努力をして、彼が悶死の一因を作ったのと、学習院に於て余の為可《すべ》かりし演説が某の注意に因《よ》り院長たる将軍の言によって差止《さしと》められたことを聞いた外、乃木将軍とは一回の対面もせず、一通の書信の往復も為《し》なかった。茫々《ぼうぼう》たる宇宙に於て、大将夫妻と余をいさゝか繋《つな》ぐものがあるならば、其は「寄生木」である。
然しながら寄生木は、篠原良平の寄生木で、余の寄生木では無い。唯将軍と余の間に一の縁《えん》を作ったに過ぎぬ。乃木将軍夫妻程|死花《しにばな》が咲《さ》いた人々は近来《きんらい》絶無《ぜつむ》と云ってよい。大将夫妻は実に日本全国民の崇拝《すうはい》愛慕《あいぼ》の的《まと》となった。乃木文学は一時に山をなして出た。斯上《このうえ》蛇足《だそく》を加うる要はないかも知れぬ。然し寄生木によりて一種の縁を将軍夫妻に作った余には、また余|相応《そうおう》の義務が感ぜられる。此義務は余にとって不快な義務では無い。余は如何《いか》なる形《かたち》に於てかこの義務を果したいと思うて居る。
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コスモス
今日は夏を憶《おも》い出す様な日だった。午後寒暖計が六十八度に上った。白い蝶《ちょう》が出て舞う。蠅《はえ》が活動する。蝉《せみ》さえ一しきり鳴いた。
今はコスモスの真盛《まさかり》である。濃紅、紅、淡紅、白、庭にも、園にも、畑にも、掃溜《はきだめ》の傍《はた》にも、惜気もなく心《しん》を見せて思いのまゝに咲き盛《さか》って居る。誰か見に来ればよいと思うが、終日誰も来《こ》ぬ。唯主人のみ黄金《こがね》の雨と降る暖かい秋の日を浴《あ》びて、存分に色彩の饗応に預かる。
たま/\屋敷下《やしきした》を荷車挽いて通りかゝった辰《たつ》爺《じい》さんが、
「花車《だし》の様だね」
とほめて通った。
庭内も、芙蓉、萩、蓮華《れんげ》つゝじは下葉《したば》から色づき、梅桜は大抵落葉し、ドウダン先ず紅に照り初め、落霜紅《うめもどき》は赤く、木瓜《ぼけ》の実《み》は黄に、松はます/\緑に、山茶花《さざんか》は香を、コスモスは色を庭に満たして、実に何とも云えぬ好い時候だ。
夕方屋敷の南端にある欅《けやき》の切株《きりかぶ》に上って眺める。日は何時《いつ》しか甲州の山に落ちて、山は紫に匂《にお》うて居る。白茶色になって来た田圃《たんぼ》にも、白くなった小川の堤《つつみ》の尾花《おばな》にも夕日が光って、眼には見る南村北落の夕けぶり。烏啼き、小鳥鳴き、秋《あき》静《しずか》に今日も過ぎて行く。東京の方を見ると、臙脂色《えんじいろ》の空《そら》に煙が幾条《いくすじ》も真直に上って居る。一番南のが、一昨日火薬が爆発《ばくはつ》して二十余名を殺傷《さっしょう》した目黒の火薬庫の煙だ。
[#地から3字上げ](明治四十四年 十月二十三日)
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秋さびし
今日《きょう》はさびしい日である。
ダリヤの園を通ると、二尺あまりの茶色《ちゃいろ》の紐《ひも》が動いて居る、と見たは蛇だった。蜥蜴《とかげ》の様な細《ほそ》い頭をあげて、黒い針《はり》の様な舌《した》をペラ/\さして居る。殺そうか殺すまいかと躊躇《ちゅうちょ》して見て居る内に、彼は直ぐ其処《そこ》にある径《けい》一寸ばかりの穴《あな》に這入《はい》りかけた。見る中に吸わるゝ様にズル/\と辷《すべ》り込んで了うた。
園内を歩くと、蝉《せみ》のヌケ殻《がら》が幾個《いくつ》も落ちて居る。昨夜は室内で、小さなものゝ臨終《りんじゅう》の呻吟《うめき》の様なかすかな鳴声《なきごえ》を聞いたが、今朝《けさ》見ればオルガンの上に弱《よわ》りはてたスイッチョが居た。彼は未だ死に得ない。而《そう》して死に得る迄《まで》は鳴かねばならぬのである。
