ば設《もう》けたくないものである。再び得難い天然を破壊し、失い易き歴史の跡《あと》を一掃して、其結果に得る所は何であろう乎。殺風景なる境と人と、荒寥《こうりょう》たる趣味の燃え屑《くず》を残すに過ぎないのではあるまい乎。
日本国は譬《たと》えば主人が無くて雇人が乱暴する家の様だ。邦家千年の為にはかる主脳と云うものがあるならば、斯様《こん》な馬鹿げた仕打はせまい。余は日本を愛するが故に、日本が無趣味の邦《くに》となり果つるを好まぬ。余は京畿《けいき》を愛する故に、所謂文明に乱暴されつゝある京畿を見るのが苦痛である。
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義仲寺
三井寺で弁慶の力餅を食って、湖上の風光を眺める。何と云っても琵琶湖は好い。
「彼《あれ》が叡山《えいざん》です。彼が比良です。彼処《あすこ》に斯《こ》う少し湖水に出っぱった所に青黒《あおぐろ》いものが見えましょう――彼が唐崎《からさき》の松です」
余は腰《こし》かけを離れて同行の姉妹《しまい》に指《ゆびさ》した。時計を見れば、最早二時過ぎて居る。唐崎の松を遠見で済《す》まして、三井寺を下り、埠頭《はとば》から石山行の小蒸汽に乗った。
丁度八年前の此月である。今朝鮮に居る義兄と、余は同車して唐崎の松に往った。彼は夫婦仲好の呪《まじない》と云って誰でも探すと笑いつゝ、松に攀《よ》じ上り、松葉の二|対《つい》四本一頭に括《くく》り合わされたのを探し出してくれた。それから車で大津に帰り、小蒸汽で石山に往って、水際《みぎわ》の宿で鰉《ひがい》と蜆《しじみ》の馳走になり、相乗車で義仲寺《ぎちゅうじ》に立寄って宿に帰った。秋雨《あきさめ》の降ったり止んだり淋しい日であった。
斯様《こん》な事を彼が妹なる妻に話す間に、小蒸汽は汽笛を鳴らしつゝ湖水を滑べって、何時見ても好い水から湧いて出た様な膳所《ぜぜ》の城を掠《かす》め、川となるべく流れ出した湖《みずうみ》の水と共に鉄橋をくゞり、瀬田《せた》の長橋を潜《くぐ》り、石山の埠頭《はとば》に着いた。
手荷物を水畔《すいはん》の宿に預けて、石山の石に靴や下駄の音をさせつゝ、余等は石を拾《ひろ》い、紅葉を拾いつゝ、石山寺に詣《まい》った。うど闇《くら》い内陣の宝物も見た。源氏之間《げんじのま》は嘘でも本当にして置きたい様な処であった。余等は更に観月堂《かんげつどう》に上った。川を隔てゝ薄桃色に禿《は》げた※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]冠山を眺め、湖水の括《くく》れて川となるあたりに三上山《みかみやま》の蜈蚣《むかで》が這《は》い渡る様な瀬田の橋を眺め、月の時を思うて良《やや》久《ひさ》しく立去りかねた。
秋の日は用捨なく傾《かたむ》いた。今夜は宇治ときめたので、余等は山を下ると、川畔《かわばた》の宿にも憩《いこ》わず、車を雇うた。二人乗《ににんのり》が二台。最早上方でなければ滅多に二人乗は見られぬ。姉妹は生れてはじめてである。
姉妹を乗せた車は先きに、余等三人を乗せた車は之につゞいて、瀬田川《せたがわ》の岸に沿《そ》いつゝ平な道を馬場の方へ走る。日は入りかけて、樺色《かばいろ》に※[#「「燻」の「火」に代えて「日」」、第3水準1−85−42]《くん》じた雲が一つ湖天に浮《う》いて居る。湖畔の村々には夕けぶりが立ち出した。鴉《からす》が鳴く。粟津《あわづ》に来た時は、並樹の松に碧《あお》い靄《もや》がかゝった。
「此れがねえ、木曾《きそ》義仲《よしなか》が討死した粟津が原です」
と余は大きな声して先きの車を呼んだ。ふりかえった姉妹の顔も、唯ぼんやりと白かった。
車は一走《ひとはし》りして、燈火《ともしび》明《あか》るい町の唯有《とあ》る家の前に梶棒《かじぼう》を下ろした。
「何だ」
「義仲寺どす」
余は呆気《あっけ》にとられた。八年前|秋雨《あきさめ》の寂しい日に来て見た義仲寺は、古風な巷《ちまた》に嵌《はさ》まって、小さな趣ある庵《いおり》だった。
