しく迎える。畑には最早大麦小麦が寸余に生えて居る。大根漬菜が青々とまだ盛んな生気《せいき》を見せて居る。籬《かき》の外の畑では、まだ晩蒔《おそまき》の麦を蒔いて居る。向うの田圃では、ザクリ/\鎌の音をさして晩稲《おくて》を苅《か》って居る。
今は午後の四時である。先程からぱっと射《さ》して色と云う色を栄《は》えさして居た日は、雲の瞼《まぶた》の下に隠れて、眼に見る限りの物は沈欝《ちんうつ》な相《そう》をとった。松の下の大分黄ばんだ芝生に立って、墓地の銀杏《いちょう》を見る。さまで大きくもあらぬ径《けい》六寸程の比較的|若木《わかぎ》であるが、魚の背骨《せぼね》の一方を削った様に枝は皆北方へ出て、南へは唯一本しか出て居ない。南の枝にも梢にも、残る葉はなくて、黄葉《こうよう》は唯北方に密集して居る。其裸になった梢に、嘴《はし》の大きな痩鴉《やせがらす》が一羽とまって居る。永く永くとまって居たが、尾羽で一つ梢をうって唖々《ああ》と鳴きさまに飛び立った。黄いろい蝶の舞う様に銀杏の葉がはら/\と飄《ひるが》える。
廻沢の杉森《すぎもり》のあなたを、葬式が通ると見えて、「南無阿弥陀ァ仏、南無阿弥陀ァ仏」単調な念仏《ねんぶつ》が泣く様に響いて来る。
[#地から3字上げ](大正元年 十一月十日)
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二つの幻影
北風が寒く、冬らしい日。
然し東京附近で冬を云々するのは烏滸《おこ》がましい。如何に寒いと云っても、大地が始終|真白《まっしろ》になって居るではなし、少し日あたりのよい風よけのある所では、寒中《かんちゅう》にも小松菜《こまつな》が青々《あおあお》して、崖《がけ》の蔭では菫《すみれ》や蒲公英《たんぽぽ》が二月に咲いたりするのを見るのは、珍らしくない。
北へ行かねば、冬の心地は分からぬ。せめて奥州、北海道、樺太《かばふと》、乃至《ないし》大陸の露西亜《ろしあ》とか西比利亜とかでなければ、本当の冬の趣味は分からぬ。秋|日々《ひび》に老いて近づく冬の気息が一刻々々に身に響く頃の一種の恐怖《おそれ》、死に先だつ深い絶望と悲哀は、東京附近の浅薄な冬の真似では到底分からぬ。東京附近の冬は、せい/″\半死半生である。冬が本当の死である国土でなければ、秋の暮の淋し味も、また春の復活の喜も十分には分からぬ。
「おゝ神よ、吾をしてこの春に会うを得せしめ給うを感謝す」と畑で祈ると云う露西亜の老農の心もちには、中々東京附近の百姓はなれぬ。
否《いや》でも応《おう》でも境遇に我等は支配される。我々の邦《くに》では一切の事が兎角徹底せぬわけである。
*
午後散歩、田圃《たんぼ》では皆欣々喜々として晩稲《おくて》を苅って居る。
甲斐《かい》の山を見る可く、青山街道から十四五歩、船橋《ふなばし》の方へ上って居ると、東京の方から街道を二台の車が来る。護謨輪《ごむわ》の奇麗な車である。道の左右の百姓達が鎌の手をとゞめて見て居る。予は持て居た双眼鏡《そうがんきょう》を翳《かざ》した。前なる透《す》かし幌《ほろ》の内は、丸髷に結って真白《まっしろ》に塗った美しい若い婦人である。後の車には、乳母《うば》らしいのが友禅《ゆうぜん》の美しい着物に包まれた女の児を抱《だ》いて居る。玩具など幌の扇骨《ほね》に結いつけてある。今日は十一月の十五日、七五三の宮詣《みやもう》でに東京に往った帰りと見える。二台の護謨輪《ごむわ》が威勢の好い白法被《しろはっぴ》の車夫に挽《ひ》かれて音もなくだら/\坂を上って往って了うと、余はものゝ影が余の立つ方に近づきつゝあるに気づいた。骸骨《がいこつ》が来るのかと思うた。其は一人の婆《ばば》であった。両の眼の下瞼《したまぶた》が悉《ことごと》く朱《あけ》に反《そ》りかえって、椎《しい》の実程の小さな鼻が右へ歪《ゆが》みなりにくっついて居る。小さな風呂敷包を頸《くび》にかけて、草履《ぞうり》の様になった下駄《げた》を突かけて居る。余は恐ろしくなって、片寄って婆《ばあ》さんを通した。今にも婆さんが口をきゝはせぬかと恐れた。然し婆さんは、下瞼の朱《あか》く反りかえった眼でじろり余を見たまゝ、余の傍《わき》を通り過ぎて了うた。程なく雑木山に見えなくなった。
