げ]
母なしとなどかは嘆くわれを生みし
    国土《こくど》日本《にっぽん》とこしへの母
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 日本近くなった太平洋船中での私の感懐であります。
 帰って丁度一年目の大正十年三月、私共は夫妻共著の「日本から日本へ」を出しました。
 中一年置いて、今大正十二年四月に私は「竹崎順子」を出しました。日露戦争中肥後の熊本で八十一で亡くなった私の伯母――母の姉の実伝で、十八年前の遺嘱《いしょく》を果したのであります。
 それから九月一日の大震にもお蔭で恙《つつが》なく、五十六歳と五十歳のアダム、イヴは、今年七月秋田から呼んだ、デダツ(モンペの方言)を穿《は》いて「奥様、あれ持って来てやろか」と云う口をきく、アイウエオが十分には読めぬ「今」という十四の女中と、Bと名づくる牝猫一疋、淋しい忙しい生活をつづけて居ります。

           *

 世界一周から帰村した三日目の夜、私共は近所の人人を呼んでおみやげ話をしました。ざっと行程を話したあとで、私は曰いました。
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世界を一周して見て、日本程好い処はありません。日本では粕谷程好い処はありません。
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諸君が手を拍《たた》いて喝采《かっさい》しました。
 お世辞ではありません。全然《まったく》です。
 私は九州肥後の葦北《あしきた》郡|水俣《みなまた》という海村に生れ、熊本で成長し、伊予の今治、京都と転々《てんてん》して、二十二歳で東京に出で、妻は同じ肥後の菊池郡|隈府《わいふ》という山の町に生れ、熊本に移り、東京に出で、私が二十七妻が二十一の春東京で一緒《いっしょ》になり、東京から逗子、また東京、それから結婚十四年目の明治四十年に初めて一反五畝の土と一棟《ひとむね》のあばら家を買うて夫妻此粕谷に引越して来ました。戸籍まで引いたは、永住の心算《つもり》でした。然し落ち着きは中々出来ないものです。村居七年目に出した「みみずのたはこと」は、開巻第一に臆面《おくめん》もなく心のぐらつきを告白して居ます。永住方針で居たが、果して村に踏みとどまるか、東京に帰るか、もっと山へ入るか、分からぬと言うて居ます。其|挙句《あげく》が前述《ぜんじゅつ》の通り十年のドウ/\廻《めぐ》りです。私は自分の幼稚な吾儘《わがまま》と頑固な気まぐれから、思うようにならぬと謂《い》うては第一自分自身がいやになり、周囲がいやになり、日本がいやになり、世界がいやになり、到頭生きる事がいやになり、自己を脱《ぬ》けたい、何処ぞへ移りたい、面倒臭い、いっそ死んでのけたいとまで思いつめ、落ちつく故郷を安住の地をひたもの探がし廻ったのでした。然し駄目でした。一足飛びに自分が聖人にもなれません。一から十まで気に入るような人間にも会えません。またしっくりと身に合うような出来合いの理想郷は此世にありません。然らば如何《どう》する? だらしなく無為に朽《く》ちるか。太く短く反逆の芝居を打って一思いに花やかな死を遂げるか。さもなくば自己に帰って、客観的には謙《へりくだ》ってすべてに顕わるる神を見、主観的には自己を核《かく》にして内にも外にも好きな世界を創造すべく努めるか。私は其一を撰ばねばならなくなりました。而して到頭自己に帰りました。「盍反其本《なんぞそのもとにかえらざる》」で、畢竟《ひっきょう》其本に、自己に、わが衷《うち》に在《いま》す神、やがてすべてに在す神――に帰ったのであります。帰れば其処が故郷でした。安住の地でした。私の母の歌に
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西、東、北の果までたづねても
    みなみ(南、――皆身《みなみ》)にかへる地獄極楽
