ねば土地収用法を適用するまでの事だ、電鉄の手で買えば一反五百七十円から五百五十円までゞ買うが、土地収用法がものを云えば一反三百円か高くても三百五十円は越《こ》さない、其《それ》でも好《よ》いか、好ければ今に見ろ。斯様《こん》な調子でのしかゝって来た。
売る者は売れ、俺等《おいら》は売らぬ、と澄《す》まして居た反対|側《がわ》の人達も、流石《さすが》に怒《おこ》り出した。腰弁当、提灯持参、草鞋《わらじ》がけの運動がはじまった。村会に向って、墓地《ぼち》排斥《はいせき》の決議を促す申請書を出す。村会に於てはまた、大多数を以て墓地排斥の建議案を通過するぞと意気込《いきご》む。それから連判《れんぱん》の陳情書を東京府庁へ出すとて余にも村民の一人として賛成を求めて来た。昨朝の事である。
下
今日《きょう》余は女児と三疋の犬とを連れて、柿を給田《きゅうでん》に買うべく出かけた。薄曇りした晩秋の寂しい午後である。
品川堀に沿うて北へ歩《あゆ》む。昨日連判状を持って来た仲間《なかま》の一人が、かみさんと甘藷《さつま》を掘って居る。
「此処《ここ》らも予定地《よていち》の内ですか」
「え、彼《あの》道路からずっとなんですよ。彼処《あすこ》に旗《はた》が立ってますだ」
成程余が書窓《しょそう》から此頃常に見る旗と同じ紅白染分の旗が、路傍の松の梢《こずえ》にヒラヒラして居る。東北の方にも見える。彼《あの》旗が敗北の白旗《しろはた》に変らなかったなら、此夫婦は来年此処で甘藷を掘ることは出来ぬのである。
余は麦畑に踏込む犬を叱《しか》り、道草《みちくさ》摘《つ》む女児を促《うなが》し、品川堀に沿うて北へ行く。路傍《みちばた》の尾花は霜枯れて、かさ/\鳴って居る。丁度《ちょうど》七年前の此月である。余は妻と此《この》世《よ》の住家《すみか》を探《さ》がして、東京から歩いて千歳村に来た。而して丁度其日の夕方に、疲《つか》れた足を曳《ひ》きずって、正に此路を通って甲州街道に出たのであった。夕日の残る枯尾花《かれおばな》、何処《どこ》やらに鳴く夕鴉《ゆうがらす》の声も、いとどさすらえ人の感を深くし、余も妻も唯|黙《だま》って歩いた。我儕《われら》の行衛は何処《どこ》に落ちつくのであろう? 余等は各自《てんで》に斯く案じた。余は一個の浮浪《ふろう》書生《しょせい》、筆一本あれば、住居は天幕《てんまく》でも済《す》む自由の身である。それでさえ塒《ねぐら》はなれた小鳥の悲哀《かなしみ》は、其時ヒシと身に浸《し》みた。土から生れて土を食《く》い土を耕《たがや》して終に土になる土の獣《けもの》の農が、土を奪われ土から追われた時の心は如何《どう》であろう!
品川堀が西へ曲る点《とこ》に来た。丸太を組んだ高櫓《たかやぐら》が畑中に突立って居る。上には紅白の幕を張って、回向院の太鼓櫓《たいこやぐら》を見るようだ。北表面《きたおもて》へ廻《まわ》ると、墨黒々と筆太《ふでぶと》に
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霊場敷地展望台
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と洋紙《ようし》に書いて張ったのが、少し破れて風にばた/\して居る。品川堀を渡って、展望台の方へ行くと、下の畑で鉢巻《はちまき》をした禿頭《はげ》の爺《じい》さんが堆肥《つくて》の桶《おけ》を担《かつ》いで、※[#「女+息」、第4水準2−5−70]《よめ》か娘か一人の女と若い男と三人して麦蒔《むぎまき》をして居る。爺さんは桶を下《お》ろし、鉢巻をとって、目礼《もくれい》した。此は昨夕村会議員の一人と訪ねて来た爺さんである。其宅地も畑も所有地全部|買収地《ばいしゅうち》の真中《まんなか》に取こめられ、仮令《たとい》収用法《しゅうようほう》の適用が出来ぬとしても、もし唯一人売らぬとなれば袋《ふくろ》の鼠《ねずみ》の如く出口をふさがれるし、売るとなれば一寸の土も残らず渡して去らねばならぬので、最初から非常に憂惧《ゆうぐ》し、殆《ほとん》ど仕事も手につかず、昨日|訪《た》ずねて来た時もオド/\した斯老人の容子は余の心《むね》を傷《いた》ましめた。