+虚」、第4水準2−88−74]《うそ》の様に廉《やす》い地面家作の売物《うりもの》があると云う。江州――琵琶湖東《びわことう》の地、山美しく水清く、松茸が沢山《たくさん》に出て、京奈良に近い――大に心動いて、早速郷里に照会《しょうかい》してもらったが、一向に返事が来ぬ。今時分田舎から都へ出る人はあろうとも、都から田舎にわざ/\引込《ひきこ》む者があろうか、戯談《じょうだん》に違いない、とうっちゃって置いたのだと云う事が後で知れた。江州の返事が来ない内、千歳村の石山氏は無闇《むやみ》と乗地《のりじ》になって、幸《さいわ》い三つばかり売地があると知らしてよこした。あまり進みもしなかったが、兎に角往って見た。
一は上祖師ヶ谷で青山《あおやま》街道《かいどう》に近く、一は品川へ行く灌漑《かんがい》用水の流れに傍《そ》うて居た。此等《これら》は彼が懐《ふところ》よりも些《ちと》反別が広過ぎた。最後に見たのが粕谷の地所《じしょ》で、一反五畝余。小高く、一寸見晴らしがよかった。風に吹飛ばされぬようはりがねで白樫《しらかし》の木にしばりつけた土間共十五坪の汚ない草葺の家が附いて居る。家の前は右の樫の一列から直ぐ麦畑《むぎばたけ》になって、家の後は小杉林から三角形の櫟林《くぬぎばやし》になって居る。地面は石山氏外一人の所有で、家は隣字《となりあざ》の大工の有であった。其大工の妾《めかけ》とやらが子供と棲んで居た。此れで我慢するかな、彼は斯く思いつゝ帰った。
石山氏はます/\乗地になって頻に所決を促す。江州からはたよりが無い。財布は日に/\軽くなる。彼は到頭粕谷の地所にきめて、手金を渡した。
手金を渡すと、今度は彼があせり出した。万障《ばんしょう》一排《いっぱい》して二月二十七日を都落《みやこおち》の日と定め、其前日二十六日に、彼等夫婦は若い娘を二人連れ、草箒《くさぼうき》と雑巾《ぞうきん》とバケツを持って、東京から掃除《そうじ》に往った。案外道が遠かったので、娘等は大分弱った。雲雀《ひばり》の歌が纔《わずか》に一同の心を慰めた。
来て見ると、前日中に明け渡す約束なのに、先住《せんじゅう》の人々はまだ仕舞《しま》いかねて、最後の荷車に物を積んで居た。以前石山君の壮士《そうし》をしたと云う家主《やぬし》の大工とも挨拶《あいさつ》を交換した。其妾と云う髪《かみ》を乱《みだ》した女は、都の女等を憎《に》くさげに睨《にら》んで居た。彼等は先住の出で去るを待って、畑の枯草の上に憩《いこ》うた。小さな墓場一つ隔てた東隣《ひがしどなり》の石山氏の親類だと云う家《うち》のおかみが、莚《むしろ》を二枚貸してくれ、土瓶の茶や漬物の丼《どんぶり》を持て来てくれたので、彼等は莚の上に座《すわ》って、持参の握飯を食うた。
十五六の唖に荷車を挽《ひ》かして、出る人々はよう/\出て往った。待ちかねた彼等は立上って掃除に向った。引越しあとの空家《あきや》は総じて立派なものでは無いが、彼等はわが有《もの》になった家《うち》のあまりの不潔に胸をついた。腐れかけた麦藁屋根《むぎわらやね》、ぼろ/\崩《くず》れ落ちる荒壁、小供の尿《いばり》の浸《し》みた古畳《ふるだたみ》が六枚、茶色に煤《すす》けた破れ唐紙が二枚、蠅《はえ》の卵《たまご》のへばりついた六畳一間の天井と、土間の崩れた一つ竈《へっつい》と、糞壺《くそつぼ》の糞と、おはぐろ色した溷《どぶ》の汚水《おすい》と、其外あらゆる塵芥《ごみ》を残して、先住は出て往った。掃除の手をつけようもない。女連は長い顔をして居る。彼は憤然《ふんぜん》として竹箒押取り、下駄ばきのまゝ床《ゆか》の上に飛び上り、ヤケに塵の雲を立てはじめた。女連も是非なく手拭《てぬぐい》かぶって、襷《たすき》をかけた。
二月の日は短い。掃除半途に日が入りかけた。あとは石山氏に頼んで、彼等は匆惶《そそくさ》と帰途に就いた。今日《きょう》も甲州街道に馬車が無く、重たい足を曳きずり/\漸《ようや》く新宿に辿《たど》り着いた時は、女連はへと/\になって居た。
二
