な高慢《こうまん》であろうが、同じ生類《しょうるい》の進むにも、鳥の道、魚の道、虫《むし》の道、また獣《けもの》の道もあることを忘れてはならぬ。
 吾儕《われら》は奇蹟を驚異し、透視《とうし》の人を尊敬し、而して自身は平坦な道をあるいて、道の導く所に行きたいものである。

           *

 夜、鶴子《つるこ》が炬燵《こたつ》に入りながら、昨日東京客からみやげにもらった鉛筆で雑記帳にアイウエオの手習《てならい》をしたあとで、雑記帳の表紙《ひょうし》に「トクトミツルコノデス」と書き、それから
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コイヌガウマレマシテ、カワイコトデアリマス
[#ここで字下げ終わり]
と書いた。これは鶴子女史が生れてはじめての作文だ。細君が其下に記憶の為「ゴネントムツキ」と年齢《とし》をかゝせた。
[#地から3字上げ](明治四十四年 十二月十日)
[#改ページ]

     雪

 暮の廿八日は、午食前《ひるめしまえ》から雨になり、降りながら夜に入った。
 夜の二時頃、枕辺《まくらべ》近く撞《どす》と云った物音《ものおと》に、余は岸破《がば》と刎《は》ね起きた。身繕《みづくろ》いしてやゝしばし寝床《ねどこ》に突立《つった》って居ると、忍び込んだと思った人の容子《ようす》は無くて、戸の外《そと》にサラ/\サラ/\忍びやかな音がする。
「雪だ!」
 先刻《さっき》の物音は、樫《かし》の枝を滑り落ちた雪の響《おと》だったのだ。余は含笑《ほほえ》みつゝまた眠った。
 六時、起きて雨戸をあけると、白い光《ひかり》がぱっと眼を射《い》た。縁先《えんさき》まで真白だ。最早《もう》五寸から積って居るが、まだ盛《さかん》に降って居る。
 去年は暖かで、ついぞ雪らしい雪を見なかった。年の内に五寸からの雪を見ることは、余等が千歳村の民になってからはじめてゞある。
 余は奥書院《おくしょいん》の戸をあけた。西南を一目に見晴《みは》らす此処《ここ》の座敷は、今雪の田園《でんえん》を額縁《がくぶち》なしの画《え》にして見せて居る。庭の内に高低《こうてい》参差《しんし》とした十数本の松は、何れも忍《しの》び得る限《かぎ》り雪に撓《た》わんで、最早|払《はら》おうか今払おうかと思い貌《がお》に枝を揺々《ゆらゆら》さして居る。素裸《すっぱだか》になってた落葉木《らくようぼく》は、従順《すなお》に雪の積るに任せて居る。枯萩《かれはぎ》の一叢《ひとむら》が、ぴったりと弓形《ゆみなり》に地に平伏《ひれふ》して居る。余は思わず声を立てゝ笑った。背向《うしろむ》きの石地蔵《いしじぞう》が、看護婦の冠る様な白い帽子を被《き》せられ、両肩《りょうかた》には白い雪のエパウレットをかついで澄まして立ってござるのだ。
 余は障子をしめて内に入り、仕事にかゝる前に二通の手紙を書いた。筑波山下《つくばさんか》の医師《いし》なる人に一通。東京銀座の書店主人に一通。水国《すいこく》の雪景色と、歳晩《さいばん》の雪の都会の浮世絵が幻《まぼろし》の如く眼の前に浮ぶ。手紙を書き終えて、余は書き物をはじめた。障子が段々《だんだん》眩《まぶ》しくなって、時々|吃驚《びっくり》する様な大きな響《おと》をさしてドサリ撞《どう》と雪が落ちる。机の傍《そば》では真鍮《しんちゅう》の薬鑵《やかん》がチン/\云って居る。
 午餐《ごさん》の案内に鶴子が来た。室を出て見ると、雪はぽつり/\まだ降って居るが、四辺《あたり》は雪ならぬ光を含んで明るく、母屋《おもや》前《まえ》の芝生は樫の雫《しずく》で已に斑《まだら》に消えて居る。
「何だ、此れっ切りか。春の雪の様だね」
 斯《か》く罵《ののし》りつゝ食卓《しょくたく》に就《つ》く。黒塗膳《くろぬりぜん》に白いものが三つ載《の》せてある。南天《なんてん》の紅《あか》い実《み》を眼球《めだま》にした兎《うさぎ》と、竜髭《りゅうのひげ》の碧《あお》い実《み》が眼球《めだま》の鶉《うずら》や、眉を竜髭の葉にし眼を其実にした小さな雪達磨《ゆきだるま》とが、一盤《ひとばん》の上に同居して居る。鶴子の為に妻が作ったのである。
「此《この》達磨《だるま》さん西洋人《せいようじん》よ、だって眼が碧《あお》いンですもの」と鶴子が曰《い》う。
