も、草木もそだてます。畑の真中にだって、坊主にされながら赤松が立って居たり、碌に実が生《な》らぬ柿の木さえ秋は美しく紅葉し、裸になっては平気に烏《からす》をとまらして居るではありませんか。私共は九州の土に生れて、彼方此方と移植され、到頭此粕谷へ来た雌雄相生の樹です。随分長い間ぐらついて居ましたが、到頭根づきました。もうちっとやそっとの風雨が来ても、びくともする事ではありません。あたりの邪魔にならぬ限り伐《き》って薪《まき》にもされず成長をつづける事が出来ようと思います。

       (四)

 村の寄合などに稀《たま》に出て、私は諸君の頭の白くなったに毎々《まいまい》驚かされます。驚く私自身が諸君に驚かるゝ程|齢《とし》をとりました。全く十七年は短い月日でありません。私共が引越当年生れた赤ン坊が、もう十七になるのです。赤ン坊が青春男女になり、青年が一人前になり、男女ざかりが初老になり、老人が順繰《じゅんぐ》り土の中に入るも自然の推移《うつり》です。「みみずのたはこと」が出てから十年間に、あの書に顔を出して居る人人も、大分《だいぶ》故人になりました。
 今年の六月には、村の牧師|下曾根《しもぞね》信守《のぶもり》君を葬りました。六十九歳でした。下曾根さんは旧幕名家の出、伊豆|韮山《にらやま》の江川太郎左衛門と相並んで高島秋帆門下の砲術の名人であった下曾根金之丞は父でした。砲術家の三男に生れた下曾根さんは、夙《つと》に耶蘇教信者となり、父とは違った意味の軍人―耶蘇教伝道師になりました。先《せん》にも数年間調布町に住んで伝道し、会堂が建つばかりになって、会津へ転任して行きました。其後調布の耶蘇教が衰微《すいび》し、会堂は千歳村の信者が引取り、粕谷に持って来ました。本文の初に、私共が初めて千歳村に来て見た会堂がそれです。随分見すぼらしい会堂でした。村住居はしても、会堂の牧師になる事を私が御免蒙ったので、信者の人々は昔馴染《むかしなじみ》の下曾根さんをあらためて招聘《しょうへい》したのでした。下曾根さんは其時もう五十を過ぎ、耳が遠く、招かれても働きは思うように出来ぬと断ったそうですが、養老の意味で、たって来てもらったとの事です。私共が村入りの二月《ふたつき》目に下曾根さんは来て、信者仲間の歓迎会には私共も共々お客として招かれたのでありました。私共に代って貧乏籤《びんぼうくじ》をひいてくれた下曾根さんは、十七年間会堂|裏《うら》に自炊《じすい》生活《せいかつ》をつづけました。下曾根さんは独身で、身よりも少なく、淋しい人でした。寄る年と共にますます耳は遠くなり、貧乏教会の牧師で自身の貯金も使い果した後は、随分《ずいぶん》惨《みじめ》な生活でした。私は個人的に少許《すこし》の出金を気まぐれに続けたばかりで、会堂には一切手も足も出しませんでした。下曾根さんは貧しい羊の群を忠実に牧して、よく職務を尽しました。砲術家の出だけに明晰《めいせき》な頭脳の持主でしたが、趣味があって、書道を嗜《たしな》み、俳句を作り、水彩画をかいたり、園芸を楽しんだり、色々に趣味をもって自ら慰めて居りました。乏《とぼ》しい中から村の出金、教会としての中央への義務寄金も心ばかりはしました。亡《な》くなる前には、自身の履歴、形見分けの目録、後の処分の事まで明細に書き遺《のこ》し、洗《あら》うが如き貧しさの中から葬式|万端《ばんたん》の費用を払うて余剰《あまり》ある程の貯蓄をして置いた事が後で分かりました。信仰ある、而して流石《さすが》に武士の子らしい嗜《たしなみ》です。下曾根さんは私共の東隣《ひがしどなり》の墓地に葬られました。其葬式には最初私共に千歳村を教えた「先輩の牧師」も東京から来て、「下曾根信守之墓」「我父の家には住家多し」と云う墓標の文字も其人の筆で書かれました。