余は舌鼓《したつづみ》うって、門をたゝいて、強《しい》て開けてもらって内に入った。内は真闇《まっくら》である。車夫に提灯《ちょうちん》を持て来させて、妻や姉妹に木曾殿《きそどの》とばせをの墓を紹介《しょうかい》した。
外には汽関車の響や人声が囂々《ごうごう》と騒いで居る。
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宇治の朝
宇治《うじ》に着いたのが夜の九時。万碧楼《まんぺきろう》菊屋に往って、川沿いの座敷に導かれた。近水楼台先得月、と中井桜洲山人の額《がく》がかゝって居る。
此処《ここ》は余にも縁浅からぬ座敷である。余の伯父はすぐれた大食家《たいしょくか》で、維新の初年こゝに泊って鰻《うなぎ》の蒲焼《かばやき》を散々に食うた為、勘定に財布《さいふ》の底をはたき、淀川の三十石に乗る銭《ぜに》もないので、頬冠《ほおかむり》して川堤を大阪までてく/\歩いたものだ。伯父の血をひいた余とても御多分に洩《も》れぬ。八年前の秋、此万碧楼に泊った余は、霜枯時《しもがれどき》の客で過分の扱いを受け、紫縮緬《むらさきちりめん》の夜具など出された。御馳走《ごちそう》も伯父の甥たるに恥《は》じざる程食うた。食うてしまったあとで、蟇口《がまぐち》を覗《のぞ》いて見た余は非常に不安を感じた。そこで翌朝宿の者には遊んで来ると云い置いて、汽車で京都に帰った。少し都合もあって其日は行かれず、電報、手紙も臆劫《おっくう》だし、黙って打置《うちお》き、あくる日になって宇治に往った。万碧楼では喰逃《くいに》げが帰って来たと云う顔をして、茶代も少し奮発《ふんぱつ》したに関せず、紫縮緬の夜具は雲がくれて、あまり新しくもない木綿の夜具に寝かされた。主の方では無論覚えて居る由もない。余は独|笑坪《えつぼ》に入った。
腰硝子《こしがらす》の障子を立てたきり、此座敷に雨戸はなかった。二つともした燭台《しょくだい》の百目蝋燭の火は瞬《またた》かぬが、白い障子越しに颯々《さあさあ》と云う川瀬の響《おと》が寒い。障子をあけると、宇治の早瀬《はやせ》に九日位の月がきら/\砕《くだ》けて居る。ピッ/\ピッ/\千鳥《ちどり》が鳴《な》いて居る。
*
朝起きて顔を洗うと、余は宿の褞袍《どてら》を引かけ、一同は旅の着物になって、茶ものまず見物に出かけた。宇治橋は雪の様な霜《しも》だ。ザクリ/\下駄の二の字のあとをつけて渡る。昔|太閤様《たいこうさま》は此処から茶の水を汲ませたものだ、と案内者の口まねをしつゝ、彼出張った橋の欄間《らんま》によりかゝって見下ろす。矢を射る如き川面《かわづら》からは、真白に水蒸気が立って居る。今も変らぬ柴舟《しばぶね》が、見る/\橋の下を伏見《ふしみ》の方へ下って行く。朝日山から朝日が出かゝった。橋を渡ってまだ戸を開けたばかりの通円茶屋《つうえんぢゃや》の横手から東へ切れ込み、興聖寺《こうしょうじ》の方に歩む。美しい黄の色が眼を射ると思えば、小さな店に柚子《ゆず》が小山と積んである。何と云う種類《しゅるい》か知らぬが、朱欒《ざぼん》程もある大きなものだ。旅先《たびさき》ながら看過《みすご》し難くて、二銭五厘宛で五個買い、万碧楼に届けてもらう。
興聖寺の石門《せきもん》は南面して正に宇治の急流《きゅうりゅう》に対して居る。岩を截《き》り開いた琴阪とか云う嶝道《とうどう》を上って行く。左右の崖《がけ》から紅に黄に染みた槭《もみじ》が枝をさしのべ落葉を散らして、頭上は錦《にしき》、足も錦を踏んで行く。一丁も上って唐風《からふう》の小門に来た。此処から来路《らいろ》を見かえると、額縁《がくぶち》めいた洞門《どうもん》に劃《しき》られた宇治川の流れの断片が見える。金剛不動の梵山《ほんざん》に趺座《ふざ》して、下界|流転《るてん》の消息は唯一片、洞門を閃《ひら》めき過ぐる川水の影に見ると云う趣。心憎《こころにく》い結構の寺である。