余は今しがた眼の前を過ぎた二つの幻《まぼろし》の意味を思いつゝ、山を見ることを忘れて田圃の方へ下りて往った。
[#地から3字上げ](大正元年 十一月十五日)
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入営
辰《たつ》爺《じい》さん宅《とこ》の岩公《いわこう》が麻布聯隊に入営する。
寸志の一包と、吾れながら見事《みごと》に出来た聖護院《しょうごいん》大根《だいこ》を三本|提《さ》げて、挨拶に行く。禾場《うちば》には祝入営の旗が五本も威勢《いせい》よく立って、広くもあらぬ家には人影《ひとかげ》と人声《ひとごえ》が一ぱいに溢れて居る。土間の入口で、阿爺《ちゃん》の辰さんがせっせと饂飩粉《うどんこ》を捏《こ》ねて居る。是非《ぜひ》上《あが》れと云うのを、後刻とふりきって、大根を土間に置いて帰る。
午後万歳の声を聞いて、遽《あわ》てゝ八幡《はちまん》に往って見る。最早《もう》楽隊《がくたい》を先頭に行列が出かける処だ。岩公は黒紋付の羽織、袴、靴、茶《ちゃ》の中折帽《なかおれぼう》と云う装《なり》で、神酒《みき》の所為《せい》もあろう桜色になって居る。岩公の阿爺《ちゃん》は体格《なり》は小さい人の好い爺《じい》さんだが、昔は可なり遊んだ男で、小供まで何処かイナセなところがある。
余も行列に加わって、高井戸まで送る。真先《まっさ》きに、紫地に白く「千歳村粕谷少年音楽隊」とぬいた横旗を立てゝ、村の少年が銀笛《ぎんてき》、太鼓《たいこ》、手風琴《てふうきん》なぞピー/\ドン/\賑《にぎ》やかに囃《はや》し立てゝ行く。入営者の弟の沢ちゃんも、銀笛を吹く仲間《なかま》である。次ぎに送入営の幟《のぼり》が五本行く。入営者の附添人としては、岩公の兄貴の村さんが弟と並んで歩いて居る。若い時は、亭主が夜遊びするのでしば/\淋しい留守をして、宵夜中《よいよなか》小使銭《こづかい》貸せの破落戸漢《ならずもの》に踏み込まれたり、苦労に齢《とし》よりも老《ふ》けた岩公の阿母《おふくろ》が、孫の赤坊を負って、草履をはいて小走りに送って来る。四五日前に除隊になった寺本の喜三さんも居る。水兵服《すいへいふく》の丈高《たけたか》い男を誰かと思うたら、休暇で横須賀から帰って来た萩原の忠さんであった。一昨日|母者《ははじゃ》の葬式《そうしき》をして沈んだ顔の仁左衛門さんも来て居る。余は高井戸の通りで失敬して、径路《こみち》から帰った。ふりかえって見ると、甲州街道の木立に見え隠れして、旗影と少年音楽隊の曲《きょく》が次第に東へ進んで行く。
今日は何処《どこ》も入営者の出発で、船橋の方でも、万歳の声が夕日の空に※[#「風+昜」、第3水準1−94−7]《あが》って居た。
[#地から3字上げ](明治四十四年 十一月三十日)
*
辰爺さんが酔うて昨日の礼に饂飩を持て来た。うっかりして居たが、吾家《うち》は組内だから昨日も何角《なにか》の手伝《てつだい》に行かねばならなかったのであった。
爺さんは泣声《なきごえ》して、
「岩もね、二週間すると来ますだよ」と云う。「兵隊に出すのが嫌だなンか云うことァ出来ねえだ。何でも大きくなる時節で、天子様《てんしさま》も国《くに》を広くなさるだから」と云う。
誰が教えたのかしら。
[#地から3字上げ](同 十二月一日)
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生死
霜無く、風無く、雲無く、静かな寂《しず》かな小春の日。
昨夜、台所の竈台《へっついだい》の下の空籠《からかご》の中で、犬のピンがうめいたり叫《さけ》んだりして居たが、到頭四疋子を生んだ。茶色《ちゃいろ》が二疋、黒《くろ》が二疋、あの小さな母胎《ぼたい》からよく四疋も生れたものだ。つい今しがた母胎を出たばかりなのに、小猫《こねこ》の様な啼声《なきごえ》を出して、勢《いきおい》猛《もう》に母の乳にむしゃぶりつく。
