こんい》で、つい先月も遊びに往って来ました」
と云って、主は戸棚《とだな》から一括《いっかつ》した手紙はがきを取り出し、一枚ずつめくって、一枚のはがきを取り出して見せた。まさしく其人の名がある。
「かみさんも一緒《いっしょ》ですかね?」
 実は彼は内地の郷里に妻子を置いて、渡道《とどう》したきり、音信不通《いんしんふつう》だが、風のたよりに彼地で妻を迎えて居ると云うことが伝えられて居るのであった。
「エ、かみさんも一緒に居ます。子供ですか、子供は居ません。たしか大きいのが満洲《まんしゅう》に居るとか云うことでしたっけ」
 案外早く埒《らち》が明《あ》いたので、余は礼を云って、直ぐ白糠《しらぬか》へ引かえした。
「分かってようございました。エ、彼《あの》人《ひと》ですか、たしか淡路《あわじ》の人だと云います。飯屋《めしや》をして、大分儲けると云うことです」と案内者は云うた。
 白糠の宿に帰ると、秋の日が暮れて、ランプの蔭《かげ》に妻児《さいじ》が淋しく待って居た。夕飯を食って、八時過ぎの終列車で釧路に引返えす。
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      北海道の京都

 釧路で尋ぬるM氏に会って所要を果し、翌日池田を経て※[#「陸」の「こざとへん」に代えて「冫」、下巻−181−2]別《りくんべつ》に往って此行第一の目的なる関寛翁訪問を果し、滞留六日、旭川一泊、小樽一泊して、十月二日二たび札幌に入った。
 往きに一昼二夜、復えりに一昼夜、皮相《ひそう》を瞥見《べっけん》した札幌は、七年前に見た札幌とさして相違を見出す事が出来なかった。耶蘇教《やそきょう》信者が八万の都府《とふ》に八百からあると云う。唯《ただ》一台来た自動車を市の共議で排斥したと云う。二日の夜は独立教会でT牧師の説教を聞いて山形屋に眠り、翌日はT君、O君等と農科大学を見に往った。博物館で見た熊の胃から出たアルコール漬の父親の手子供の手は、余の頭を痛くした。明治十四五年まで此札幌の附近にまだ熊が出没したと思えば、北海道も開けたものである。宮部《みやべ》博士の説明で二三植物標本を見た。樺太《かばふと》の日露国境の辺で採収《さいしゅう》して新に命名された紫のサカイツヽジ、其名は久しく聞いて居た冬虫夏草《とうちゅうかそう》、木の髄《ずい》を腐らす猿の腰かけ等。それから某君によりて昆虫の標本を示され、美しい蝶、命短い蜉蝣《ふゆう》の生活等につき面白い話を聞いた。楡《にれ》の蔭うつ大学の芝生、アカシヤの茂る大道の並木、北海道の京都札幌は好《よ》い都府である。
 余等は其日の夜汽車で札幌を立ち、あくる一日を二たび大沼公園の小雨《こさめ》に遊び暮らし、其夜函館に往って、また梅が香丸で北海道に惜しい別れを告げた。
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      津軽

 青森に一夜|明《あか》して、十月六日の朝|弘前《ひろさき》に往った。
 津軽《つがる》は今|林檎《りんご》王国の栄華時代である。弘前の城下町を通ると、ケラを被《き》て目かご背負うた津軽女《つがるめ》も、草履はいて炭馬をひいた津軽男も、林檎|喰《く》い/\歩いて居る。代官町《だいかんまち》の大一と云う店で、東京に二箱仕出す。奥深《おくぶか》い店は、林檎と、箱と、巨鋸屑《おがくず》と、荷造りする男女で一ぱいであった。
 古い士族町、新しい商業町、場末《ばすえ》のボロ町を通って、岩木川《いわきがわ》を渡り、城北三里|板柳《いたやぎ》村の方へ向うた。まだ雪を見ぬ岩木山は、十月の朝日に桔梗の花の色をして居る。山を繞《めぐ》って秋の田が一面に色づいて居る。街道は断続|榲※[#「木+孛」、第3水準1−85−67]《まるめろ》の黄《き》な村、林檎の紅い畑を過ぎて行く。二時間ばかりにして、岩木川の長橋を渡り、田舎町には家並《やなみ》の揃《そろ》うて豊らしい板柳村に入った。