明くれば明治四十年二月二十七日。ソヨとの風も無い二月には珍らしい美日《びじつ》であった。
村から来てもらった三台の荷馬車と、厚意で来てくれた耶蘇教信者仲間の石山氏、角田新五郎氏、臼田《うすだ》氏、角田勘五郎氏の息子、以上四台の荷車に荷物をのせて、午食《ひる》過ぎに送り出した。荷物の大部分は書物と植木であった。彼は園芸《えんげい》が好きで、原宿五年の生活に、借家《しゃくや》に住みながら鉢物も地植のものも可なり有って居た。大部分は残して置いたが、其れでも原宿から高樹町へ持て来たものは少くはなかった。其等は皆持て行くことにした。荷車の諸君が斯様なものを、と笑った栗、株立《かぶだち》の榛《はん》の木まで、駄々を捏《こ》ねて車に積んでもろうた。宰領《さいりょう》には、原宿住居の間よく仕事に来た善良《ぜんりょう》な小男の三吉と云うのを頼んだ。
加勢に来た青年と、昨日粕谷に掃除に往った娘とは、おの/\告別して出て往った。暫く逗留して居た先の女中も、大きな風呂敷包を負って出て往った。隣に住む家主は、病院で重態であった。其|細君《さいくん》は自宅から病院へ往ったり来たりして居た。甚だ心ないわざながら、彼等は細君に別《わかれ》を告げねばならなかった。別を告げて、門を出て見ると、門には早や貸家札《かしやふだ》が張られてあった。
彼等夫妻は、当分加勢に来てくれると云う女中を連れ、手々に手廻《てまわ》りのものや、ランプを持って、新宿まで電車、それから初めて調布行きの馬車に乗って、甲州街道を一時間余ガタくり、馭者《ぎょしゃ》に教えてもらって、上高井戸《かみたかいど》の山谷《さんや》で下りた。
粕谷田圃に出る頃、大きな夕日《ゆうひ》が富士の方に入りかゝって、武蔵野一円|金色《こんじき》の光明を浴《あ》びた。都落ちの一行三人は、長い影《かげ》を曳《ひ》いて新しい住家《すみか》の方へ田圃を歩いた。遙向うの青山街道に車《くるま》の軋《きし》る響《おと》がするのを見れば、先発の荷馬車が今まさに来つゝあるのであった。人と荷物は両花道《りょうはなみち》から草葺の孤屋《ひとつや》に乗り込んだ。
昨日《きのう》掃除しかけて帰った家には、石山氏に頼んで置いた縁《へり》無しの新畳が、六畳二室に敷かれて、流石に人間の住居らしくなって居た。昨日頼んで置いたので、先家主の大工《だいく》が、六畳裏の蛇でものたくりそうな屋根裏《やねうら》を隠す可く粗末な天井を張って居た。
日の暮れ/″\に手車《てぐるま》の諸君も着いた。道具《どうぐ》の大部分は土間に、残りは外に積《つ》んで、荷車荷馬車の諸君は茶一杯飲んで帰って行った。兎も角もランプをつけて、東京から櫃《おはち》ごと持参《じさん》の冷飯で夕餐《ゆうげ》を済まし、彼等夫妻は西の六畳に、女中と三吉は頭合せに次の六畳に寝た。
明治の初年、薩摩近い故郷《こきょう》から熊本に引出で、一時|寄寓《きぐう》して居た親戚の家から父が買った大きな草葺のあばら家に移った時、八歳の兄は「破れ家でも吾家《わがいえ》が好い」と喜んで踊ったそうである。
生れて四十年、一|反《たん》五|畝《せ》の土と十五坪の草葺のあばら家《や》の主《ぬし》になり得た彼は、正に帝王《ていおう》の気もちで、楽々《らくらく》と足踏み伸ばして寝たのであった。
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村入
引越の翌日は、昨日の温和に引易えて、早速《さっそく》田園生活の決心を試すかの様な烈しいからッ風であった。三吉は植木《うえき》を植えて了うて、「到底一年とは辛抱《しんぼう》なさるまい」と女中に囁《ささ》やいて帰って往った。昨日荷車を挽《ひ》いた諸君が、今日も来て井戸を浚《さら》えてくれた。家主の彼は、半紙二帖、貰物《もらいもの》の干物少々持って、近所四五軒に挨拶に廻《まわ》った。其翌日は、石山氏の息子の案内で、一昨、昨両日骨折ってくれられた諸君の家を歴訪して、心ばかりの礼を述べた。