子犬の生れた騒ぎに、猫のミイやが居ないことを午過《ひるす》ぎまで気付《きづ》かなかった。「おや、ミイは?」と細君《さいくん》が不安な顔をして見廻《みま》わした時は、午後の一時近かった。総《そう》がかりで家中探がす。居ない。屋敷中探がす。居ない。舌《した》が痛くなる程呼んでも、答が無い。民やをやって、近所を遍《あま》ねく探がさしたが、何処にも居ず、誰も知らぬ、と云う。まだ遠出《とおで》をする猫ではなし、何時《いつ》居なくなったろうと評議する。細君が暫らく考えて「朝は居ましたよ、葱《ねぎ》とりに往く時私に跟《つ》いて畑なぞ歩いて居ました」と云う。如何《どう》なったのだろう? 烏山の天狗犬《てんぐいぬ》に噛《か》まれたのかも知れぬ。三毛《みけ》は美しい小猫だったから、或は人に抱《だ》いて往かれたかも知れぬ。可愛い、剽軽《ひょうきん》な、怜悧《りこう》な小猫だったに、行方不明とは残念な事をして了うた。ひょっとしたら、仲好《なかよ》くして居たピンに子犬が生れたから、ミイが嫉妬して身を隠したのではあるまいか、などあられもない事まで思う。
夕食の席で、民やが斯様《こん》な話をした。今日《きょう》午後猫を捜《さが》して居ると、八幡下で鴫田《しぎた》の婆さんと辰さん家《とこ》の婆さんと話して居た。先刻|田圃《たんぼ》向うの雑木山の中で、印半纏《しるしばんてん》を着た廿歳許の男と、小ざっぱりした服装《なり》をした二十《はたち》前後の女が居た。男はせっせと手で土を掘《ほ》って居た。女は世にも蒼ざめた顔をして居た。自然薯《じねんじょ》でも掘るのですかい、と通りかゝりの婆さんがきいたら、何とも返事しなかった。程経てまた通ると、先の男女はまだ其処《そこ》に居た。其前|八幡山《はちまんやま》の畑の辺をまご/\して居たそうである。多分|闇《やみ》から闇にと堕《お》りた胎児《たいじ》を埋めたのであろう。鴫田の婆さんは、自家《うち》の山に其様《そん》な事でもしられちゃ大変だ、と云うて畑の草の中なぞ杖《つえ》のさきでせゝって居たそうだ。
其若い男女が、ひょっとしたらまた其処《そこ》へ来て居るかも知れぬ。あるいは無分別をせぬとも限らぬ。
箸《はし》を措《お》くと、外套《がいとう》引かけて出た。体《からだ》も魂《たましい》も倔強《くっきょう》な民が、私お供《とも》致しましょう、と提灯《ちょうちん》ともして先きに立つ。
八幡下の田圃を突切《つっき》って、雑木林の西側を這《は》う径《こみち》に入った。立どまって良《やや》久《ひさ》しく耳を澄《す》ました。人らしいものゝ気《け》もない。
「何処《どこ》に居るかね、不了簡《ふりょうけん》をしちゃいかんぞ。俺《わし》に相談をして呉れんか」
声をかけて置いて、熟《じっ》と聞き耳を立てたが、吾声《わがこえ》の攪乱《かきみだ》した雑木山の静寂《せいじゃく》はもとに復《か》えって、落葉《おちば》一つがさとも云わぬ。霜を含んだ夜気《やき》は池の水の様に凝《こ》って、上半部を蝕《く》い欠《か》いた様な片破《かたわ》れ月が、裸《はだか》になった雑木の梢《こずえ》に蒼白く光って居る。
立とまっては耳を傾《かたむ》け、答《こたえ》なき声を空林《くうりん》にかけたりして、到頭甲州街道に出た。一廻りして、今度は雑木山の東側の径《こみち》を取って返した。提灯は径を歩かして、余は月の光《あかり》を便りに今一度疑問の林に分け入った。株立になった雑木は皆|落葉《おちば》して、林の中は月明《つきあかり》でほの白い。櫟《くぬぎ》から楢《なら》と眼をつけ、がさ/\と吾が踏《ふ》み分くる足下《あしもと》の落葉にも気をつけ、木を掘ったあとの窪《くぼみ》を注視し、時々立止って耳を澄ました。
居《い》ない。終に何者も居ない。土の下も黙《だま》って居る。
[#地から3字上げ](明治四十二年 十二
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