月二日)
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天理教の祭
おかず媼《ばあ》さんが、天理教会|秋祭《あきまつり》の案内に来た。
紙の上の天理教《てんりきょう》は見て居るが、教会を覗《のぞ》いた事は未《ま》だ無い。好い機《おり》だ。往って見る。
下足札《げそくふだ》を出して、百畳敷一ぱいの人である。正面には御簾《みす》を捲いて、鏡が飾ってある。太鼓《たいこ》、笙《しょう》、篳篥《ひちりき》、琴《こと》、琵琶《びわ》なんぞを擁したり、あるいは何ものをも持たぬ手を膝《ひざ》に組んだ白衣《びゃくい》の男女が、両辺に居流れて居る。其白衣の女の中には、おかず媼《ばあ》さんも見えた。米俵が十数|俵《ひょう》も神前に積《つ》まれて、奉納者《ほうのうしゃ》の名を書いた奉書紙《ほうしょがみ》が下げてある。
やがて鳴物《なりもの》が鳴り出した。
太鼓の白衣氏が撥《ばち》を握《にぎ》って単調な拍子《ひょうし》をとりつゝ
「ちょっとはなし、神の云うこと聞いてくれ」
と唱《とな》え出した。琴が鳴る。篳篥《ひちりき》が叫ぶ。琵琶が和《わ》する。
黒紋付木綿の綿入に袴《はかま》を穿《は》いた倔強《くっきょう》な若い男が六人、歌につれて神前に踊りはじめた。一進一退、裏《うら》むき表《おもて》むき、立ったり蹲《しゃが》んだり、黒紋付の袖からぬっと出た逞《たく》ましい両の手を合掌《がっしょう》したりほどいたり、真面目に踊って居る。無骨《ぶこつ》で中々|愛嬌《あいきょう》がある。「畚《もっこ》かついでひのきしん」と云う歌のところでは、六人ながら新しい畚を担《にな》って踊った。
鳴物は単調に鳴る。歌は単調につゞく。踊は相も変らぬ手振がつゞく。余は多少あき気味であたりを眺《なが》める。皆近辺の人達で、多少の識った顔もある。皆|嬉々《きき》として眺めて聴いて居る。
*
天理教祖は実に偉い婆さんであった。其広大な慈悲心は生きて働き、死んでます/\働き、老骨《ろうこつ》地に入ってこゝに数十年、其流れを汲《く》む人の数は実に夥《おびただ》しい数を以て数えられる。仮令《たとい》大和の本教会《ほんきょうかい》は立派な建築を興し、中学などを建て、小むずかしい天理教聖書を作り、已に組織病に罹《かか》ったとしても、婆さんから流れ出た活ける力はまだ/\盛に本当の信徒の間に働いて居る。信ずる者は幸福である。仮令《たとい》其信仰の為に財産をなくして人の物笑《ものわらい》となり、政府の心配となるとも、信ずる者は幸福である。彼等の多くは無学である。彼等に教理を問うても、彼等は唯にこ/\と笑うて、立派な言葉で明かに答える事は出来ぬ。然し信仰を説く者必しも信仰を有《も》つ者でない。信ずる彼等は確《たしか》に其信仰に生きて居るのである。
信仰と生活の一致は、容易で無い。何れの信仰でも雑多《ざった》な信者はある。世界の信者が其信仰を遺憾《いかん》なく実現したら、世界は夙《とう》に無事に苦んで居る筈《はず》だ。天理教徒にも色々ある。財産を天理様に捧《ささ》げてしまって、嬉々《きき》として労役者《ろうえきしゃ》の生活をして居る者もある。天理教で財産を耗《す》って、其|報償《むくい》を手あたり次第に徴集《ちょうしゅう》し、助けなき婆さんを窘《いじ》めて店賃《たなちん》をはたる者もある。病気の為に信心して幸に痊《い》ゆれば平気で暴利を貪《むさぼ》って居る者もある。信徒の労力を吸って肥《こ》えて居る教師もある。然し斯《この》せち鹹《から》い世の中に、人知れず美しい心の花を咲かす者も随処《ずいしょ》にある。此春妻が三軒茶屋《さんげんぢゃや》から帰るとて、車はなしひょろ/\する程荷物を提《さ》げて歩《ある》いて居ると、畑に働《はたら》いて居た娘が、今しも小学校の卒業式から優等の褒美をもろうて帰る少年を追かけて呼びとめてくれたので、其少年に荷物を分けて持ってもろうて帰って来た。親切な人々と思うて聞いて見れば、それは天理教信者であった。