臼田君の家は下祖師ヶ谷で、小学校に遠からず、両《りょう》角田君《つのだくん》は大分離れて上祖師ヶ谷に二軒隣り合い、石山氏の家と彼自身の家《うち》は粕谷にあった。何れも千歳村の内ながら、水の流るゝ田圃《たんぼ》に下《お》りたり、富士大山から甲武連山《こうぶれんざん》を色々に見る原に上ったり、霜解《しもどけ》の里道を往っては江戸みちと彫った古い路しるべの石の立つ街道を横ぎり、樫《かし》欅《けやき》の村から麦畑、寺の門から村役場前と、廻れば一里もあるかと思われた。千歳村は以上三の字《あざ》の外、船橋《ふなばし》、廻沢《めぐりさわ》、八幡山《はちまんやま》、烏山《からすやま》、給田《きゅうでん》の五字を有ち、最後の二つは甲州街道に傍《そ》い、余は何れも街道の南北一里余の間にあり、粕谷が丁度中央で、一番戸数の多いが烏山二百余戸、一番少ないのが八幡山十九軒、次は粕谷の二十六軒、余は大抵五六十戸だと、最早《もう》そろ/\小学の高等科になる石山氏の息子《むすこ》が教えてくれた。
期日は三月一日、一月おくれで年中行事をする此村では二月一日、稲荷講《いなりこう》の当日である。礼廻りから帰った彼は、村の仲間入すべく紋付羽織に更《あらた》めて、午後石山氏に跟《つ》いて当日の会場たる下田氏の家に往った。
其家は彼の家から石山氏の宅に往く中途で、小高い堤《どて》を流るゝ品川堀《しながわぼり》と云う玉川浄水の小さな分派《わかれ》に沿うて居た。村会議員も勤むる家《うち》で、会場は蚕室《さんしつ》の階下であった。千歳村でも戸毎に蚕《かいこ》は飼いながら、蚕室を有つ家は指を屈する程しか無い。板の間に薄べり敷《し》いて、大きな欅の根株《ねっこ》の火鉢が出て居る。十五六人も寄って居た。石山氏が、
「これは今度東京から来《き》されて仲間に入れておもらい申してァと申されます何某《なにがし》さんで」
と紹介《しょうかい》する。其尾について、彼は両手《りょうて》をついて鄭重《ていちょう》にお辞儀《じぎ》をする。皆が一人※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]《ひとりひとり》来ては挨拶する。石山氏の注意で、樽代《たるだい》壱円仲間入のシルシまでに包んだので、皆がかわる/″\みやげの礼《れい》を云う。粕谷は二十六軒しかないから、東京から来て仲間に入《はい》ってくれるのは喜ばしいと云う意を繰り返し諸君が述べる。会衆中で唯《ただ》一人チョン髷《まげ》に結った腫《は》れぼったい瞼《まぶた》をした大きな爺《じい》さんが「これははァ御先生様《ごせんせいさま》」と挨拶した。
やがてニコ/\笑って居る恵比須顔《えびすがお》の六十|許《ばかり》の爺さんが来た。石山氏は彼を爺さんに紹介して、組頭の浜田さんであると彼に告げた。彼は又もや両手をついて、何も分からぬ者ですからよろしく、と挨拶する。
二十五六人も寄った。これで人数は揃ったのである。煙草《たばこ》の烟《けむり》。話声。彼真新しい欅の根株の火鉢を頻に撫でて色々に評価する手合《てあい》もある。米の値段の話から、六十近い矮《ちいさ》い真黒な剽軽《ひょうきん》な爺さんが、若かった頃米が廉《やす》かったことを話して、
「俺《わし》と卿《おまえ》は六合の米よ、早くイッショ(一緒《いっしょ》、一|升《しょう》)になれば好い」
なんか歌ったもンだ、と中音《ちゅうおん》に節《ふし》をつけて歌い且話して居る。
腰の腫物《はれもの》で座蒲団も無い板敷の長座は苦痛《くつう》の石山氏の注意で、雑談会《ざつだんかい》はやおら相談会に移った。慰兵会の出金問題《しゅっきんもんだい》、此は隣字から徴兵《ちょうへい》に出る時、此字から寸志を出す可きや否の問題である。馬鹿々々しいから出すまいと云う者もあったが、然し出して置かねば、此方から徴兵に出る時も貰う訳に行かぬから、結局出すと云う事に決する。
其れから衛生委員《えいせいいいん》の選挙、消防長の選挙がある。テー
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