村の口きゝ石山某に、女一人子一人あった。弟は一人前なかったので婿養子をしたが、婿《むこ》と舅の折合が悪い為に、老夫婦《としよりふうふ》は息子を連れて新家に出た。今《いま》解《と》き崩されて片々《ばらばら》に売られつゝある家《うち》が即ち其れなのである。己が娘に己が貰った婿ながら、気が合わぬとなれば仇敵より憎く、老夫婦《としよりふうふ》は家財道具万端好いものは皆《みな》引《ひき》たくる様にして持って出た。よく実る柿の木まで掘って持って往った。
痴《おろか》な息子も年頃になったので、調布在から出もどりの女を嫁にもろうてやった。名をお広《ひろ》と云って某の宮様にお乳をあげたこともある女であった。婿入《むこいり》の時、肝腎《かんじん》の婿さんが厚い下唇を突出したまま戸口もとにポカンと立って居るので、皆ドッと笑い出した。久太郎が彼の名であった。
久さんに一人の義弟があった。久さんが生れて間もなく、村の櫟林《くぬぎばやし》に棄児《すてご》があった。農村には人手が宝《たから》である。石山の爺さんが右の棄児を引受《ひきう》けて育てた。棄児は大きくなって、名を稲次郎《いねじろう》と云った。彼の養父、久さんの実父は、一人前に足りぬ可愛の息子《むすこ》が行《ゆ》く/\の力にもなれと、稲次郎の為に新家の近くに小さな家を建て彼にも妻をもたした。
ある年の正月、石山の爺さんは年始に行くと家《うち》を出たきり行方不明になった。探がし探がした結果、彼は吉祥寺《きちじょうじ》、境間の鉄道線路の土をとった穴の中に真裸になって死んで居た。彼は酒が好きだった。年始の酒に酔って穴の中に倒れ凍死《こごえし》んだのを物取りが来て剥《は》いだか、それとも追剥《おいはぎ》が殺して着物を剥いだか、死骸《しがい》は何も告げなかった。彼は新家の直ぐ西隣にある墓地に葬られた。
主翁《おやじ》が死んで、石山の新家は※[#「女+息」、第4水準2−5−70]《よめ》の天下《てんか》になった。誰も久《ひさ》さんの家《うち》とは云わず、宮前のお広さんの家と云った。宮前は八幡前を謂うたのである。外交も内政も彼女の手と口とでやってのけた。彼女は相応《そうおう》に久さんを可愛《かあい》がって面倒を見てやったが、無論亭主とは思わなかった。一人前に足らぬ久さんを亭主にもったおかみは、義弟《ぎてい》稲次郎の子を二人まで生《う》んだ。其子は兄が唖で弟が盲であった。罪の結果は恐ろしいものです、と久さんの義兄はある人に語った。其内、稲次郎は此辺で所謂|即座師《そくざし》、繭買《まゆかい》をして失敗し、田舎の失敗者が皆する様に東京に流れて往って、王子《おうじ》で首を縊《くく》って死んだ。其妻は子供を連れて再縁し、其住んだ家は隣字《となりあざ》の大工が妾の住家となった。私も棺桶をかつぎに往きましたでサ、王子まで、と久さん自身稲次郎の事を問うたある人に語った。
三
背後は雑木林、前は田圃《たんぼ》、西隣は墓地、東隣は若い頃彼自身遊んだ好人の辰《たつ》爺《じい》さんの家、それから少し離れて居るので、云わば一つ家の石山の新家は内証事《ないしょうごと》には誂向《あつらえむ》きの場所だった。石山の爺さんが死に、稲次郎も死んだあと、久さんのおかみは更に女一人子一人生んだ。唖と盲は稲次郎の胤《たね》と分ったが、彼《あの》二人《ふたり》は久さんのであろ、とある人が云うたら、否、否、あれは何某《なにがし》の子でさ、とある村人は久さんで無い外の男の名を云って苦笑《にがわらい》した。Husband−in−Law の子で無い子は、次第に殖《ふ》えた。殖えるものは、父を異にした子ばかりであった。新家に出た時石山の老夫婦が持て出た田畑財産は、段々に減って往った。本家から持ち出したものは、少しずつ本家へ還《かえ》って往った。新家は博徒|破落戸《ならずもの》の遊び所になった。博徒の親分は、人目を忍ぶに倔強な此家を己《わ》が不断《ふだん》の住家にした。眼のぎろりとした、胡麻塩髯《ごましおひげ》の短い、二度も監獄の飯を食った、丈の高い六十|爺《じじい》の彼は、村内に己が家はありながら婿夫婦《むこふうふ》を其家に住まして、自身は久さんの家を隠れ家にした。昼《ひる》は炉辺《ろべた》の主の座にすわり、夜は久さんのおかみと奥の間に枕を並《なら》べた。久さんのおかみは亭主の久さんに沢庵《たくわん》で早飯食わして、僕《ぼく》かなんぞの様に仕事に追い立て、あとでゆる/\鰹節《かつぶし》かいて甘《うま》い汁《しる》をこさえて、九時頃に起き出て来る親分に吸わせた。親分はまだ其上に養生の為と云って牛乳なぞ飲んだ。
