歌だ。
九
八月十六日。
隣の家鴨《あひる》が二羽迷い込んだ。雌《めす》は捕えて渡したが、雄が床《ゆか》の下深く逃げ込んで、ドウしてもつかまらない。隣の息子《むすこ》が雌を連れて来て、刮々《くゎくくゎく》云わしたら、雄はひとりでに床の下から出て来て、難なく捉《つか》まった。今更の様だが女の力。
夕方|縁《えん》の籐椅子《とういす》に腰かけて、静に夕景色を味う。苅《かり》あと青い芝生も、庭中の花と云う花も蔭《かげ》に入り、月下香の香が高く一庭に薫《くん》ずる。金の鎌の様な月が、時々雲に入ったり出たり。南方に淡《あわ》い銀河が流れる。星もちらほら出て居る。村々は最早《もう》黒う暮れて、時々|眩《まぶ》しい火光《あかり》がぱっと射す。船橋の方には、先帝《せんてい》の御為に上げるのか、哀々《あいあい》とした念仏の声が長く曳《ひ》いて聞こえる。庭ではスイッチョが鳴く。蟋蟀《きりぎりす》が鳴く。夜と云うに、蝉の一種が鳴く。隣の林にはガチャ/\が鳴く。
寂《さび》しい涼しい初秋の夜。
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御大葬の夜
明治天皇|大葬《たいそう》の夜である。
七時五十分、母屋《おもや》の六畳を掃《は》いて、清《きよ》い白布をかけた長方形の大きな低い卓子《つくえ》を東向きに直した。上には、秋草の花を活《い》けた小花瓶を右左に置き、正面には橢円形《だえんけい》の小さな鏡を立て、其前に火を入れた青磁《せいじ》の香炉、紫の香包を傍《そば》に置いた。いさゝかランプの心を捻《ねじ》ると、卓子の上の物皆明るく、心も自《おの》ずからあらたまる。家族一同手を膝《ひざ》に、息をのんで控《ひか》えた。
柱時計の短針《たんしん》が八時を指《さ》すか指さぬに、
ドオ………ン!
待ち設《もう》けても今更人の心魂を駭《おどろ》かす大砲の音が、家をも我等の全身をも揺《ゆ》り撼《うご》かして響いた。
今|霊轜《れいじゅ》宮城を出でさせられるのだ。
主人《あるじ》は東に向い一拝して香を焚《た》き、再拝して退《さが》った。妻がつゞいて再拝して香を焚き、三拝して退いた。七歳《ななつ》の鶴子も焼香《しょうこう》した。最後に婢《おんな》も香を焚いて、東を拝した。
余が家の奉送《ほうそう》は終った。
*
余は提灯《ちょうちん》ともして、妻と唯二人門を出た。
曇った暗《くら》い夜である。
八幡下の田圃まで往って東を見る。田圃向うの黒い村を鮮《あざ》やかに劃《しき》って、東の空は月の出の様に明るい。何千何万の電燈《でんとう》、瓦斯《がす》、松明《たいまつ》が、彼夜の中の昼を作《な》して居るのであろう。見て居ると、其|夥《おびただ》しい明光《あかり》が、さす息引く息であるかの様に伸《の》びたり縮んだりする。其明りの中から時々|電《いなずま》の様な光《ひかり》がぴかりと騰《あが》る。
「何の光だろう?」
「写真を撮《と》るマグネシウムの光でしょうか」
「否《いや》、弔砲の閃光《ひかり》かも知れん」
先程から引つゞいて、大きな心臓《しんぞう》の鼓動の如く、正《ただ》しい時を隔《へだ》てゝ弔砲が響《ひび》いて居る。――あゝ鐘が鳴って居る。南のは東覚院《とうがくいん》、宝性寺《ほうしょうじ》、安穏寺《あんのんじ》、北のは――寺、――寺、東にも、西にも、おのがじし然も申合わせた様に、我君|眠《ねむ》りませ、永久《とこしえ》に眠りませ、と哀音長く鳴り連れて居る。二つの響はあたかも余等の胸《むね》の響に通うた、砲声の雄叫《おたけ》び、鐘声の悲泣《ひきゅう》。
都も鄙《ひな》も押並《おしな》べて黒きを被《き》る斯大なる哀《かなしみ》の夜に、余等は茫然《ぼうぜん》と東の方を眺めて立った。生温《なまあたた》かい夜風がそよぐ。稲の香《か》がする。
「行《い》きなさるかね」半丁ばかり北の方で突然|人声《ひとごえ》がした。
「エ、些《ちっと》ンべ行って見べいと思《も》って」
田圃道《たんぼみち》を東の方へ人の足音がした。やがてパチ/\と拍手《かしわで》の音が闇《やみ》に響く。
轜車《じゅしゃ》は今|何《ど》の辺を過ぎさせられるのであろう?