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というのがありますが、正《まさ》にそれです。皆身にかえる外はありません。私も五十年来さま/″\の旅をしつくし、駄目を押し、終に世界を一周《ひとめぐり》して来て見て、いよ/\自己に、而して自己の住む此処日本粕谷にしっかりと腰を据えたのであります。
 十七年前、村入当時私は東隣の墓地の株に加入を勧められました。私は生返事して十数年を過ごしました。今年ある村の寄合の場で、私は斯く言いました。
「私共もいよ/\粕谷の土になる事にきめました。何分よろしく」
「世界で日本、日本で粕谷」に拍手喝采した諸君は、此時破顔一笑、会心《かいしん》のさざめきを以て酬《むく》うてくれました。
 いよ/\私共も粕谷の土になるにきめました。東隣の墓地は狭いが、四千坪近い所有地は何処にやすらうも自由です。墓地をきめると云う事は、旅行しない意味では無論ありません。何処で死ぬか、私共は知りません。唯何処で死んでもいずれ粕谷の土です。
 泊《とまり》がきまると、行手《ゆくて》を急ぐ要はありません。のろ/\歩きましょう。一歩は一歩の楽《たのしみ》です。父は九十三、母は九十一、何卒《どうか》私共もあやかりたい。先頃の大地震に、私はある人に言いました。「借金もちは、天道様《てんとうさま》が中々殺さぬよ」。私も夥《おびただ》しい借金もちです。五十年来幾度となく死地を脱して斯く生かされて居るのも、あの因業爺《いんごうおやじ》が「分厘までも」払わさずには置かぬ心底がまざ/\と読まれます。私も昔は借金とも思わず無暗《むやみ》に重《かさ》ねた時代がありました。借金と気がついて急に悄気《しょげ》た時期もあります。わが借金は棚《たな》にあげ、他《ひと》の少々の貸金をはたって歩いた時もあります。山なす借金、所詮《しょせん》払えそうもないので、ドウセ毒皿だ、クソ、ドシドシ使い込んでやれ、踏倒して逃げてやれ、と悪度胸《わるどきょう》を据《す》えた時もあります。然しもう潔《いさぎよ》く観念しました。返えします。奇麗に返えします。成る事なら利子をつけて返えします。返えさずに居れなくなりました。返えすが楽にさえ悦喜にさえなって来ました。目下整理中です。総《そう》じて義務が道楽にならねば味がない。借金返えしも渋面《じゅうめん》つくって、さっさと返えしては曲《きょく》が無い。『人生は厳粛也、芸術は快活也。』真面目《まじめ》に計算しましょう。笑顔《えがお》で払いましょう。其為にこそ私共は生れて来、生きて来たのです。

       (二)

 私共が粕谷に越して来ての十七年は、やはり長い年月でした。村も大分変りました。東京が文化が大胯《おおまた》に歩いて来ました。「みみずのたはこと」が出た時、まだ線路工事をやって居た京王電鉄が新宿から府中まで開通して、朝夕の電車が二里三里四里の遠方から東京へ通う男女学生で一ぱいになったり、私共の村から夏の夕食後に一寸九段下あたりまで縁日を冷《ひ》やかしに往って帰る位何の造作《ぞうさ》もなくなったのは、もう余程以前の事です。私共の外遊中に、名物巣鴨の精神病院がつい近くの松沢に越して来ました。嬉《うれ》しいような、また恐《こわ》いような気がします。隣字《となりあざ》の烏山には文化住宅が出来ました。別荘式住宅も追々建ちます。思いがけなく藪陰から提琴《ヴァイオリン》の好い音が響いたり、気どったトレモロが聞こえたりします。燈台下暗かった粕谷にも、昨秋から兎に角電燈がつきました。私共が村入当時二十七戸の粕谷が、新家が出来たり、村入があったり、今は三十三戸です。このあたりもう全くの蔬菜村です。東京が寄って来た事が知れます。現に大東京の計画中には、北多摩郡でも一番東部の千歳村、砧《きぬた》村の二村が包含される事になって居ます。此処までお出と私共が十七年前逃げ出した東京を手招きした訳でもないが、東京の方から追いかけて来るのを見れば、切っても切れぬ情縁がやはりあるものと見えます。もう私共は今の粕谷が東京の中心になっても、動きません。村が蔬菜村になって、水瓜などは殆んど番がいらぬまで普通になりました。水瓜好きの私共には特別の恩恵です。農家も追々豊になり、此頃では荷車挽きに牛を飼《か》わぬ家は稀です。本文の「不浄」にも書いた通り、荷出しや下肥引きに村の人人が汗みずくになって、眼を悪くして重い車を引くのを気にして居た私共に、牛車は何と云ううれしい変化でしょう。牛の牟々《もうもう》程農村を長閑《のどか》にするものはありません。道路も追々よくなります。村役場も改築移転し、烏山にも小学が出来、もとの塚戸小学校も新築されて私共に近くなりました。運動時間などはわァわァと子供の声が潮《うしお》の如く私の書斎に響いて来ては、子無しの私共に力をつけます。