「俺《おら》ァ嬶《かか》とられちゃった」と久さんは人にこぼしながら、無抵抗主義を執って僕の如く追い使われた。戸籍面の彼の子供は皆彼を馬鹿にした。久さんのおかみは「良人《やど》が正直《しょうじき》だから、良人が正直だから」と流石に馬鹿と云いかねて正直と云った。東隣のおとなしい媼《ばあ》さんも「久さん、お広さんは今何してるだンべ?」などからかった。久さんは怪訝《けげん》な眼を上げて、「え?」と頓狂《とんきょう》な声を出す。「何さ、今しがたお広さんがね、甜瓜《まくわ》を食《く》ってたて事よ、ふ※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]」と媼さんは笑った。久さんの家には、久さんの老母があった。然し婆《ばあ》さんは※[#「女+息」、第4水準2−5−70]の乱行《らんぎょう》家の乱脈《らんみゃく》に対して手も口も出すことが出来なかった。若い時大勢の奉公人を使っておかみさんと立てられた彼女は、八十近くなって眼液《めしる》たらして竈《へっつい》の下を焚《た》いたり、海老《えび》の様な腰をしてホウ/\云いながら庭を掃《は》いたり、杖にすがって※[#「女+息」、第4水準2−5−70]《よめ》の命のまに/\使《つか》いあるきをしたり、其《そ》れでも其《その》無能《むのう》の子を見すてゝ本家に帰ることを得《え》為《せ》なかった。それに婆《ばあ》さんは亡くなった爺さん同様酒を好んだ。本家の婿は耶蘇教信者で、一切酒を入れなかった。久さんのおかみは時々姑に酒を飲ました。白髪頭《しらがあたま》の婆さんは、顔を真赤にして居ることがあった。彼女は時々吾儘を云う四十男の久さんを、七つ八つの坊ちゃんかなんどの様に叱った。尻切《しりきれ》草履突かけて竹杖《たけづえ》にすがって行く婆さんの背《うしろ》から、鍬《くわ》をかついだ四十男の久さんが、婆さんの白髪を引張ったりイタズラをして甘えた。酒でも飲んだ時は、※[#「女+息」、第4水準2−5−70]に負け通しの婆さんも昔の権式を出して、人が久さんを雇いに往ったりするのが気にくわぬとなると、「お広《ひろ》、断わるがいゝ」と啖呵《たんか》を切った。
四
死んだ棄児《すてご》の稲次郎が古巣に、大工の妾と入れ代りに東京から書《ほん》を読む夫婦の者が越して来た。地面は久さんの義兄のであったが、久さんの家で小作をやって居た。東京から買主が越して来ぬ内に、久さんのおかみは大急ぎで裏の杉林の下枝を落したり、櫟林の落葉を掃いて持って行ったりした。買主が入り込んでのちも、其栗の木は自分が植えたの、其|韮《にら》や野菜菊は内で作ったの、其|炉縁《ろぶち》は自分のだの、と物毎に争《あらそ》うた。稲次郎の記憶が残って居る此屋敷を人手に渡すを彼女は惜んだのであった。地面は買主のでも、作ってある麦はまだおかみの麦であった。地面の主は、麦の一部を買い取るべく余儀なくされた。おかみは義兄と其|値《ね》を争うた。買主は戯談《じょうだん》に「無代《ただ》でもいゝさ」と云うた。おかみはムキになって「あなたも耶蘇教信者《やそきょうしんじゃ》じゃありませんか。信者が其様《そん》な事を云うてようござンすか」とやり込《こ》めた。彼女に恐ろしいものは無かった。ある時義兄が其|素行《そこう》について少し云々したら、泥足でぬれ縁に腰かけて居た彼女は屹《きっ》と向き直り、あべこべに義兄に喰《く》ってかゝり、老人と正直者を任《まか》せて置きながら、病人があっても本家として見もかえらぬの、慾張《よくば》ってばかり居るのと、いきり立った。