自然は老いて行く。座敷《ざしき》の前を蜂《はち》が一疋歩いて行く。両羽《りょうはね》をつまんでも、螫《さ》そうともせぬ。何に弱ってか、彼は飛《と》ぶ力ももたぬのである。そっと地に下ろしたら、また芝生の方へそろ/\歩いて行く。
今日はさびしい日である。
午後は曇《くも》って泣き出しそうな日であった。
午後になって、いやに蒸暑《むしあつ》い空気《くうき》が湛《たた》えた。懶《ものう》い自然の気を感じて、眼ざとい鶴子が昼寝《ひるね》した。掃き溜には、犬のデカがぐたりと寝て居る。芝生には、猫《ねこ》のトラが眠《ねむ》って居る。
南から風が吹く。暖かい事は六月の風の様で、目を瞑《つぶ》って聞くと、冬も深い凩《こがらし》の響《おと》がする。
今日はさびしい日である。
今は午後四時である。雲を漏《も》れて、西日《にしび》の光がぱっと射《さ》して来た。散りかゝった満庭《まんてい》のコスモスや、咲きかゝった菊や、残る紅の葉鶏頭《はげいとう》や、蜂虻《はちあぶ》の群がる金剛纂《やつで》の白い大きな花や、ぼうっと黄を含んだ芝生や、下葉《したは》の褐色《かっしょく》に凋《しお》れて乾《かわ》いた萩や白樺や落葉松や、皆斯夕日に寂《さび》しく栄《は》えて居る。鮮やかであるが、泣いて居る。美《うる》わしいが、寂しい。
今日はさびしい日である。
[#地から3字上げ](大正元年 十月二十八日)
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展望台に上りて
上
余の書窓《しょそう》から西に眺《なが》むる甲斐《かい》の山脈《さんみゃく》を破《は》して緑色|濃《こ》き近村《きんそん》の松の梢《こずえ》に、何時の程からか紅白|染分《そめわけ》の旗が翻《ひるがえ》った。機動演習《きどうえんしゅう》の目標《もくひょう》かと思うたら、其れは京王電鉄《けいおうでんてつ》が沿線繁栄策の一として、ゆく/\東京市の寺院墓地を移す為めに買収《ばいしゅう》しはじめた敷地《しきち》二十万坪を劃《しき》る目標の一つであった。
京王電鉄調布上高井戸間の線路《せんろ》工事《こうじ》がはじまって、土方《どかた》人夫《にんぷ》が大勢《おおぜい》入り込み、鏡花君の風流線にある様な騒ぎが起ったのは、夏もまだ浅い程の事だった。娘が二人|辱《はずか》しめられ、村中の若い女は震え上り、年頃《としごろ》の娘をもつ親は急いで東京に奉公に出すやら、無銭飲食を恐れて急に酒樽を隠すやら、土方が真昼中甲州街道をまだ禁菓《きんか》を喰《く》わぬアダム同様|無褌《むふんどし》の真裸《まっぱだか》で横行濶歩、夜は何《ど》の様な家へでも入込むので、未だ曾て戸じまりをしたことがない片眼《かため》婆《ばあ》さんのあばら家まで、遽《あわ》てゝかけ金《がね》よ釘《くぎ》よと騒いだりした。其れも工程の捗取《はかど》ると共に、何時《いつ》しか他所《よそ》に流れて往って了うた。やがて起ったのが、東京の寺院墓地移転用敷地廿万坪買収の一件である。
京王電鉄も金が無い。東京の寺や墓地でも引張《ひっぱ》って来て少しは電鉄沿線の景気をつけると共に、買った敷地を売りつけて一儲《ひともう》けする、此は京王の考としてさもありそうな話である。田舎はもとより金が無い。比較的小作料の低廉な此辺の大地主は、地所を荷厄介《にやっかい》にして居る。また大きな地主で些《ちと》派手《はで》にやって居る者に借金が無い者は殆《ほと》んどない。二十万坪買収は、金に渇《かわ》き切った其或人々にとって、旱田《ひでりだ》に夕立《ゆうだち》の福音《ふくいん》であった。財政整理の必要に迫られて居ると知られた某々の有力者は、電鉄の先棒となって、盛《さかん》に仲間《なかま》を造りはじめた。金は無論|欲《ほ》しい。脅嚇《おどかし》も勿論|利《き》く。二十万坪の内八万坪、五十三名の地主の内十九名は、売渡《うりわたし》承諾《しょうだく》の契約書《けいやくしょ》に調印してしまった。踟※[#「足へん+厨」、第3水準1−92−39]《ちちゅう》する者もあった。余はある人に斯《こ》う云うた、不用の地所があるなら兎も角、恰好《かっこう》の代地があったら格別、でなければ農が土を手放《てばな》すは魚《うお》の水に離《はな》れるようなものだ、金なんか直ぐ泡《あわ》の様に消えて了う、今更農をやめて転業するなぞは十が十|堕落《だらく》の原《もと》だ。
