いつつ》、顎《あご》のあたりの毛が白くなって、大分《だいぶ》お婆《ばあ》さんになった。毎年二度三疋四疋|宛《ずつ》子を生む。ピンの子孫《しそん》が近村に蕃殖した。近頃畜犬税がやかましいので、子供を縁づけるに骨が折れる。徒歩でも車でも出さえすると屹度|跟《つ》いて来るが、此頃では東京往復はお婆さん骨《ほね》らしい。一度車夫が戻り車にのせてやったら、其後は車に跟いて来て疲れると直ぐ車上の儂等を横眼に見上げる。今一疋デカと云うポインタァ種《しゅ》の牡犬《おいぬ》が居る。甲州街道の浮浪犬で、ポチと云ったそうだが、ズウ体がデカイから儂がデカと名づけた。デカダンを意味《いみ》したのでは無い。獰猛《どうもう》な相貌をした虎毛《とらげ》の犬で、三四疋位の聯合軍《れんごうぐん》は造作もなく噛《か》み伏せる猛犬《もうけん》だったので、競争者を追払ってずる/\にピンの押入|聟《むこ》となった訳《わけ》である。儂も久しく考《かんが》えた末、届と税を出し、天下《てんか》晴《は》れて彼を郎等《ろうどう》にした。郎等先生此頃では非常に柔和になった。第一眼光が違う。尤も悪《わる》い癖《くせ》があって、今でも時々子供を追《おい》かける。噛みはせぬが、威嚇《いかく》する。彼が流浪《るろう》時代に子供に苛《いじ》められた復讎心《ふくしゅうしん》が消えぬのである。子供と云えば、日本の子供はなぜ犬猫を可愛《かあい》がらぬのであろう。直ぐ畜生《ちきしょう》と云っては打ったり石を投げたりする。矢張大人の真似を子供はするのであろう。禽獣を愛せぬ国民は、大国民の資格《しかく》が無い。犬猫をいじめる子供は、やがて朝鮮人《ちょうせんじん》台湾人《たいわんじん》をいじめる大人である。ある犬通の話に、野犬《やけん》の牙は飼犬《かいいぬ》のそれより長くて鋭く、且|外方《そっぽう》へ向《む》くものだそうだ。生物《せいぶつ》には飢《うえ》程恐ろしいものは無い。食にはなれた野犬が猛犬になり狂犬になるのは唯一歩である。野武士《のぶし》のポチは郎等のデカとなって、犬相が大に良くなった。其かわり以前の強味はなくなった。富国強兵兎角両立し難いものとあって、デカが柔和に即ち弱《よわ》くなったのも※[#「しんにょう+官」、第3水準1−92−56]《のが》れぬ処であろう。以上二頭の犬の外、トラと云う雄猫《おねこ》が居る。犬好きの家は、猫まで犬化して、トラは畳《たたみ》の上より土に寝《ね》るが好きで、儂等が出あるくと兎《うさぎ》の如《ごと》くピョン/\はねて跟《つ》いて来る。米の飯《めし》より麦《むぎ》の飯、魚《さかな》よりも揚豆腐が好きで、主人を見真似たか梨や甜瓜《まくわ》の喰い残りをがり/\噛《かじ》ったり、焼いた玉蜀黍《とうもろこし》を片手で押えてわんぐり噛《か》みつきあの鋭い牙で粒を食《く》いかいてはぼり/\噛ったり、まさに田園《でんえん》の猫である。来客があって、珍《めず》らしく東京から魚を買ったら、トラ先生|早速《さっそく》口中に骨を立て、両眼に涙、口もとからは涎《よだれ》をたらし、人|騒《さわ》がせをしてよう/\命だけは取りとめた。犬猫の外に鶏が十羽。蜜蜂は二度|飼《か》って二度逃げられ、今は空箱だけ残って居る。天井《てんじょう》の鼠、物置の青大将《あおだいしょう》、其他無断同居のものも多いが、此等《これら》は眷族《けんぞく》の外である。(著者追記。犬のデカは大正二年の二月自動車に轢《ひ》かれて死に、猫のトラは正月行衛不明になり、ピンは五月肥溜に落ちて死んだ。)
 猫の話で思い出したが、儂《わし》は明治四十二年の春、塩釜《しおがま》の宿で牡蠣《かき》を食った時から菜食《さいしょく》を廃《よ》した。明治三十八年十二月から菜食をはじめて、明治三十九、四十、四十一、と満三年の精進《しょうじん》、云わば昔の我に対する三年の喪《も》をやったようなものだ。以前はダシにも昆布《こんぶ》を使った。今は魚鳥獣肉何でも食《く》う。猪肉や鯛は尤も好物だ。然し葷酒《くんしゅ》(酒はおまけ)山門《さんもん》に入るを許したばかりで、平素の食料《しょくりょう》は野菜、干物、豆腐位、来客か外出の場合でなければ滅多に肉食《にくじき》はせぬから、折角の還俗《げんぞく》も頗る甲斐《かい》がない訳である。