今其畑に来て見れば、直ぐ隣の畑には爺さんを追い払う云わば敵の展望台があたりを睥睨《へいげい》して立って居る。爺さんは昼は其望台の蔭で畑打ち、夜は望台の夢に魘《おそ》わるゝことであろう。爺さんの寿命を日々《にちにち》夜々《やや》に縮《ちぢ》めつゝあるものは、斯展望台である。余は爺さんに目礼して、展望台の立つ隣の畑に往った。茶《ちゃ》と桑《くわ》と二方を劃《しき》った畑の一部を無遠慮に踏み固めて、棕櫚縄《しゅろなわ》素縄《すなわ》で丸太《まるた》をからげ組み立てた十数間の高櫓《たかやぐら》に人は居なかった。余は上ろうか上るまいかと踟※[#「足へん+厨」、第3水準1−92−39]《ちちゅう》したが、終《つい》に女児《じょじ》と犬を下に残して片手|欄《てすり》を握りつゝ酒樽の薦《こも》を敷いた楷梯《はしご》を上った。北へ、折れて西へ、折れて南へ、三|重《じゅう》の楷梯を上って漸く頂上に達した。中々高い。頂《いただき》は八分板を並べ、丈夫に床《ゆか》をかいてある。
余は思わず嗟嘆《さたん》して見廻《みま》わした。好い見晴らしだ。武蔵野の此辺では、中々斯程の展望所は無い。望台を中心としてほゞ大円形《だいえんけい》をなした畑地は、一寸程になった麦の緑縞《みどりじま》、甘藷《さつま》を掘ったあとの紫がかった黒土、べったり緑青《ろくしょう》をなすった大根畑、明るい緑色の白菜畑《はくさいばたけ》、白っぽい黄色の晩陸稲《おくおかぼ》、入乱れて八方に展開し、其周囲には霜《しも》に染《そ》みた雑木林、人家を包む樫《かし》木立《こだち》、丈高い宮の赤松などが遠くなり近くなりくるり取巻《とりま》いて居る。北を見ると、最早《もう》鉄軌《れえる》を敷いた電鉄の線路が、烏山の木立の間に見え隠れ、此方《こなた》のまだ枕木も敷かぬ部分には工夫が五六人|鶴嘴《つるはし》を振《ふ》り上げて居る。西を見れば、茶褐色に焦《こが》れた雑木山の向うに、濃い黛色《たいしょく》の低い山が横長く出没して居る。多摩川《たまがわ》の西岸を縁《ふち》どる所謂多摩の横山で、川は見えぬが流れの筋《すじ》は分明《ぶんみょう》に指さゝれる。少し西北には、青梅《あおめ》から多摩川上流の山々が淡く見える。西南の方は、富士山も大山も曇った空に潜《ひそ》んで見えない。唯|藍色《あいいろ》の雲の間から、弱い弱い日脚《ひあし》が唯一筋|斜《はす》に落ちて居る。
やゝ久しく吾を忘れて眺《なが》め入った余は、今京王電鉄が建てた墓地敷地展望台の上に立って居ることに気がついた。余は更に目をあげてあたりを見廻わした。此望台を中心として、二十万坪六十余町歩の耕地宅地を包囲して、南に東に北に西に規則正しく間隔《かんかく》を置いて高く樹梢に翻って居る十数流の紅白旗は、戦わずして已に勝を宣する占領旗《せんりょうき》かと疑われ、中央に突立ってあたり見下《みお》ろす展望台は、蠢爾《しゅんじ》としてこゝに耕す人と其|住家《すみか》とを呑《の》んでかゝって威嚇《いかく》して居る様で、余は此展望台に立つのが恥かしくなった。
雪空の様に曇りつゝ日は早や暮《くる》るに間《ま》もなくなった。何処《どこ》かに鴉《からす》が鳴く。余はさながら不測の運命に魘《おそ》われて悄然《しょうぜん》として農夫の顔其まゝに言《ものい》わぬ哀愁に満ちた自然の面影にやるせなき哀感《あいかん》を誘《さそ》われて、独|望台《ぼうだい》にさま/″\の事を想うた。都会と田舎の此争は、如何に解決せらるゝであろう乎。京王は終に勝つであろうか。村は負けるであろうか。資本の吾儘《わがまま》が通るであろう乎。労力の嘆《なげ》きが聴かるゝであろう乎。一年両度|緑《みどり》になり黄《き》になり命《いのち》を与うる斯二十万坪の活《い》きた土は、終古《しゅうこ》死の国とならねばならぬのであろうか。