 其葬式には、塚戸小学校の前校長H君も来て居ました。Hさんは越後の人、上野《うえの》の音楽学校の出で、漢文が得意です。明治二十九年に千歳村に来て小学校長となり、在職二十五年の長きに及びました。村人として私共より十二年も前です。私共夫妻が最初千歳村に来て、ある小川の流れに菜《な》を洗う女の人に道問うた其れはH夫人であったそうです。私共が外遊から帰って来ると、H君は二十五年の小学校奉仕を罷《や》めて、六十近く新に進出の路を求めねばならぬ苦境に居ました。其後帝大に仕事を見出し、日々村から通うて居ましたが、このたび都合により吉祥寺の長男の家と一つになると謂《い》うて告別に来たのは、つい此新甞祭の当日でした。地下に他郷に古い顔馴染《かおなじみ》が追々遠くなるのは淋しいものです。
 村の名物が段々無くなります。本文の「葬式」に出た粕谷で唯一人の丁髷《ちょんまげ》の佐平《さへい》爺《じい》さんも亡くなり、好人の幸さんも亡くなりました。文ちゃんの爺《じい》さんも亡くなりました。文ちゃんは稼《かせ》ぎ人《にん》で、苦しい中から追々|工面《くめん》をよくし、古家ながら大きな家を建てゝ、其家から阿爺《おやじ》の葬式も出しました。「斯様《こん》な家から葬式を出してもらうなんて、殿様だって出来ねえ事だ」と皆が文ちゃんの孝行をほめました。「腫物」に出た石山の婆さんも本家で亡くなりました。それは大正七年でしたが、其前年の暮《くれ》に「腫物」の女主人公、莫連《ばくれん》お広《ひろ》も亡くなりました。お広さんは石山新家を奇麗に潰《つぶ》して了うた後、馴染《なじみ》の親分と東京に往って居ました。「草とりしても、東京ではおやつに餅菓子が出るよ」なんか村の者に自慢して居ました。其内親分がある寡家《ごけ》に入り浸《びた》りになって、お広さんが其処に泣きわめきの幕を出したり、かかり子の亥之吉が盲唖学校を卒業して一本立になっても母親を構《かま》いつけなかったり、お広さんの末路は大分困難になって来ました。金に窮すると、石山家に来ては、石山さんの所謂『四両五両といたぶって』行きました。到頭|腎臓《じんぞう》が悪くなり、水腫《みずばれ》が出て、調布在の実家で死にました。死ぬまで大きな声で話したりして、見舞に往った天理教信者のおかず媼《ばあ》さんを驚かしたものです。離縁になってなかったので、お広さんの体《からだ》は矢張石山さんが引取って、こっそり隣の墓地に葬りました。葬式の翌日往って見ると、新しい土饅頭《どまんじゅう》の前に剥《は》げ膳が据《す》えられ、茶碗の水には落葉が二枚浮いて居ました。白木の位配に「新円寂慈眼院恵光大姉《しんえんじゃくじげんいんえこうだいし》」と書いてあります。慈眼院恵光大姉――其処に現われた有無の皮肉に、私は微笑を禁じ得ませんでした。而して寂《さび》しい初冬の日ざしの中に立って、莫連お広の生涯を思い、もっと良い婦人《おんな》になるべき素質をもちながら、と私は残念に思うのでありました。お広さんが死んで、法律上にもいよいよ※[#「環」の「王」に変えて「魚」、下巻−152−1]《やもお》になった厚い唇の久《ひさ》さんは真白い頭をして、本家で働いて居ます。唖の巳代吉は貧しい牧師の金を盗んだり、五宿の女郎を買ったりして居ましたが、今は村に居ません。盲の亥之吉も、季《すえ》の弟も居ません。一人女《ひとりむすめ》のお銀は、立派に莫連の後を嗣いで、今は何処ぞに活躍して居ます。
 お広さんを愛したり捨てたりした親分七右衛門|爺《じい》さんは、今年|亡《な》くなり、而してやはり隣の墓地に葬られました。大きな男でしたが、火葬されたので、送葬《そうそう》の輿《こし》は軽く、あまりに軽く、一盃機嫌で舁《か》く人、送る者、笑い、ざわめき、陽気な葬式が皮肉でした。可惜《あたら》男《おとこ》をと私はまた残念に思うたのでありました。
「村入」の条に書いた私共の五人組の組頭《くみがしら》浜田の爺さんも、今年の正月八十で亡くなりました。律義な爺さんの一代にしっかり身上《しんしょう》を持ち上げ、偕白髪《ともしらが》の老夫婦、子、孫、曾孫の繁昌を見とどけてのめでたい往生でした。いつも莞爾々々《にこにこ》して、亡くなる前日まで縄《なわ》を綯《な》うたりせっせと働いて居ました。入棺前、別れに往って見ると、死顔《しがお》もにこやかに、生涯労働した手は節《ふし》くれ立って土まみれのまま合掌して居ました。これは代田《だいだ》街道《かいどう》側《わき》の墓地に葬られました。