甲州街道に肴屋《さかなや》はあるが、無論塩物干物ばかりで、都会《とかい》に溢るゝ※[#「魚+是」、第4水準2−93−60]《しこ》、秋刀魚《さんま》の廻《まわ》って来る時節でもなければ、肴屋の触れ声を聞く事は、殆ど無い。ある時、東京式に若者が二人|威勢《いせい》よく盤台を担《かつ》いで来たので、珍らしい事だと出て見ると、大きな盤台の中は鉛節《なまりぶし》が五六本に鮪《まぐろ》の切身が少々、それから此はと驚かされたのは血《ち》だらけの鯊《さめ》の頭だ。鯊の頭にはギョッとした。蒲鉾屋《かまぼこや》からでも買い出して来たのか。誰が買うのか。ダシにするのか。煮《に》て食うのか。儂は泣きたくなった。一生の思出に、一度は近郷《きんごう》近在《きんざい》の衆を呼んで、ピン/\した鯛の刺身煮附に、雪《ゆき》の様《よう》な米の飯《めし》で腹が割ける程馳走をして見たいものだ。実際此処では魚《さかな》と云えば已に馳走で、鮮否は大した問題では無い。近所の子供などが時々真赤な顔をして居る。酒を飲まされたのでは無い。ふるい鯖《さば》や鮪に酔《よ》うたのである。此頃は、儂の健啖《けんたん》も大に減った。而して平素菜食の結果、稀《まれ》に東京で西洋料理なぞ食っても、甘《うま》いには甘いが、思う半分も喰《く》えぬ。最早儂の腸胃も杢兵衛式《もくべえしき》になった。

       五

 書《ほん》が沢山《たくさん》ある家《うち》、学を読む家、植木が好きな家、もとは近在の人達が斯く儂の家の事を云うた。儂を最初村に手引した石山君は、村塾を起して儂に英語を教えさせ自身漢学を教え、斯くて千歳村《ちとせむら》を風靡する心算《つもり》であったらしい。然し其は石山君の失望であった。儂は何処までも自己本位の生活をした。ある学生は、あなたの故郷《こきょう》は此処《ここ》では無い、大きな樹木《じゅもく》を植えたり家を建てたりはよくない、と切に忠告した。儂は顧みなかった。古い家ながら小人数《こにんず》には広過ぎる家《うち》を建て、盛に果樹観賞木を植え、一切《いっさい》永住方針を執って吾生活の整頓に六年を費した。儂は儂の住居が水草を逐うて移る天幕《てんと》であらねばならぬことを知らぬでは無かった。また儂自身に漂泊の血をもって居ることを否《いな》むことは出来なかった。従来儂の住居が五六年を一期とする経歴を記憶せぬでは無かった。だから儂は落ちつきたかった。執着《しゅうちゃく》がして見たかった。自分の故郷を失ったからには、故郷を造って見たかった。而して六年間|孜々《しし》として吾巣を構えた。其結果は如何である? 儂が越して程なく要《よう》あって来訪した東京の一|紳士《しんし》は、あまり見すぼらしい家の容子《ようす》に掩い難い侮蔑を見せたが、今年来て見た時は、眼色に争《あらそ》われぬ尊敬を現わした。其れに引易え、或信心家は最初片っ方しか無い車井《くるまい》の釣瓶なぞに随喜したが、此頃ではつい近所に来て泊っても寄《よ》っても往《い》かなくなった。即|儂《わし》の田園生活は、或眼からは成功で、或眼からは堕落に終ったのである。
 堕落か成功か、其様《そん》な屑々《けち》な評価は如何でも構わぬ。儂は告白する、儂は自然がヨリ好きだが、人間が嫌《いや》ではない。儂はヨリ多く田舎を好むが、都会《とかい》を捨《す》てることは出来ぬ。儂は一切が好きである。儂が住居《すまい》は武蔵野の一隅にある。平生読んだり書いたりする廊下の窓からは甲斐《かい》東部の山脈が正面に見える。三年前建てた書院からは、東京の煙が望まれる。一方に山の雪を望み、一方に都の煙を眺むる儂の住居は、即ち都の味と田舎の趣とを両手に握らんとする儂の立場《たちば》と慾望を示して居るとも云える。斯慾望が何処まで衝突なく遂《と》げ得らるゝかは、疑問である。此両趣味の結婚は何ものを生《う》み出したか、若くは生み出すか、其れも疑問である。唯儂一個人としては、六年の田舎住居《いなかずまい》の後、いさゝか獲《え》たものは、土に対する執着の意味をやゝ解《かい》しはじめた事である。儂は他郷から此村に入って、唯六年を過ごしたに過ぎないが、それでも吾《わ》が樹木《じゅもく》を植え、吾が種を蒔《ま》き、我が家を建て、吾が汗を滴《た》らし、吾《わが》不浄《ふじょう》を培《つちか》い、而
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