軽快なポンプにしたり、書斎に独逸暖炉を据えたり、室内電話を使ったり、心ばかりの進出をして居ます。先頃の地震でいっそ一思いに潰《つぶ》れるか、焼けるかしたら、借金してもバラック位新築せねばならなかったでしょうが、無理さすまいとてか、地震は御愛想に私共の壁を崩し戸障子の建てつきを悪くしただけで往ってしまったので、当分現状維持です。然し新造が見えすいて居る住居に、大工左官を入れるも馬鹿らしいので、地震後一月あまり私は毎日鎚と鋸と釘抜と釘とを持って、壁の大崩れに板や古障子を打ちつけ、妻や女中が古新聞で張って、兎や角凌いで居ます。書斎も母屋《おもや》も壁の亀裂《ひわれ》もまだ其ままで、母屋に雨のしと降る夜はバケツをたゝく雨漏りの音に東京のバラックを偲《しの》んで居ます。

       (三)

 九月一日の地震に、千歳村は幸に大した損害はありませんでした。甲州街道|筋《すじ》には潰れ半潰れの家も出来、松沢病院では死人もありましたが、粕谷は八幡様の鳥居が落ちたり、墓石が転《ころ》んだ位の事で、私の宅なぞが損害のひどかった方でした。村の青年達が八幡様の鳥居を直した帰途《かえり》に立寄って、廊下の壁の大破《たいは》を片づけたり、地蔵様を抱《だ》き起したりしてくれました。後《あと》は前述の如く素人大工で済ませて置きます。九月一日の午餐と夕食は、母屋の庭の株《かぶ》立ちの山楓《やまもみじ》の蔭でしたためました。今夜十二時前後に大震が来るかも知れぬ、世田ヶ谷の砲兵聯隊で二発大砲が鳴ったら、飛び出してくれ、という不思議な言いつぎが来て、三日の夜の十一時半から二時頃まで、庭の※[#「木+解」、第3水準1−86−22]《かしわ》の木に提灯《ちょうちん》つるして天の河の下で物語りなどして過ごした外は、唯一夜も家の外には寝ませんでした。四日にはもう京王電車が一部分通います。五日には電燈がつきます。十日目には東京の新聞がぼつぼつ来ました。十一日目には郵便が来ました。村の復旧は早い。済まぬ事ですが、震災の百ヶ日も過ぎて私共は未だ東京を見ません。然し程度の差こそあれ、私共も罹災者《りさいしゃ》です。九月一日、二日、三日と三宵に渉《わた》り、庭の大椎《おおしい》を黒《くろ》く染めぬいて、東に東京、南に横浜、真赤に天を焦《こが》す猛火の焔《ほのお》は私共の心魂《しんこん》を悸《おのの》かせました。頻繁な余震も頭を狂わせます。来る人、来る人の伝うる東京横浜の惨状も、累進的に私共の心を傷《いた》めます。関心する人人の安否を確《たしか》むるまでは、何日も何日も待たねばなりませんでした。大抵は無事でした。然し思いかけない折に、新聞が相識る人の訃《ふ》を伝えたのも二三に止まりません。すべてが戦時気分でした。然《そう》です。世界戦に日本は手《た》ずさわるとは云う条《じょう》、本舞台には出ませんでした。戦争過ぎて五年目に、日本は独舞台で欧洲中原の五年にわたる苦艱《くげん》を唯一日の間に甞めました。あの大戦に白耳義以外|何処《どこ》の国が日本のようにぐいと思うさま国都を衝《つ》かれたものがありましょう? 欧羅巴に火と血を降らせたのは人間わざでしたが、日本の受けた鞭《むち》は大地震です。日本は人間の手で打たれず、自然の手でたたかれました。「誰か父の懲《こ》らしめざる子あらんや」と云う筆法《ひっぽう》から云えば、災禍《さいか》の受け様《よう》にも日本は天の愛子であります。ところで此愛子の若いことがまた夥《おびただ》しい。強そうな事を言うて居て、まさかの時は腰がぬけます。真闇《まっくら》に逆上《ぎゃくじょう》します。鮮人騒ぎは如何でした? 私共の村でもやはり騒ぎました。けたたましく警鐘が鳴り、「来たぞゥ」と壮丁の呼ぶ声も胸を轟かします。隣字の烏山では到頭労働に行く途中の鮮人を三名殺してしまいました。済まぬ事|羞《はず》かしい事です。