 板柳村のY君は、林檎園の監督をする傍、新派の歌をよみ文芸を好む人である。一二度粕谷の茅廬にも音ずれた。余等はY君の家に一夜|厄介《やっかい》になった。文展《ぶんてん》で評判の好かった不折《ふせつ》の「陶器つくり」の油絵、三千里の行脚《あんぎゃ》して此処にも滞留《たいりゅう》した碧梧桐「花林檎」の額、子規、碧、虚の短冊、与謝野夫妻、竹柏園社中の短冊など見た。十五町歩の林檎園に、撰屑《よりくず》の林檎の可惜《あたら》転《ころ》がるのを見た。種々の林檎を味わうた。夜はY君の友にして村の重立たる人々にも会うた。余はタァナァ水彩画帖をY君に贈り、其フライリーフに左の出たらめを書きつけた。
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林檎|朱《あけ》に榲※[#「木+孛」、第3水準1−85−67]《まるめろ》黄なる秋の日を
    岩木山下《いわきさんか》に君とかたらふ
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 あくる朝は早く板柳村を辞した。岩木川の橋を渡って、昨夜会面した諸君に告別し、Y君の案内により大急ぎで舞鶴城へかけ上り、津軽家祖先の甲冑《かっちゅう》の銅像の辺から岩木山を今一度眺め、大急ぎで写真をとり、大急ぎで停車場にかけつけた。Y君も大鰐《おおわに》まで送って来て、こゝに袂《たもと》を分《わか》った。余等はこれから秋田、米沢、福島を経《へ》て帰村す可く汽車の旅をつゞけた。
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     紅葉狩

      紅葉

 嫁《とつ》いで京都に往って居る季《すえ》の女《むすめ》の家を訪うべく幾年か心がけて居た母と、折よく南部《なんぶ》から出て来た寄生木《やどりぎ》のお新お糸の姉妹を連れて、余の家族を合せて同勢《どうぜい》六人京都に往った。松蕈《まつだけ》に晩《おそ》く、紅葉には盛りにちと早いと云う明治四十三年の十一月中旬。
 京都に着いて三日目に、高尾《たかお》槇尾《まきのお》栂尾《とがのお》から嵐山《あらしやま》の秋色を愛ずべく、一同車を連《つら》ねて上京の姉の家を出た。堀川《ほりかわ》西陣《にしじん》をぬけて、坦々《たんたん》たる白土の道を西へ走る。丹波から吹いて来る風が寒い。行手には唐人《とうじん》の冠《かむり》を見る様に一寸青黒い頭《あたま》の上の頭をかぶった愛宕山《あたごやま》が、此辺一帯の帝王|貌《がお》して見下ろして居る。御室《おむろ》でしばらく車を下りる。株立ちの矮《ひく》い桜は落葉し尽して、からんとした中に、山門《さんもん》の黄が勝った丹塗《にぬり》と、八分の紅を染めた楓《もみじ》とが、何とも云えぬ趣《おもむき》をなして居る。余は御室が大好きである。直ぐ向うのならびが岡の兼好《けんこう》が書いた遊びずきの法師達が、児《ちご》を連れて落葉に埋《うず》めて置いた弁当を探して居やしないか、と見廻《みま》わしたが、人の影はなくて、唯小鳥の囀《さえず》る声ばかりした。
 車は走せて梅が畑へ来た。柴車《しばぐるま》を挽《ひ》いて来るおばさんも、苅田《かりた》をかえして居る娘も、木綿着ながらキチンとした身装《みなり》をして、手甲《てっこう》かけて、足袋はいて、髪は奇麗《きれい》に撫《な》でつけて居る。労働が余所目《よそめ》に美しく見られる。日あたり風あたりが暴《あら》く、水も荒く、軽い土が耳の中鼻の中まで舞《ま》い込《こ》む余の住む武蔵野の百姓女なぞは中々、斯《こ》う美しくはして居られぬ。八年前余は独歩《どっぽ》嵐山から高尾に来た時、時雨《しぐれ》に降られて、梅が畑の唯有《とあ》る百姓家に※[#「足へん+包」、第3水準1−92−34]《か》け込んで簑《みの》を借りた。山吹の花さし出す娘はなくて、婆《ばあ》さんが簑を出して呉れたが、「おべゝがだいなしになるやろ」と云うので、余は羽織《はおり》を裏返えしに着て、其上に簑を被《はお》り、帽子を傾けて高尾に急いだ。瓢箪《ひょうたん》など肩にして芸子と番傘の相合傘《あいあいがさ》で帰って来る若い男等が、「ヨウ、勘平|猪打《ししうち》の段か」などゝ囃《はや》した。