人が平気に踏《ふ》みしだく道辺《みちべ》の無名草《ななしぐさ》の其小さな花にも、自然の大活力は現われる。天理教祖は日本の思いがけない水村|山郭《さんかく》の此処其処に人知れず生れて居るのである。
*
斯様な事を思うて居る内に、御神楽歌《おかぐらうた》一巻を唱《とな》え囃《はや》し踊る神前の活動はやんで、やがて一脚の椅子テーブルが正面に据《す》えられ、洋服を着た若い紳士が着席し、木下藤吉郎秀吉が信長の草履取《ぞうりとり》となって草履を懐《ふところ》に入れて温《あたた》めた事をきい/\声で演説した。其れが果てると、余は折詰《おりづめ》一個をもらい、正宗《まさむね》一|合瓶《ごうびん》は辞して、参拾銭|寄進《きしん》して帰った。
耶蘇教は我《が》強《つよ》く、仏教は陰気《いんき》くさく、神道に湿《しめ》りが無い。彼《かの》大なる母教祖《ははきょうそ》の胎内《たいない》から生れ出た、陽気で簡明|切実《せつじつ》な平和の天理教が、土《つち》の人なる農家に多くの信徒を有《も》つは尤である。
[#地から3字上げ](明治四十二年 十二月四日)
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渦巻
小春日がつゞく。
十二月は余の大好《だいす》きな月である。絢爛《けんらん》の秋が過ぎて、落つるものは落ち尽《つく》し、枯《か》るゝものは枯れ尽し、見るもの皆|乾々《かんかん》浄々《じょうじょう》として、寂《さび》しいにも寂しいが、寂しい中にも何とも云えぬ味《あじ》がある。秋に別れて冬になろうと云う此|隙《ひま》に、自然が一寸静座の妙境《みょうきょう》に入る其幽玄の趣《おもむき》は言葉に尽くせぬ。
隣字《となりあざ》の仙左衛門が、根こぎの山豆柿《やままめがき》一本と自然薯《じねんじょ》を持て来てくれた。一を庭に、一を鶏《にわとり》の柵《さく》に植える。今年《ことし》は吾家《うち》の聖護院《しょうごいん》大根《だいこ》が上出来だ。種をくれと云うから、二本やる。少し話して行けと云うたら、また近所《きんじょ》に鮭《さけ》が出来たからと云うて、急いで帰った。鮭とは、ぶら下がるの謎で、首縊《くびくく》りがあったと云うのである。
橋本の敬さんが、実弟の世良田《せらだ》某《ぼう》を連れて来た。五歳《いつつ》の年|四谷《よつや》に養子に往って、十年前渡米し、今はロスアンゼルス[#「ロスアンゼルス」に二重傍線]に砂糖《さとう》大根《だいこん》八十町、セロリー四十町作って居るそうだ。妻《つま》を持ちに帰って来たのである。カンタループ、草花の種子をもらう。
此村から外国《がいこく》出稼《でかせぎ》に往った者はあまり無い。朝鮮、北海道の移住者も殆んど無い。余等が村住居の数年間に、隣字の者で下総《しもうさ》の高原に移住し、可なり成功した者が一度帰って来たことがある。何《ど》の家にも、子女の五六人七八人居ない家はないが、それで一向《いっこう》新しい竈《かまど》の殖《ふ》える様子もない。如何《どう》なるかと云えば、女は無論|嫁《とつ》ぐが、息子《むすこ》の或者は養子に行く、ある者は東京に出て職を覚える、店《みせ》を出す。何しろ直ぐ近所に東京と云う大渦《おおうず》が巻いて居るので、村を出ると直ぐ東京に吸われてしもうて、移住出稼などに向く者は先ず無いと云うてよい。世良田《せらだ》君なんどは稀有《けう》の例である。
東京に出て相応《そうおう》に暮らして行く者もあるが、春秋の彼岸や盆《ぼん》に墓参に来る人の数は少なく、余の直ぐ隣の墓地でも最早《もう》無縁《むえん》になった墓が少からずあるのを見ると、故郷はなれた彼等の運命が思いやられぬでもない。「家鴨馴知灘勢急、相喚相呼不離湾」何処《どこ》ぞへ往ってしまいたいと口癖《くちぐせ》の様に云う二番目息子の稲公《いねこう》を、阿母《おふくろ》が懸念《けねん》するのも無理は無い。
[#地から3字上げ](明治四十四年 十二月五日)
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透視