※[#「士/冖/石/木」、第4水準2−15−30]駝師《うえきや》が剪裁《せんさい》の手を尽した小庭を通って、庫裡《くり》に行く。誰も居ない。尾の少し欠《か》けた年《とし》古《ふ》りた木魚と小槌《こづち》が掛けてある。二つ三つたゝいたが、一向出て来ぬ。四つ五つ破《わ》れよと敲《たた》く。無作法の響《おと》がやっと奥に通じて、雛僧《すうそう》が一人出て来た。別に宝物《ほうもつ》を見るでもなく、記念に画はがきなど買って出る。
雲上《うんじょう》から下界に降る心地して、惜しい嶝道《とうどう》を到頭下り尽した。石門を出ると、川辺に幾艘の小舟が繋《つな》いである。小旗など立てた舟もある。船頭が上って来て乗れとすゝめる。
「如何《どう》だ、舟で渡って見ようか」
「えゝ、渡りましょう」
一同舟に乗った。
川上を見ると、獅子飛《ししと》び、米漉《こめかし》など云う難所に窘《いじ》められて来た宇治川は、今山開け障《さわ》るものなき所に流れ出て、弩《いしゆみ》をはなれた箭《や》の勢を以て、川幅一ぱいの勾配《こうばい》ある水を傾けて流して来る。紅に黄に染めた上流両岸の山は、碧《あお》い朝靄《あさもや》を被《き》て、山蔭の水も千反《せんたん》の花色綸子《はないろりんず》をはえたらん様に、一たび山蔭を出て朝日が射《さ》すあたりに来ると、水も目がさめた様に麗々《れいれい》と光り渡って、滔々《とうとう》と推し流して来る。瀬の音がごう/\/\、ざあ/\ざあと川面《かわつら》一面に響く。
「好いなァ」思わず声をあげる。
船頭は軋々《ぎいぎい》と櫓の響《おと》をさせて、ほゞ山形《やまなり》に宇治川を渡す。
「何て奇麗な水でしょう」妻は舷側《ふなばた》の水を両手に掬《すく》い上げて川を讃《ほ》める。鶴子が真似《まね》る。
平等院《びょうどういん》の岸近く細長い島がある。浮島と云うそうだ。島を蔽《おお》う枯葭《かれよし》の中から十三層の石輪塔《せきりんとう》が見える。
「あの塔は何かね、先には見かけなかった様だが」
「近頃掘り出したンどす。宝塔《ほうとう》たら云うてナ、あんたはん」
と船頭が説明する。水は早し、川幅《かわはば》は一丁には越えぬ。惜しと思うまに渡してしまって、舟は平等院|上手《かみて》の岸についた。
舟賃《ふなちん》を払うて、其処《そこ》に三つ四つ設けられた茶店の前を過ぎて、美《うつく》しい紅葉を拾《ひろ》いつゝ余等は平等院に入った。
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嫩草山の夕
奈良は奠都《てんと》千百年祭で、町は球燈《きゅうとう》、見せ物、人の顔と声とで一ぱいであった。往年《おうねん》泊《とま》った猿沢池《さるさわのいけ》の三景楼に往ったら、主が変《かわ》って、名も新猫館《しんねこかん》と妙なものに化《ば》けて居る。うんざりしたが、思い直して、こゝに車を下りた。
茶一|碗《わん》、直ぐ見物に出かける。
上方客《かみがたきゃく》、東京っ子、芸者、学生の団体、西洋人、生きた現代は歴史も懐古も詩も歌も蹂躙《じゅうりん》して、鹿も驚いた顔をして居る。其|雑沓《ざっとう》の中を縫《ぬ》うて、先ず春日祠《かすがし》に詣《もう》でた。田舎みやげの話し草に、若宮前で御神楽《おかぐら》をあげて、ねじり廊《ろう》の横手を通ると、種々の木の一になって育って居る木がある。寄木《やどりぎ》、と札を立てゝある。大阪あたりの娘らしいのが、「良平《りょうへい》さんよ」と云う。お新さんがお糸さんと顔見合わせて莞爾《にっこり》した。お新さんは窃《そっ》と其内の椿の葉を記念の為にちぎった。
嫩草山《わかくさやま》の麓の茶屋に来た頃は、秋の日が入りかけた。草履《ぞうり》をはいた娘子供が五六人、たら/\と滑《すべ》る様に山から下りて来た。
「如何《どう》だ、上って見ようか」
「え、上りましょう」
足の悪いお新さんと鶴子を茶店《ちゃみせ》に残して、余は靴《くつ》のまゝ、二人の女は貸草履に穿《は》き更《か》えて上りはじめた。
名を聞いてだに優にやさしい嫩草山は、見て美しく思うてなつかしい山である。
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