八年前の十一月初めて奈良に来た夕《ゆうべ》、三景楼の二階から紺青《こんじょう》にけぶる春日山に隣りして、貂《てん》の皮もて包んだ様な暖かい色の円満《ふっくら》とした嫩草山の美しい姿を見た時、余の心は如何様《どんな》に躍《おど》ったであろう。丁度|誂《あつら》えたように十五夜のまん丸な月が其上に出て居た。然し其時は遽《あわ》たゞしい旅、山に上るも果《はた》さなかった。今はじめて其|懐《ふところ》を辿《たど》るのである。
霜枯《しもが》れそめた矮《ひく》い薄《すすき》や苅萱《かるかや》や他の枯草の中を、人が踏みならした路が幾条《いくすじ》か麓《ふもと》から頂《いただき》へと通うて居る。余等は其一を伝うて上った。打見たよりも山は高く、思うたよりも路は急に、靴の足は滑りがちで、約十五分を費やして上り果てた時は、額《ひたい》も背《せな》も汗《あせ》ばんで居た。頂はやゝ平坦《へいたん》になって、麓からは見えなかった絶頂が、まだ二重になって背《うしろ》に控《ひか》えて居る。唯一つある茶店は最早《もう》店をしまいかけて、頂には遊客《ゆうかく》の一人もなかった。
余等《よら》は額の汗を拭《ぬぐ》うて、嫩草山の頂から大和の国の国見をすべく眼を放《はな》った。
夕《ゆうべ》である。
日はすでに河内《かわち》の金剛山《こんごうせん》と思うあたりに沈んで、一抹《いちまつ》殷紅色《あんこうしょく》の残照《ざんしょう》が西南の空を染めて居る。西|生駒《いこま》、信貴《しぎ》、金剛山、南吉野から東|多武峰《とうのみね》初瀬《はつせ》の山々は、大和平原をぐるりと囲《かこ》んで、蒼々《そうそう》と暮れつゝある。此|暮山《ぼざん》の屏風《びょうぶ》に包まれた大和の国原《くにはら》には、夕けぶり立つ紫の村、黄ばんだ田、明るい川の流れ、神武陵、法隆寺、千年二千年の昔ありしもの、今生けるものゝ総《すべ》てが、夜の安息に入る前に、日に名残を惜んで居る。
余等は麓の方に向うて、「おゝい」と声をかけた。一つの影が縁台《えんだい》をはなれて、山をのぼりはじめた。それは鶴子を負《お》うた車夫であった。やがて上りついて、鶴子は下り立った。
余等は更に眺《なが》めた。最早麓に一人残ったお新さんの影もよくは見えない。
直ぐ後の方でがさ/\と草が鳴ったと思うたら、夕空《ゆうぞら》に映《うつ》って大きな黒い影が二つぬうと立って居る。其れは鹿であった。
足の下で、奈良《なら》の町の火が美しくつき出した。蜂《はち》の群《む》れの唸※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《つぶやき》の様な人声物音が響く。
ぼうン!
麓の方で晩鐘《いりあい》が鳴り出した。其鐘の音《ね》に促《うな》がさるゝかの如く、鴉《からす》が唖※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]《あああ》と鳴いて、山の暮から野の黄昏《たそがれ》へと飛んで行く。
余等は今一度眼を平原《へいげん》に放った。最早日の名残も消えて、眼に入る一切のものは蒼《あお》い靄《もや》に包まれた。
大和は今暮るゝのである。
底本:「みみずのたはこと(上)」岩波文庫、岩波書店
1938(昭和13)年4月15日第1刷発行
1996(平成8)年12月10日第30刷(入力)
2001(平成13)年11月7日第32刷(校正)
「みみずのたはこと(下)」岩波文庫、岩波書店
1938(昭和13)年6月1日第1刷発行
1996(平成8)年12月10日第25刷(入力)
2001(平成13)年11月7日第27刷(入力、校正)
底本の親本:「みみずのたはこと」岩波書店
1933(昭和8)年刊
入力:奥村正明、小林繁雄
校正:小林繁雄
2002年9月27日作成
2003年5月25日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全69ページ中69ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング