してたま/\死《し》んだ吾家の犬、猫、鶏、の幾頭《いくとう》幾羽《いくわ》を葬った一町にも足らぬ土が、今は儂にとりて着物《きもの》の如く、寧《むしろ》皮膚《ひふ》の如く、居れば安く、離るれば苦しく、之を失う場合を想像するに堪《た》えぬ程愛着を生じて来た。己《おのれ》を以て人を推せば、先祖代々土の人たる農其人の土に対する感情も、其|一端《いったん》を覗《うかが》うことが出来る。斯《この》執着《しゅうちゃく》の意味を多少とも解し得る鍵《かぎ》を得たのは、田舎住居の御蔭《おかげ》である。
然しながら己《わ》が造った型《かた》に囚《とら》われ易いのが人の弱点である。執着は常に力であるが、執着は終に死である。宇宙は生きて居る。人間は生きて居る。蛇が衣《から》を脱ぐ如く、人は昨日《きのう》の己が死骸を後ざまに蹴て進まねばならぬ。個人も、国民も、永久に生くべく日々死して新に生《うま》れねばならぬ。儂は少くも永住の形式を取って村の生活をはじめたが、果して此処《ここ》に永住し得るや否、疑問である。新宿八王子間の電車は、儂の居村《きょそん》から調布《ちょうふ》まで已に土工を終えて鉄線を敷きはじめた。トンカンと云う鉄の響が、近来警鐘の如く儂の耳に轟く。此は早晩儂を此《この》巣《す》から追い立てる退去令の先触《さきぶれ》ではあるまいか。愈電車でも開通した暁、儂は果して此処に踏止《ふみと》まるか、寧東京に帰るか、或は更に文明を逃げて山に入るか。今日に於ては儂自ら解き得ぬ疑問である。
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大正元年十二月二十九日
[#ここで字下げ終わり]
[#地から6字上げ]都も鄙《ひな》も押《おし》なべて白妙《しろたえ》を被《き》る風雪の夕
[#地から7字上げ]武蔵野粕谷の里にて
[#地から3字上げ]徳冨健次郎
[#改丁]
都落ちの手帳から
千歳村
一
明治三十九年の十一月中旬、彼等夫妻は住家《すみか》を探すべく東京から玉川《たまがわ》の方へ出かけた。
彼は其年の春千八百何年前に死んだ耶蘇《やそ》の旧跡と、まだ生きて居たトルストイの村居《そんきょ》にぶらりと順礼に出かけて、其八月にぶらりと帰って来た。帰って何を為《す》るのか分からぬが、兎《と》に角《かく》田舎住居をしようと思って帰って来た。先輩の牧師に其事を話したら、玉川の附近に教会の伝道地がある、往《い》ったら如何だと云う。伝道師は御免を蒙る、生活に行くのです、と云ったものゝ、玉川と云うに心動いて、兎に角見に行きましょうと答えた。そうか、では何日《なんにち》に案内者をよこそう、と牧師は云うた。
約束の日になった。案内者は影も見せぬ。無論牧師からはがき一枚も来ぬ。彼は舌鼓《したつづみ》をうって、案内者なしに妻と二人《ふたり》西を指して迦南《カナン》の地を探がす可く出かけた。牧師は玉川の近くで千歳村《ちとせむら》だと大束《おおたば》に教えてくれた。彼等も玉川の近辺で千歳村なら直ぐ分かるだろうと大束にきめ込《こ》んで、例の如くぶらりと出かけた。
二
「家を有つなら草葺《くさぶき》の家、而して一反でも可《いい》、己が自由になる土を有ちたい」
彼は久しく、斯様な事を思うて居た。
東京は火災予防として絶対的草葺を禁じてしまった。草葺に住むと云うは、取りも直さず田舎に住む訳《わけ》である。最近五年余彼が住んだ原宿の借家も、今住んで居る青山高樹町の借家も、東京では田舎近い家で、草花位つくる余地はあった。然し借家借地は気が置ける。彼も郷里の九州には父から譲られた少しばかりの田畑《たはた》を有って居たが、其土は銭に化けて追々《おいおい》消えてしまい、日露戦争終る頃は、最早|一撮《ひとつまみ》の土も彼の手には残って居なかった。そこで草葺の家と一反の土とは、新に之を求めねばならぬのであった。