 雪で、今日は新聞が来《こ》ぬ。朝は乳屋《ちちや》、午後は七十近い郵便《ゆうびん》配達《はいたつ》の爺《じい》さんが来たばかり。明日《あす》の餅搗《もちつ》きを頼んだので、隣の主人《あるじ》が糯米《もちごめ》を取りに来た。其ついでに、蒸《ふ》かし立ての甘藷《さつまいも》を二本鶴子に呉《く》れた。
 余は奥座敷で朝来《ちょうらい》の仕事をつゞける。寒いので、しば/\火鉢《ひばち》の炭《すみ》をつぐ。障子がやゝ翳《かげ》って、丁度《ちょうど》好い程の明《あかり》になった。颯《さあ》と云う音がする。轟《ごう》と云う響《ひびき》がする。風が出たらしい。四時やゝ廻《まわ》ると、妻が茶《ちゃ》を点《い》れ、鶴子が焼栗《やきぐり》を持て入って来た。
「雪水《ゆきみず》を沸《わ》かしたのですよ」
と妻が曰《い》う。ペンを擱《さしお》いて、取あえず一|碗《わん》を傾《かたむ》ける。銀瓶《ぎんびん》と云う処だが、やはり例《れい》の鉄瓶《てつびん》だ。其れでも何となく茶味《ちゃみ》が軟《やわら》かい。手々《てんで》に焼栗を剥《む》きつゝ、障子をあけてやゝしばし外を眺める。北から風が吹いて居る。田圃《たんぼ》向《むこ》うの杉の森を掠《かす》めて、白い風が弗《ふっ》、弗《ふっ》と幾陣《いくしきり》か斜《はす》に吹き通る。庭の内では、蛾《が》の如く花の様な大小の雪片《せっぺん》が、飛《と》んだり、刎《は》ねたり、狂《くる》うたり、筋斗翻《とんぼがえり》をしたり、ダンスをする様にくるりと廻《まわ》ったり、面白そうにふざけ散らして、身軽《みがる》に気軽《きがる》に舞うて居る。消えかけて居た雪の帽が、また地蔵の頭上に高くなった。庭の主貌《あるじがお》した赤松の枝から、時々サッと雪の滝《たき》が落ちる。
「今夜も降りますよ」
 斯く云いすてゝ妻は鶴子と立って往った。
 余は風雪の音を聞き/\仕事をつゞける。一枚も書くと、最早《もう》書く文字がおぼろになった。余はペンを拭《ふ》いて、立って障子をあけた。
 蒼白《あおじろ》い雪の黄昏《たそがれ》である。眼の届く限り、耳の届く限り、人通りもない、物音もしない。唯雪が霏々《ひひ》また霏々と限りもなく降って居る。良《やや》久《ひさ》しく眺める。不図|縁先《えんさき》を黒い物が通ると思うたら、其《それ》は先月来余の家に入込んで居る風来犬《ふうらいいぬ》であった。まだ小供※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]した耳の大きな牝犬《めいぬ》で、何処から如何《どう》して来たか知らぬが、勝手にありついて、追えども逐えども去ろうともせぬ。余の家には雌雄《しゆう》二|疋《ひき》の犬が居るので、此上牝犬を飼うも厄介である。わざ/\人を頼んで、玉川向うへ捨てさせた。すると翌日ひょっくり帰って来た。汽車に乗せたらと謂《い》って、荻窪《おぎくぼ》から汽車で吉祥寺《きちじょうじ》に送って、林の中に繋《つな》いで置いたら、頸《くび》に縄きれをぶらさげながら、一週間ぶりに舞《ま》い戻《もど》った。隣字の人に頼んで、二子在の犬好きの家へ世話してもらうつもりで、一先ず其家に繋いで置いてもらうと、長い鎖《くさり》を引きずりながら帰って来た。詮方《せんかた》なくて今は其まゝにしてある。余が口笛《くちぶえ》を吹《ふ》いたら、彼女《かのじょ》はふっと見上げたが、やがて尾を垂《た》れて、小さな足跡《あしあと》を深く雪に残しつゝ、裏の方へ往って了うた。
 雪はまだしきりに降って居る。
 余は思うともなく今年一年の出来事をさま/″\と思い浮《うか》べた。身の上、家の上、村の上、自国の上、外国の上、さま/″\と事多い一年であった。種々の形《かたち》で世界の各所《かくしょ》に現《あら》わるゝ、人心《じんしん》の昂奮《こうふん》、人間の動揺が、眼《め》まぐろしくあらためて余の心の眼に映《うつ》った。
 何処《どこ》に落着く世の中であろう?
 余は久しく久しく何を見るともなく雪の中を見つめる。
 大正元年暮の二十九日は蒼白《あおじろ》う暮れて行く。
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おのがじし舞ひ狂ひつるあともなし
    世は一色《ひといろ》の雪の夕暮
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ](大正元年 十二月二十九日)
[#改丁]