 いよ/\高尾に来た。車を下りて、車夫《くるまや》に母を負うてもらい、白雲橋を渡って、神護寺内《じんごじない》の見晴らしに上った。紅葉《もみじ》はまだ五六分と云う処である。かけ茶屋の一に上《あが》って、姉が心尽しの弁当を楽《たの》しく開いた。余等はまた土皿投《かわらけな》げを試みた。手をはなれた土皿は、ヒラ/\/\と宙返《ちゅうがえ》りして手もとに舞い込む様に此方《こなた》の崖に落ち、中々|谷底《たにそこ》へは届《とど》かぬ。色々の色に焦《こが》れて居る山と山との間の深い谷底を清滝川《きよたきがわ》が流れて居る。川下が堰《せ》きとめられて緑礬色《りょくばんいろ》の水が湛え、褐色《かっしょく》の落葉が点々として浮いて居る。
「水を堰《せ》いて如何《どう》するのかな」
「水力電気たら云うてな、あんたはん」と茶を持て来たおばこのかみさんが云う。
 余は舌鼓《したつづみ》をうった。
 余等は高尾を出て、清滝川に沿うて遡《さかのぼ》り、槇の尾を経て、栂の尾に往った。
 栂《とが》の尾は高尾に比して瀟洒《しょうしゃ》として居る。高尾から唯少し上流に遡《さかのぼ》るのであるが、此処の楓《もみじ》は高尾よりも染《そ》めて居る。寺畔の茶屋から見ると、向う山の緑青《ろくしょう》で画《か》いた様な杉の幾本《いくもと》に映《うつ》って楓の紅が目ざましく美しい。斯栂の尾の寺に、今は昔先輩の某が避暑《ひしょ》して居たので、余は同窓《どうそう》の友と二三日泊りがけに遊びに来たものだ。其は余が十二の夏であった。余等は毎日寺の下の川淵《かわぶち》に泳《およ》ぎ、三度※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]|南瓜《とうなす》で飯を食わされた。村から水瓜《すいか》を買うて来て、川に浸《ひた》して置いて食ったりした。余は今記念の為に、川に下りて川水の中から赤い石と白い石とを拾《ひろ》った。清滝川は余にとりて思出《おもいで》多い川である。栂尾に居た年から八年程後、斯少し下流|愛宕《あたご》の麓《ふもと》清滝の里に、余は脚気《かっけ》を口実に、実は学課をなまけて、秋の一月を遊び暮らし、ミゼラブルばかり読んで居たことがある。
 栂の尾から余等は広沢《ひろさわ》の池を経《へ》て嵐山に往った。広沢の池の水が乾《ほ》されて、鮒《ふな》や、鰌《どじょう》が泥の中にばた/\して居た。
 嵐山の楓は高尾よりもまだ早かった。嵐山其ものと桂川《かつらがわ》とは旧に仍って美しいものであったが、川の此岸《こなた》には風流に屋根は萩《はぎ》で葺《ふ》いてあったが自働電話所が出来たり、電車が通い、汽車が通い、要するに殺風景《さっぷうけい》なものになり果てた。最早三船の才人《さいじん》もなければ、小督《こごう》や祇王《ぎおう》祇女|仏御前《ほとけごぜん》もなく、お半長右衛門すらあり得ない。
「暮れて帰れば春の月」と蕪村《ぶそん》の時代は詩趣満々《ししゅまんまん》であった太秦《うずまさ》を通って帰る車の上に、余は満腔《まんこう》の不平を吐《は》く所なきに悶々《もんもん》した。
 斯く云う自分も其仲間だが、何故《なぜ》我日本国民は斯く一途《いちず》になるであろう乎。彼は中々感服家で、理想実行家である。趣味の民かと思うたら、中々以て実利実功の民である。東叡山を削平《さくへい》して、不忍《しのばず》の池を埋めると意気込み、西洋人の忠告によって思いとまった日本人は、其功利の理想を盛に上方《かみがた》に実行して居る。億万円にも代えられぬ東山の胴《どう》をくりぬいて琵琶湖の水を引張《ひっぱ》って見たり、鴨東《おうとう》一帯を煙と響《おと》と臭《におい》に汚《けが》してしまったり、狭《せま》い町内に殺人電車をがたつかせたり、嵐山へ殺風景を持込《もちこ》んだり、高尾の山の中まで水力電気でかき廻《ま》わしたり、努力、実益、富国、なんかの名の下に、物質的|偏狂人《へんきょうじん》の所為《しょい》を平気にして居る。心ある西洋人は何と見るだろう乎《か》。
 京都、奈良、伊勢、出来ることなら須磨明石舞子をかけて、永久日本の美的博物館たらしむ可きで、其処《そこ》に煙突の一本も能う可く
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