彼が二歳から中二年を除いて十八の春まで育った家は、即ち草葺の家であった。明治の初年薩摩境に近い肥後《ひご》の南端の漁村から熊本の郊外に越した時、父が求めた古家で、あとでは瓦葺《かわらぶき》の一棟が建増されたが、母屋《おもや》は久しく茅葺であった。其茅葺をつたう春雨の雫《しずく》の様に、昔《むかし》のなつかし味が彼の頭脳に滲《し》みて居たのである。彼の家は加藤家の浪人の血をひいた軽い士の末《すえ》で、代々田舎の惣庄屋をして居て、農には元来縁浅からぬ家である。彼も十四五の頃には、僕に連れられ小作米取立の検分に出かけ、小作の家で飯を強いられたり無理に濁酒の盃をさゝれたりして困った事もあった。彼の父は地方官吏をやめて後、県会議員や郷先生《ごうせんせい》をする傍、殖産興業の率先をすると謂って、女《むすめ》を製糸場の模範工女にしたり、自家《じか》でも養蚕《ようさん》製糸《せいし》をやったり、桑苗販売《そうびょうはんばい》などをやって、いつも損ばかりして居た。桑苗発送季の忙しくて人手が足りぬ時は、彼の兄なぞもマカウレーの英国史を抛《ほう》り出して、柄《え》の短い肥後鍬を不器用な手に握ったものだ。弟の彼も鎌を持たされたり、苗を運ばされたりしたが、吾儘で気薄な彼は直ぐ嫌《いや》になり、疳癪《かんしゃく》を起してやめてしまうが例であった。
父は津田仙さんの農業三事や農業雑誌の読者で、出京の節は学農社からユーカリ、アカシヤ、カタルパ、神樹《しんじゅ》などの苗を仕入れて帰り、其他種々の水瓜、甘蔗《さとうきび》など標本的に試作《しさく》した。好事となると実行せずに居れぬ性分で、ある時|菓樹《かじゅ》は幹に疵つけ徒長を防ぐと結果に効《こう》があると云う事を何かの雑誌で読んで、屋敷中の梨の若木《わかき》の膚を一本残らず小刀でメチャ/\に縦疵《たてきず》をつけて歩いたこともあった。子の彼は父にも兄にも肖ぬなまけ者で、実学実業が大の嫌いで、父が丹精して置いた畑を荒らして廻《まわ》り、甘蔗と間違えて西洋|箒黍《ほうききび》を噛《か》んで吐き出したり、未熟の水瓜を窃《そっ》と拳固で打破って川に投げ込んで素知《そし》らぬ顔して居たり、悪戯《いたずら》ばかりして居た。十六七の際には、学業不勉強の罰とあって一切書籍を取上げられ、爾後養蚕専門たるべしとの宣告の下に、近所の養蚕家に入門せしめられた。其家には十四になる娘があったので、当座は真面目に養蚕|稽古《げいこ》もしたが、一年足らずで嫌になってズル/\にやめて了うた。但右の養蚕家入門中、桑を切るとて大きな桑切庖丁を左の掌《てのひら》の拇指《おやゆび》の根にざっくり切り込んだ其|疵痕《きずあと》は、彼が養蚕家としての試みの記念《きねん》として今も三日月形に残って居る。
斯様な記憶から、趣味としての田園生活は、久しく彼を引きつけて居たのであった。
三
青山高樹町の家《うち》をぶらりと出た彼等夫婦は、まだ工事中の玉川電鉄の線路を三軒茶屋まで歩いた。唯有《とあ》る饂飩屋《うどんや》に腰かけて、昼飯がわりに饂飩を食った。松陰神社で旧知《きゅうち》の世田ヶ谷往還を世田ヶ谷|宿《しゅく》のはずれまで歩き、交番に聞いて、地蔵尊《じぞうそん》の道しるべから北へ里道に切れ込んだ。余程往って最早《もう》千歳村《ちとせむら》であろ、まだかまだかとしば/\会う人毎に聞いたが、中々村へは来なかった。妻は靴に足をくわれて歩行に難《なや》む。農家に入って草履を求めたが、無いと云う。漸《ようや》く小さな流れに出た。流れに沿《そ》うて、腰硝子の障子など立てた瀟洒《しょうしゃ》とした草葺《くさぶき》の小家がある。ドウダンが美しく紅葉して居る。此処《ここ》は最早千歳村で、彼風流な草葺は村役場の書記をして居る人の家であった。彼様な家を、と彼等は思った。
会堂《かいどう》がありますか、耶蘇教信者がありますか、とある家《うち》に寄ってきいたら、洗濯して居たかみさんが隣のかみさんと顔見合わして、「粕谷だね」と云った。粕谷さんの宅は何方《どちら》と云うたら、かみさんはふッと噴《ふ》き出して、「粕谷た人の名でねェだよ、粕谷って処だよ」と笑って、粕谷の石山と云う人が耶蘇教信者だと教えてくれた。