 斯様《こん》な中にもうれしい事はやはりありました。粕谷の人々が相談して、九月の六日に水瓜、玉蜀黍《とうもろこし》、茄子《なす》、夏大根、馬鈴薯《じゃがいも》などを牛車十一台に満載《まんさい》して、東京へお見舞をしました。村の青年達がきりっとした装《なり》をして左腕に一様に赤い布を巻き、牛車毎に「千歳村青年会粕谷支部」と書いた紙札を押立て、世話方数名附添うて、朝早く粕谷から練《ね》り出した時、私は思わず青年会の万歳を三唱しました。慰問隊は専ら麹町区に活動して、先方の青年団の協力の下に、水瓜を截《き》り、馬鈴薯をつかみ、手ずから罹災の人々に頒《わか》ち、玄米と味噌で五日過した人々を「生き返える」と悦ばしたそうです。其報告が私共を喜ばせました。斯くてこそ田舎、十七年前都落ちした私共も都に会わす顔があります。
 中一日置いて、九月の八日には千歳村全体から牛車六十台の見舞車が、水気沢山の畑のものをまだ余燼《よじん》の熱い渇き切った東京に持って行きました。私も村人甲斐に馬鈴薯百貫を出しました。私の直接労働の果《み》ではありません。金にして弐拾円です。
 東京の焼け出されが、続々都落ちして来ます。甲州街道は大部分|繃帯《ほうたい》した都落ちの人々でさながら縁日のようでした。途中で根《こん》竭《つ》きて首を縊《くく》ったり、倒れて死んだ者もあります。寿永《じゅえい》の昔の平家都落ち、近くば維新当時の江戸幕府の末路を偲《しの》ぶ光景です。村の何《ど》の家にも避難者の五人三人収容しました。私共の家にも其母者が粕谷出身の縁故から娘の一人を預かりました。田舎が勝ち誇る時が来ました。何と云うても人間は食うて生きる動物です。生きものに食物程大切なものはありません。食物をつくる人は、まさかの時にびくともしない強味があります。東京のあるお邸《やしき》の旦那は、平生|権高《けんだか》で、出入りの百姓などに滅多に顔見せたこともありませんでした。今度の震災で、家は焼け残ったが、早速食う物がありません。見舞に来た百姓に旦那がお辞義の百遍もして、何でもよいから食う物を、と拝《おが》むように頼んだものです。ある避難の家族は、麦《むぎ》がまずいと云うて、「贅沢な」と百姓から、頭ごなしに叱りつけられました。去五月の末まで私共の家に働いて居た隣字のS女の家の傭女《やといめ》が水瓜畑に働いて居ると、裏街道を都落ちの人と見えて母子づれが通りかゝり、水瓜を一つ無心しました。傭人の遠慮して小さなのを一つもいでやると、悦んでそれを持って木蔭に去りました。やがてS女が来たので、傭女は其話をして、あの水瓜は未熟だったかも知れぬと言います。S女は直ぐ大きなよく出来たのをもいで、後追いかけました。都落ちの母子は木蔭で未熟の水瓜を白い皮まで喰い尽して居た所でした。「斯様《こんな》にうまい水瓜をはじめて食べました」とS女に悦びをのべたのでした。こんな時にこそ都会住者も自然の懐《ふところ》のうれし味をしみ/″\思い知ります。田舎の懐を都に開かせ、都の頭《ず》を自然に下げさせる――震災の働きの一つはこれでした。
 それは東京に住む東京人に限りません。十七年来村住居の私共だって、米麦つくらぬ美的百姓は同様です。「或る百姓の家」を出した江渡幸三郎君のような徹底した百姓と、私共のように米麦を買うて暮らす村落住者の相違は、斯様な時に顕《あら》われます。私共では年来取りつけの東京四谷の米屋の米を食います。震災で直ぐ食料の心配が来ました。不時の避難客で、早速村の糧食不足となります。東京には玄米の配給があっても、田舎は駄目です。当時私共の家族は、夫妻に、朝鮮から遊びに来て居た二十歳《はたち》になる妻の姪《めい》、七月に秋田から呼んだ十四の女中、それから焼け出されの十七娘、外に猫一疋でした。丁度収穫を終えたばかりの馬鈴薯と畑に甘藷があるので、差迫っての餓死は兎に角、粒食《りゅうしょく》は直ぐ危くなりました。私共夫妻は朝夕パンで、米飯は午食だけです。パンが切れる。ふかしパンをつくる。メリケン粉は二升以上売ってはくれず、それも直ぐ尽きました。砂糖も同様です。ついでに蝋燭も同断です。朝は粥にして、玉蜀黍《とうもろこし》で補《おぎな》い、米を食い尽し、少々の糯米《もちごめ》をふかし、真黒い饂飩粉《うどんこ》や素麺《そうめん》や、畑の野菜や食えるものは片端《かたっぱし》から食うて、粒食の終はもう眼の前に来ました。