非常の霜、地皮《ちひ》が全く霜《しも》やけして了うた。
午《ご》の前後はまた無闇《むやみ》と暖《あたたか》だ。凩《こがらし》も黙《だま》り、時雨《しぐれ》も眠《ねむ》り、乾《かわ》いて反《そ》りかえった落葉《おちば》は、木の下に夢《ゆめ》みて居る。烏《からす》が啼《な》いたあとに、隣の鶏《にわとり》が鳴《な》き、雀《すずめ》が去ったあとの楓《かえで》の枝《えだ》に、鷦鷯《みそさざい》がとまる。静かにさす午後の日に白く光《ひか》って小虫《こむし》が飛ぶ。蜘糸《くものい》の断片が日光の道を見せて閃《ひら》めく。甲州の山は小春《こはる》の空《そら》にうっとりと霞《かす》んで居る。
落ちついて、はっきりして、寂しい中に暖か味《み》があって、温《あたた》かい中に寂し味があって、十二月は本当に好い月である。
日曜だが、来客もなくて静《しずか》なことだ。主と妻と女児と、日あたりの好《い》い母屋《おもや》の南縁《なんえん》で、日なたぼっこをして遊ぶ。白茶《しらちゃ》天鵞絨《びろうど》の様に光る芝生《しばふ》では、犬のデカとピンと其子のタロウ、カメが遊んで居る。大きなデカ爺《おやじ》が、自分の頭程《あたまほど》もない先月生れの小犬の蚤《のみ》を噛《か》んでやったり、小犬が母の頸輪《くびわ》を啣《くわ》えて引張ったり、犬と猫と仲悪《なかわる》の譬《たとえ》にもするにデカと猫のトラと鼻《はな》突《つき》合わして互《たがい》に疑《うたが》いもせず、皆悠々と小春の恩光《おんこう》の下《もと》に遊んで居る。「小春」とか「和楽《わらく》」とかの画《え》になりそう。
*
細君が指輪《ゆびわ》をなくしたので、此頃勝手元の手伝《てつだ》いに来る隣字《となりあざ》のお鈴《すず》に頼み、吉《きち》さんに見てもらったら、母家《おもや》の乾《いぬい》の方角《ほうがく》高い処にのって居る、三日《みっか》稲荷様《いなりさま》を信心すると出て来る、と云うた。
吉さんは隣字の人で、日蓮宗の篤信者《とくしんじゃ》、病気が信心で癒《なお》った以来千里眼を得たと人が云う。吉凶《きっきょう》其他分からぬ事があれば、界隈《かいわい》の者はよく吉さんに往って聞く。造作《ぞうさ》なく見てくれる。馬鹿にして居る者もあるが、信ずる者が多い。信ずる者は、吉さんの言《ことば》で病気も癒《なお》り、なくなったものも見出す。此辺での長尾《ながお》郁子《いくこ》、御船《みふね》千鶴子《ちづこ》である。
裏の物置に大きな青大将《あおだいしょう》が居る。吉さんは、其れを先々代の家主のかみさんの霊《れい》だと云う。兎に角、聞く処によれば、これまで吉さんの言が的中《てきちゅう》した例は少なくない。吉さんは人の見得ないものを見る。汽車の轢死人《れきしにん》があった処を吉さんが通ると、青い顔の男女《なんにょ》がふら/\跟《つ》いて来て仕方《しかた》がないそうだ。
余の家にも他の若い者|並《なみ》に仕事に来ることがある。五十そこらの、瘠《や》せて力があまりなさそうな無口な人である。
我等は信が無い為に、統一が出来ない為に、おのずから明瞭なものも見えず聞こえずして了うのである。信ずる者には、奇蹟は別に不思議でも何でもない筈《はず》だ。
然しながら我等|凡夫《ぼんぷ》は必しも人々尽く千里眼たることは出来ぬ。また必ずしも悉く千里眼たるを要せぬ。長尾郁子や千鶴子も評判が立つと間もなく死んで了うた。不信が信を殺したとも云える。また一方から云えば、幽明《ゆうめい》、物心《ぶっしん》、死生《しせい》、神人《しんじん》の間を隔《へだ》つる神秘の一幕《いちまく》は、容易に掲《かか》げぬ所に生活の面白味《おもしろみ》も自由もあって、濫《みだ》りに之を掲ぐるの報《むくい》は速《すみ》やかなる死或は盲目である場合があるのではあるまいか。命を賭《と》しても此帷幕の隙見《すきみ》をす可く努力せずに居られぬ人を哂《わら》うは吾儕《われら》が鈍《どん》
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