尋ね/\て到頭会堂に来た。其は玉川の近くでも何でもなく、見晴《みはら》しも何も無い桑畑の中にある小さな板葺のそれでも田舎には珍らしい白壁の建物であった。病人か狂人かと思われる様な蒼い顔をした眼のぎょろりとした五十余の婦《おんな》が、案内を請う彼の声に出て来た。会堂を借りて住んで居る人なので、一切の世話をする石山氏の宅は直ぐ奥だと云う。彼等は導かれて石山氏の広庭に立った。トタン葺《ぶき》の横長い家で、一方には瓦葺の土蔵《どぞう》など見えた。暫《しばら》くすると、草鞋ばきの人が出て来た。私が石山《いしやま》八百蔵《やおぞう》と名のる。年の頃五十余、頭の毛は大分|禿《は》げかゝり、猩々《しょうじょう》の様な顔をして居る。あとで知ったが、石山氏は村の博識《ものしり》口利《くちきき》で、今も村会議員をして居るが、政争の劇《はげ》しい三多摩の地だけに、昔は自由党員で壮士を連れて奔走し、白刃の間を潜《くぐ》って来た男であった。推参《すいさん》の客は自ら名のり、牧師の紹介《しょうかい》で会堂を見せてもらいに来たと云うた。石山氏は心を得ぬと云う顔をして、牧師から何の手紙も来ては居ぬ、福富儀一郎と云う人は新聞などで承知をして居る、また隣村の信者で角田勘五郎と云う者の姉が福富さんの家に奉公して居たこともあるが、尊名は初めてだと、飛白《かすり》の筒袖羽織、禿《ち》びた薩摩下駄《さつまげた》、鬚髯《ひげ》もじゃ/\の彼が風采《ふうさい》と、煤竹《すすたけ》色の被布を着て痛そうに靴《くつ》を穿《は》いて居る白粉気も何もない女の容子《ようす》を、胡散《うさん》くさそうにじろじろ見て居た。然し田舎住居がしたいと云う彼の述懐《じゅっかい》を聞いて、やゝ小首を傾《かし》げてのち、それは会堂も無牧で居るから、都合によっては来てお貰《もら》い申して、月々何程かずつ世話をして上げぬことはない、と云う鷹揚《おうよう》な態度を石山氏はとった。兎に角会堂を見せてもろうた。天井《てんじょう》の低い鮓詰《すしづめ》にしても百人がせい/″\位の見すぼらしい会堂で、裏に小さな部屋《へや》があった。もと耶蘇教の一時繁昌した時、村を西へ距《さ》る一里余、甲州街道の古い宿調布町に出来た会堂で、其後調布町の耶蘇教が衰え会堂が不用になったので、石山氏外数名の千歳村の信者がこゝにひいて来たが、近来久しく無牧で、今は小学教員母子が借りて住んで居ると云うことであった。
会堂を見て、渋茶の馳走になって、家の息子に道を教わって、甲州街道の方へ往った。
晩秋の日は甲州《こうしゅう》の山に傾き、膚寒い武蔵野《むさしの》の夕風がさ/\尾花を揺《ゆ》する野路を、夫婦は疲れ足曳きずって甲州街道を指して歩いた。何処《どこ》やらで夕鴉《ゆうがらす》が唖々と鳴き出した。我儕《われら》の行末は如何なるのであろう? 何処に落つく我儕の運命であろう? 斯く思いつゝ、二人は黙って歩いた。
甲州街道に出た。あると云う馬車も来なかった。唯有《とあ》る店で、妻は草履《ぞうり》を買うて、靴をぬぎ、三里近い路をとぼ/\歩いて、漸く電燈の明るい新宿へ来た。
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都落ち
一
二月ばかり経《た》った。
明治四十年の一月である。ある日田舎の人が二人青山高樹町の彼《かれ》が僑居《きょうきょ》に音ずれた。一人は石山氏、今一人は同教会執事角田新五郎氏であった。彼は牧師に招聘《しょうへい》されたのである。牧師は御免を蒙る、然し村住居はしたい。彼は斯く返事したのであった。
彼は千歳村にあまり気がなかった。近いと聞いた玉川《たまがわ》は一里の余もあると云う。風景も平凡《へいぼん》である。使って居た女中《じょちゅう》は、江州《ごうしゅう》彦根在の者で、其|郷里地方《きょうりちほう》には家屋敷を捨売りにして京、大阪や東京に出る者が多いので、※[#「言
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