彼女は人毎に本家の悪口を云って同情を獲ようとした。「本家の兄が、本家の兄が」が彼女の口癖《くちぐせ》であった。彼女は本家の兄を其魔力の下に致し得ぬを残念に思うた。相手かまわず問わず語《がた》りの勢込《いきおいこ》んでまくしかけ、「如何《いか》に兄が本《ほん》が読めるからって、村会議員《そんかいぎいん》だからって、信者だって、理《り》に二つは無いからね、わたしは云ってやりましたのサ」と口癖の様に云うた。人が話をすれば、「※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》、※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》、ふん、ふん」と鼻《はな》を鳴《な》らして聞いた。彼女の義兄も村に人望ある方ではなかったが、彼女も村では正札附の莫連者《ばくれんもの》で、堅い婦人達は相手にしなかった。村に武太《ぶた》さんと云う終始ニヤ/\笑って居る男がある。かみさんは藪睨《やぶにらみ》で、気が少し変である。ピイ/\声《ごえ》で言う事が、余程馴れた者でなければ聞きとれぬ。彼女は誰に向うても亡くした幼女の事ばかり云う。「子供ははァ背に負《おぶ》っとる事ですよ。背からおろしといたばかしで、女《むすめ》もなくなっただァ」と云いかけて、斜視《やぶ》の眼から涙をこぼして、さめ/″\泣き入るが癖である。また誰に向っても、「萩原《はぎわら》の武太郎は、五宿へ往って女郎買《じょろうかい》ばかしするやくざ者《もの》で」と其亭主の事を訴える。武太さんは村で折紙《おりがみ》つきのヤクザ者である。武太さんに同情する者は、久《ひさ》さんのおかみばかりである。「彼様な女房《にょうぼ》持ってるンだもの」と、武太さんを人が悪く言う毎《ごと》に武太さんを弁護する。然し武太さんの同情者が乏しい様に、久さんのおかみもあまり同情者を有たなかった。唯村の天理教信者のおかず媼《ばあ》さんばかりは、久さんのおかみを済度《さいど》す可く彼女に近しくした。
稲次郎のふる巣に入り込んだ新村入は、隣だけに此莫連女の世話になることが多かった。彼女も、久さんも、唖の子も、最初はよく小使銭取りに農事の手伝に来た。此方からも麦扱《むぎこ》きを借りたり、饂飩粉を挽いてもらったり、豌豆《えんどう》や里芋を売ってもらったりした。おかみも小金《こがね》を借《か》りに来たり張板を借《か》りに来たりした。其子供もよく遊びに来た。蔭でおかみも機嫌次第でさま/″\悪口を云うたが、顔を合わすと如才なく親切な口をきいた。彼女の家に集《つど》う博徒《ばくと》の若者が、夏の夜帰《よがえ》りによく新村入の畑に踏《ふ》み込《こ》んで水瓜を打割って食ったりした。新村入は用があって久さんの家《うち》に往く毎に胸を悪くして帰った。障子《しょうじ》は破れたきり張ろうとはせず、畳《たたみ》は腸《はらわた》が出たまゝ、壁《かべ》は崩《くず》れたまゝ、煤《すす》と埃《ほこり》とあらゆる不潔《ふけつ》に盈《みた》された家の内は、言語道断の汚なさであった。おかみはよく此《この》中《なか》で蚕に桑をくれたり、大肌《おおはだ》ぬぎになって蕎麦粉を挽いたり、破れ障子の内でギッチョンと響《おと》をさせて木綿機を織ったり、大きな眼鏡《めがね》をかけて縁先《えんさき》で襤褸《ぼろ》を繕《つくろ》ったりして居た。
五
新村入が村に入ると直ぐ眼についた家が二つあった。一は久さんの家《うち》で、今一つは品川堀の側にある店《みせ》であった。其店には賭博《ばくち》をうつと云う恐い眼をした大酒呑の五十余のおかみさんと、白粉を塗った若い女が居て、若い者がよく酒を飲んで居た。其後大酒呑のおかみさんは頓死して店は潰《つぶ》れ、目ざす家は久さんの家だけになった。己《わ》が住む家の歴史を知るにつけ、新村入は彼
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