 それから与右衛門さんとこのお婆さん、「信心なんかしませんや」と言うて居たお婆さんも亡くなりました。根気のよいお婆さんで、私も妻も毎々《まいまい》話しこまれて弱ったものです。居なくなって、淋しくなりました。「否《いな》と云へど強《し》ふるしひのがしひがたり、ちかごろ聞かずてわれ恋《こ》ひにけり」と万葉《まんよう》の歌人が曰《い》うた通りです。私共が外遊から帰ると、お婆さんは「四国《しこく》西国《さいごく》しなすったってねえ」と感にたえたように妻に云うて居ましたが、今は彼女自身遠く旅立ってしまいました。彼女は文ちゃんの爺さんが葬られて居る北の小さな墓地に葬られました。其処にはお婆さんには孫、与右衛門さんには嗣子《あととり》であったきつい気の忠《ちゅう》さん、海軍の機関兵にとられ、肺病になって死んだ忠さんも葬られて居ます。
 草履作りが名人の莞爾々々《にこにこ》した橋本のお爺さん、お婆さん、其隣の大尽の杉林のお婆さん、亡くなった人人も二三に止まりません。年寄りが逝《ゆ》くのは順ですが、老少不定の世の中、若い者、子供、赤ン坊の亡くなったのも一人や二人でありません。前に言うた忠さん、それから千歳村墓地敷地買収問題の時、反対|側《がわ》の頭目《とうもく》となって草鞋《わらじ》がけになって真先に働いたしっかり者の作さんも亡くなりました。半歳立たぬに、作さんの十六になる一人女も亡くなりました。私共が粕谷へ引越しの前日、東京からバケツと草箒《くさぼうき》持参で掃除に来た時、村の四辻《よつつじ》で女の子を負《おぶ》った色の黒い矮《ちいさ》い六十爺さんに道を教えてもらいました。お爺さんは「村入」で「わしとおまえは六合の米よ、早く一しょになればよい」と中音《ちゅうおん》に歌うた寺本の勘さん、即ち作さんの阿爺《おとっさん》で、背の女児は十六で亡くなった其孫女でした。
 まだ気の毒な亡者《もうじゃ》も、より気の毒な生き残りも二三あります。
 それ等を外にしては、石山さん、勘爺さん、其弟の辰爺さん、仁左衛門さん、与右衛門さん、武太さん、田圃向うの信心家のお琴婆さん、天理教のおかず婆さん、其他の諸君も皆無事です。土の下、土の上、私共の択んだ故郷粕谷は上にも下にも追々と栄えて行きます。都落ちして其粕谷にすでに十七年を過ごして、私が五十六、妻が五十、頭は追々白くなって、気は恒春園の恒に若く、荒れた園圃と朽ち行く家の中にやがて一陽来復の時を待ちつゝ日一日と徐に私共の仕事をすすめて居ます。
 書きたい事に切りがありませんが、其は他日の機会に譲って、読者諸君の健康を祝しつつここに一先《ひとま》ず此手紙の筆を擱《さしお》きます。
[#ここから2字下げ]
大正十二年十二月三十日
[#ここで字下げ終わり]
[#地から11字上げ]東京府 北多摩郡
[#地から12字上げ]千歳村 粕谷
[#地から8字上げ]恒春園に於て
[#地から3字上げ]徳冨健次郎
[#改丁、左右中央に]

    附録

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    ひとりごと

      蝶の語れる

 吾《われ》、毛虫《けむし》たりし時、醜《みにく》かりき。吾、蝶《てふ》となりて舞《ま》へば人《ひと》美《うつく》しと讃《ほ》む。人の美しと云ふ吾は、曩《その》昔《かみ》の醜かりし毛虫ぞや。
 吾、醜かりし時、人《ひと》吾《われ》を疎《うと》み、忌《い》み、嫌ひて避け、見る毎《ごと》に吾を殺さんとしぬ。吾、美しと云はるゝに到れば、人《ひと》争《あらそ》うて吾を招く。吾れの変れる乎《か》。人の眼《まなこ》なき乎。
 吾、醜しと見られし時、吾《わが》胸《むね》のいたみて、さびしく泣きたることいかばかり
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