いよ/\馬鈴薯、甘藷に落ちつく外ありません。其処に前顕《ぜんけん》のS女が見舞に来ました。彼女は本文「次郎桜」の主人公には季《すえ》の妹で、私共の外遊帰来三年間恒春園に薪水の労を助けた娘です。其長姉Y女も、私共の外遊前二年足らず私共の為に働いてくれたのでした。S女に相談すると、翌日の夕、彼女の長兄のI君が一担《いったん》の食糧を運んでくれました。I君は「次郎桜」の兄者《あにじゃ》で、十七年前私共が千歳村へ引越す時、荷車引いて東京まで加勢に来てくれた村の耶蘇信者四人の其一人、本文に「角田《つのだ》勘五郎《かんごろう》の息子《むすこ》」とあるのがそれです。其頃は十六七のにこにこした可愛い息子でした。それが適齢になって兵役に出で、満洲守備に行き、帰って結婚してもう四人の子女の父、郷党《きょうとう》のちゃきちゃきです。I君が担《にな》うて来てくれたは、白米一斗、それは自家の飯米《はんまい》を分けてくれたのでした。それから水瓜、甘藍《キャベツ》、球葱《たまねぎ》、球葱は此辺ではよく出来ませんが、青物市場であまり廉《やす》かったからI君が買って来たその裾分《すそわ》けという事でした。玄米でも饂飩粉でもよかった、「働く人の食料を分けてもらうのは気の毒」と私が申すと、「働くから上げられるのです」とI君が昂然《こうぜん》と応《こた》えました。これは確に一本参りました。全くです。働くから自ら養い他を養う事が出来るのです。私共は唯二つ残って居た懐中汁粉《かいちゅうじるこ》をI君に馳走して、色々話しました。千歳村移転当時の話からI君は其時私が諸君に向い、「東京も人間が多過ぎる、あまり頭に血が寄ると日本も脳充血になる、だから私は都を出でて田舎に移る」と申した事を私に想い出さしてくれました。兎に角私共はよくぞ其時都落ちをしました。でなければ私はもうとくに青山あたりの土になって居たかも知れません。十七年を過して、此処《ここ》に斯く在《あ》る事は、本当に感謝です。I君の贈物は肝腎《かんじん》な時に来て、大切なツナギになりました。その一斗の米が終る頃は、四谷の米屋の途《みち》も開けました。
 私は最初「みみずのたはこと」の広告に、斯様な告白をしました。
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『著者は田舎を愛すれども、都会を捨つる能わず、心|窃《ひそか》に都会と田舎の間に架する橋梁《きょうりょう》の其板の一枚たらん事を期す。』
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 不徹底な言い分のようですが、それが私の実情でした。今とても同然です。私は土を愛し、田舎を愛し、土の人なる農を愛しますが、私の愛は都市にも海にもあらゆる人間と其|営《いとな》みとを忘るゝ事は出来ません。私は慾張りです。私は一切を愛します。総《そう》じて血のめぐりの好い生体《せいたい》は健全です。病は偏《へん》です。不仁が病です。脳貧血のわるいは、脳充血のわるいに劣りません。私共の農村移住は随分吾儘な不徹底なものでしたが、それですら都鄙の間に通う血の一縷《いちる》となったと思えば、自ら慰むるところがあります。「みみずのたはこと」は自嘲気分を帯びた未熟な産物ですが、大正二年以来十年間に版を改むる百〇七、拾余万部を売り尽し、私共の耳目に触るゝ反響から見るも、農村を自愛させ、すべてに農村を愛さす上に幾分の効があったと知る事は、私共にとって大なる悦喜であります。
 私も以前は農村に住んで農になり切れず、周囲に同化しきれぬきまり悪さを「美的百姓」などと自から茶かして居ました。然し其|懊悩《おうのう》はもう脱《ぬ》けました。私共は粕谷に腰を据えました。私共は農村に骨を埋《うず》めます。然し私共は所謂農ではありません、私共の鍬はペンです。土は米麦
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