 台湾を取り、樺太の半を収《おさ》め、朝鮮を併《あわ》せ、南満洲に手を出し、布哇を越えて米国まで押寄する日本膨脹の雛型《ひながた》ででもあるように、明治四十年の二月に一反五畝の地面と一棟のあばら家から創《はじ》めた私共の住居《すまい》も、追々買い広げて、今は山林宅地畑地を合わせて四千坪に近く、古家ながら茅葺《かやぶき》の四棟《よむね》もあって、廊下、雪隠、物置、下屋一切を入れて建坪が百坪にも上ります。村の人となって程なく、二尺余の杉苗を買うて私は母屋《おもや》の南面に風よけの杉籬《すぎかき》を結《ゆ》いました。西の端に唯一本|木鋏《きばさみ》を免れた其杉苗が、今は高さ二丈五尺、幹《みき》の太《ふと》さは目通り一尺五寸六分になりました。十七年の杉の成長としては思わしくありませんが、二尺の苗の昔を思えば隔世《かくせい》の感があります。私共の村住居《むらずまい》の年標《ねんひょう》として、私は毎々《まいまい》お客に此杉の木を指《ゆびさ》します。年標の杉が太り、屋敷も太りました。巻頭の写真にも其面影は覗《うかが》われます。一町二反余の地主で、文筆による所得税を納めるので、私も今は衆議院議員選挙権の所有者です。已に一回投票というものをして見ました。それは兎に角私も粕谷の住人としてもう新参ではありません。住居の雅名《がめい》が欲《ほ》しくなったので、私の「新春」が出た大正七年に恒春園《こうしゅんえん》と命名しました。台湾の南端に恒春と云う地名があります。其恒春に私共の農園があるという評判がある時立って其処に人を使うてくれぬかとある人から頼まれた事があります。思もかけない事でしたが、縁喜《えんぎ》が好《よ》いので、一つは「永久に若い」意味をこめて、台湾ならぬ粕谷の私共の住居を恒春園と名づけたのであります。恒春園は荒れました。四千坪の大部分は樹木と萱《かや》、雑草で、畑は一反足らずです。外遊中は人気《ひとけ》がないので野兎《のうさぎ》が安心して園に巣をつくりました。此頃ではペン多忙で、滅多《めった》に鍬《くわ》は取りません。少しばかりの野菜は、懇意な農家に頼んで居ます。金になると云う上からは、恒春園は零《ぜろ》です。毎年|堆肥《たいひ》温床用《おんしょうよう》の落葉を四円に売ります。四千坪の年収が金四円です。庭園は荒れに荒れ、家も大分ふるびて、雨漏りがします。明治四十二年の春に買った一棟《ひとむね》なぞは、萱沢山《かやたくさん》の厚さ二尺程にも屋根を葺《ふ》いて、一生大丈夫の気で居ましたら、何時しか木蔭から腐って、骨が出ました。家屋でも、身体《からだ》でも、修繕なしにやって往けよう筈はありません。四十と三十四で東京から越して来た私共夫妻が、五十六と五十になって、眼が薄くなったり、物忘れをしたり、五体の何処かが絶えず修補を促《うなが》します。私共も肝油を飲んだり、歯科眼科に通ったり、腸胃の為に弦斎さんのタラコン散を常薬にして居ます。身体の修繕斯通りで、家屋のそれも決して忘れた訳ではありません。全く住宅と衣服は出来合いで済まされません。洋服の利は分かって居ます。私共も外遊以来一切和服の新調をやめ――以前から碌《ろく》に和服という和服もなかったのですが――内にも外にも簡易な洋服生活です。住居はこれからです。古家ばかり買い込んで、小人数には広過ぎ、手長足長、血のめぐりの悪い此住居を取毀《とりこわ》し、しっくりとした洋式住宅を建てよう心算は夙《とく》に出来て居ますが、実現がまだ出来ません。畳の上に椅子テエブル、障子を硝子にしたり、井を米国式
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