今|憂《うれい》の重荷《おもに》を負《お》うて直下《すぐした》に働いて居る彼爺さん達、彼処《あち》此処《こち》に鳶色に焦《こが》れた欅《けやき》の下|樫《かし》の木蔭に平和を夢みて居る幾個《いくつ》の茅舎《ぼうしゃ》、其等《それら》は所謂文明の手に蠅《はえ》の如く簑虫《みのむし》の宿《やど》の如く払いのけられねばならぬのであろうか。数で云うたら唯《たった》二十万坪の土地、喜憂《きゆう》を繋《か》くる人と戸数と、都の場末の一町内にも足らぬが、大なる人情の眼は唯|統計《とうけい》を見るであろうか。東京は帝都《ていと》、寸土《すんど》寸金《すんきん》、生が盛《さか》れば死は退《の》かねばならぬ。寺も移らねばなるまい。墓地も移らずばなるまい。然しながら死にたる骨《ほね》は、死にたる地《ち》に安《やす》んずべきではあるまい乎。寺と墓地とは縁もゆかりもない千歳村の此耕さるべき部分の外に行き得る場所はないのであろう乎。都会が頭なら、田舎は臓腑《ぞうふ》ではあるまい乎。頭が臓腑を食ったなら、終《つい》には頭の最後ではあるまい乎。田舎はもとより都会の恩《おん》を被《き》る。然しながら都会を養い、都会のあらゆる不浄を運《はこ》び去り、新しい生命《いのち》と元気を都会に注《そそ》ぐ大自然の役目を勤むる田舎は、都会に貢献する所がないであろう乎。都会が田舎の意志と感情を無視して吾儘《わがまま》を通すなら、其れこそ本当の無理である。無理は分離である。分離は死である。都会と田舎は一体《いったい》である。農が濫《みだり》に土を離るゝの日は農の死である。都《みやこ》が田舎を潰《つぶ》す日は、都自身の滅亡《めつぼう》である。
彼旗を撤《てっ》し、此望台を毀《こぼ》ち、今自然も愁《うれ》うる秋暮の物悲しきが上に憂愁不安の気雲の如く覆《おお》うて居る斯千歳村に、雲霽れてうら/\と日の光《ひかり》射《さ》す復活の春を齎《もた》らすを得ば、其時こそ京王の電鉄も都と田舎を繋《つな》ぐ愛の連鎖、温《あたた》かい血の通《かよ》う脈管《みゃくかん》となるを得るであろう。
[#地から3字上げ](大正元年 十一月八日)
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暮秋の日
竜田姫《たつたひめ》のうっとりと眼を細《ほそ》くし、またぱっと目を※[#「目+登」、第3水準1−88−91]《みひ》らく様な、曇りつ照りつ寂しい暮秋の日。
暦《こよみ》の冬は五六日前に立った。霜はまだ二朝《ふたあさ》三朝《みあさ》、しかも軽いのしか降《ふ》らない。但先月の嵐が累《るい》をなしたのか、庭園の百日紅、桜、梅、沙羅双樹《さらそうじゅ》、桃、李、白樺、欅、厚朴《ほう》、木蓮の類の落葉樹は、大抵葉を振うて裸になり、柿やトキワカエデの木の下には、美しい濶《ひろ》い落葉《おちば》が落葉の上に重《かさ》なって厚い茵《しとね》を敷いて居る。菊はまだ褪《うつろ》わずして狂うものは狂いそめ、小菊、紺菊の類は、園の此処彼処にさま/″\な色を見せ、紅白の茶山花《さざんか》は枝上地上に咲きこぼれて居る。ドウダン、ヤマモミジ、一行寺、大盃、イタヤ、ハツシモ、など云う類《たぐい》の楓《かえで》や銀杏《いちょう》は、深く浅く鮮やかにまた渋《しぶ》く、紅、黄、褐《かち》、茜《あかね》、紫さま/″\の色に出で、気の重い常緑木《ときわぎ》や気軽な裸木《はだかぎ》の間を彩《いろ》どる。常緑木の中でも、松や杉は青々とした葉の下に黄ばんだ古葉《ふるは》を簇々《むらむら》と垂《た》れて、自ら新にす可く一吹《いっすい》の風を待って居る。菊、茶山花の香を含んで酒の様に濃い空気を吸いつゝ、余はさながら虻《あぶ》の様に、庭から園、園から畑と徘徊《はいかい》する。庭を歩く時、足下に落葉がかさと鳴る。梅の小枝に妙な物がと目をとめて見ると、蛙《かわず》の干物《ひもの》が突刺してある。此はイタズラ小僧の百舌鳥《もず》めが食料に干《ほ》して置《お》いて其まゝ置き忘れたのである。園を歩く時、大半は種になったコスモスの梢《こずえ》に咲き残った紅白の花が三つ四つ淋《さび》
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