   読者に


       (一)

読者諸君。
「みみずのたはこと」の出版は、大正二年の三月でした。それから今大正十二年十二月まで何時しか十年余の月日が立ちました。此十年余の限りない波瀾にも、最近の大震災にも幸に恙《つつが》なく、ここに「みみずのたはこと」の巻末に於て、粕谷の書斎から遙に諸君と相見るを得るは、感謝の至です。
 まことに大正の御代になっての斯十余年は、私共に、諸君に、日本に、はた世界にとって、極めて多事多難な十余年でありました。
 大正元年暮の二十九日、雪の黄昏を眺めた私の心のやるせない淋しさ――それは世界を掩うて近寄り来る死の蔭の冷《ひい》やりとした歩《あゆ》みをわれ知らず感じたのでした。大正二年「みみずのたはこと」の出版をさながらのきっかけに、日一日、歩一歩、私は死に近づいて来ました。死にたくない。※[#「しんにょう+官」、第3水準1−92−56]《のが》れたい、私は随分もがきました。一家を挙げて秋の三月《みつき》を九州から南満洲、朝鮮、山陰、京畿《けいき》とぶらついた旅行は、近づく運命を躱《かわ》そうとてののたうち廻りでした。然し盃《さかずき》は否応《いやおう》なしに飲まされます。私は阿容※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]《おめおめ》とまた粕谷の旧巣《ふるす》に帰って来ました。
 大正三年が来ました。「死」の年です。五月に私の父が九十三歳で死にました。私は父を捨て、「みみずのたはこと」の看板娘であった鶴子を其父母に返えし、門を閉じ、人を謝して、生きながら墓の中に入りました。八月に独逸を相手の世界戦が始まります。世界は死の蔭に入りました。
 其十二月に私は自伝小説「黒い眼と茶色の目」を出しました。私にとって自殺の第一刀です。同時に「生」への安全弁でもありました。然し要するに自他を傷つくる爆弾であった事も諍《あらそ》えません。早速妻が瀕死の大病に罹《かか》り、四ヶ月を病院に送りました。生命を取りとめたが不思議です。
 世界が血みどろになって戦う大正四年、大正五年、大正六年、私は閉門生活をつづけて居ました。懊悩《おうのう》は気も狂うばかりです。傍《かたわら》に妻あり踏むに土あって、私は狂わず死なざるを得ました。私は真面目に畑仕事をしました。然し文筆の人に鍬のみでは足りません。大正六年の三月「死の蔭に」を出しました。大正二年の秋の逃避旅行の極めて皮相な叙述です。
 すべてには限《きり》があります。「死の蔭に」が出で、父の三年の喪《も》が果てる頃から、私はそろ/\死の蔭を出ました。大正七年は私共夫妻の銀婚です。其四月、母の九十の誕辰に私は「新春」を出しました。生の福音、復活の凱歌です。春に「新春」が出て、秋の十一月十一日に、さしも五年に渉《わた》って世界を荒らした大戦がばったり止んだのであります。
 世界が死の蔭を出て、大戦後始末の会議が※[#濁点付き片仮名「ヱ」、1−7−84]ルサイユに開かれた大正八年一月私共夫妻は粕谷を出でて世界一周の旅に上りました。旅費の前半は「新春」の読者、後半は後《あと》で出た「日本から日本へ」の読者から出たのであります。新嘉坡《シンガポオル》まで往った時、私の母が東京で九十一歳で死にました。父を捨てた子は、母の死に目にも会いません。私共は尚《なお》西へ西へと旅をつづけ、何時しか世界を一周して、大正九年の三月日本に帰って来ました。
[#ここから3字下
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