売らぬと云う側《がわ》は、人数《にんず》で関係地主の総数《そうすう》五十三人中の三十名、坪数で二十万坪の十二万坪を占めて居る。彼等の云い分はざッと斯様《こう》だ。東京が段々《だんだん》西へ寄って来て、豊多摩《とよたま》荏原《えばら》の諸郡は追々市外宅地や工場等の場所になり、以前|専《もっぱ》ら穀作《こくさく》と養蚕《ようさん》でやって居た北多摩郡が豊多摩荏原に代《かわ》って蔬菜《そさい》や園芸品《えんげいひん》を作る様になり、土地の価《あたい》は年々上って来て居る。然るに北多摩郡でも最《もっと》も東京に近い千歳村の僅か五百五十町歩の畑地《はたち》の中、地味《ちみ》も便利も屈指《くっし》の六十余町歩、即ち畑地の一割強を不毛《ふもう》の寺院墓地にして了うのは、惜しいものだ。殊に寺院墓地の如き陰気なものに来られては、陽気な人間は来なくなり、多くなるものは農作物の大敵たる鳥雀の類ばかりだ。廿万坪の内には宅地もある。貧乏鬮《びんぼうくじ》を引当《ひきあ》てた者は、祖先伝来の家屋敷や畑をすてゝ、代地《だいち》と云えば近くて十丁以内にはなく、他郷に出るか、地所が不足では農をよして他に転業しなければならぬ者もあろう。千歳村五百五十戸の中、小作が六割にも上って居る。大面積《だいめんせき》の寺院墓地が出来て耕地減少の結果、小作料は自然|騰貴《とうき》する。小作料の騰貴はまだ可《よ》いが、中には小作地が不足して住み馴《な》れた村にも住めなくなり、東京に流れ込んだり、悪くすると法律の罪人《ざいにん》が出来たりする。それから寺院墓地は免租地《めんそち》だから、結局村税の負担が増加する。何も千歳村の活気ある耕地を潰《つぶ》さず共、電車で五分間乃至十分も西に走れば、適当の山林地などが沢山あって、其《その》辺《へん》の者は墓地を歓迎して居る。其方《そち》へ行《い》けばよいじゃないか。反対の理由は、ざっと右の通りだ。尤も中に多少の魂胆《こんたん》もあろうが、大部分は本当に土に生き土に死ぬ自作農の土に対する愛着からである。変化を喜び刺戟《しげき》に生きる都会人には、土に対する本当の農の執着の意味は中々|解《げ》せない。真《しん》の農にとって、土はたゞの財産ではない、生命《いのち》其のものである。祖先伝来一切の生命の蓄積して居る土は、其|一塊《いっかい》も肉の一片|血《ち》の一滴《いってき》である。農から土を奪《うば》うは、霊魂から肉体を奪うのである。換言すれば死ねと云うのである。農を斯《この》土から彼《かの》土に移すのは、霊魂の宿換《やどがえ》を命ずるのである。其多くは死ぬるのである。農も死なゝければならぬ場合はある。然し其《それ》は軽々《かるがる》しく断ずべき事ではない。一は田中正造翁に面識《めんしき》なく谷中村《やなかむら》を見ないからでもあろうが、余は従来《じゅうらい》谷中村民のあまり執念深いのを寧ろ気障《きざ》に思うて居た。六年の田舎住居、多少は百姓の真似《まね》もして見て、土に対する農の心理の幾分を解《げ》しはじめて見ると、余は否《いや》でも曩昔《むかし》の非《ひ》を認《みと》めずには居られぬ。即ち千歳村の墓地問題の如きも、京王電鉄会社や大地主等にとっては利益問題だが、純農者にとっては取りも直さぬ死活問題であるのだ。
然るに京王電鉄は、一方|先棒《さきぼう》の村内有力者某々等をして頗る猛烈に運動せしむると共に、一方田夫野人何事をか仕出来《しでか》さんと高《たか》を括《くく》って高圧的《こうあつてき》手段《しゅだん》に出た。即ち関係地主の過半数は反対であるにも関せず、会社は村長の奥印《おくいん》をもって東京府庁に宛《あ》てゝ墓地新設予定地御臨検願を出して了う。霊場敷地展望台を畑の真中《まんなか》に持て来て建てる。果ては、云う事を聴か
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