[#地から3字上げ](大正元年 九月十三日)
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東の京西の京
(明治天皇の御始終)
西なる京《きやう》に君は生《あ》れましき。
西なる京に生れ玉へる君はしも、東に覇府《はふ》ありてより幾百年、唯東へ東へと代々《よよ》の帝《みかど》父祖《ふそ》の帝の念じ玉ひし東征の矢竹心《やたけごころ》を心として、白羽二重に緋《ひ》の袴《はかま》、五歳《いつつ》六歳《むつつ》の御遊《ぎよいう》にも、侍女《つかへをみな》を馬にして、東下《あづまくだ》りと宣《の》らしつゝ、御所の廊下を駆《か》り玉ひき。
御父祖の夢《ゆめ》は、君が代《よ》に現《うつつ》となりつ。君は維新のおん帝、御十七の若帝《わかみかど》、御束帯に御冠《みかんむり》、御板輿《おんいたごし》に打乗らせ、天下取ったる公卿《くげ》将卒に前後左右を護《まも》らして、錦の御旗を五十三|駅《つぐ》の雄風に翻《ひるが》へし、東下りを果《はた》し玉ひぬ。
西の京より移り来て、東の京に君はしも四十五年住み玉ひぬ。東の京に住む君は、西なる京なつかしと思《おぼ》さぬにてはあらざりき。父の帝の眠ります西の京、其処《そこ》に生《あ》れまし十六まで育《そだ》ち玉ひし西の京、君に忘られぬ西の京。せめて暑中《しよちう》は西の京へでも、侍臣斯く申せば、御気色《みけしき》かはり、宣《のたま》ひけらく「朕《ちん》西京を嫌《きら》ふと思ふか。否《いな》、朕は西の京が大好きなり。さりながら、朕、東の京を去らば、誰か日本の政《まつりごと》を見むものぞ?」
大政《おほまつりごと》しげくして、西なる京へ君はしも、御夢《みゆめ》ならでは御幸《みゆき》なく、比叡《ひえい》の朝は霞《かす》む共、鴨《かも》の夕風涼しくも、禁苑《きんゑん》の月|冴《さ》ゆとても、鞍馬の山に雪降るも、御所の猿辻《さるつじ》猿の頬《ほ》に朝日は照れど、烏《からす》啼《な》く椋《むく》の梢《こずゑ》に日は入れど、君は来まさず。君が御名《みな》得《え》し祐《さち》の井の、井《ゐど》のほとりの常磐木《ときはぎ》や、落葉木《らくえふぼく》の若葉《わかば》して、青葉《あをば》となりて、落葉《おちば》して、年《とし》また年と空宮《くうきう》に年は遷《うつ》りぬ四十五《しじふいつ》。
四十五年の御代《みよ》長く、事|稠《しげ》き代の御安息《みやす》無く、六十路《むそぢ》あまり一年《ひととせ》の御顔《みかお》に寄する年の波、御魂《みたま》は慕《した》ふ西の京、吾事終へつと嘘《うそむ》きて、君|逝《ゆ》きましぬ東京に。
東下り、京上り、往来《ゆきき》に果つるおん旅や、御跡《おんあと》印《しる》す駅路《うまやぢ》の繰りひろげたる絵巻物《ゑまきもの》、今巻きかへす時は来ぬ。時こそ来つれ、生涯の御戦闘《みいくさ》終《を》へて凱旋《がいせん》の。時こそ来つれ、生涯の御勤労《みつとめ》果てゝ御安息《おんやす》の。
曩昔《そのかみ》の東下りの御板輿《おんいたごし》を白き柩車《きうしや》に乗り換へて、今こそ君は浄土《きよつち》の西の京へと還《かへ》り玉はめ。
[#地から3字上げ](大正元年 九月十三日)
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乃木大将夫妻自刃
九月十五日、御大葬《ごたいそう》の記事を見るべく新聞を披《ひら》くと、忽《たちまち》初号活字が眼を射た。
[#ここから7字下げ]
乃木大将夫妻の自殺
[#ここで字下げ終わり]
余は息《いき》を飲んで、眼を数行の記事に走らした。
「尤だ、無理は無い、尤だ」
斯く※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《つぶや》きつゝ、余は新聞を顔に打掩《うちおお》うた。
*
日清戦争中、山地中将が分捕《ぶんどり》の高価の毛皮の外套を乃木少将に贈ったら、少将は、傷病兵《しょうびょうへい》にやってしまった。此事を新聞で読んだのが、乃木《のぎ》希典《まれすけ》に余のインテレストを持つ様になった最初であった。其れから明治廿九年乃木中将が台湾《たいわん》総督《そうとく》となる時、母堂が渡台の御暇乞に参内《さんだい》して、皇后陛下の御問に対し、姥《ばば》は台湾の土にならん為、忰《せがれ》の先途《せんど》を見届けん為に台湾に参《まい》ります、と御答え申上げたと云う記事は、また深く余の心に滲《し》みた。余は此母子が好《す》きになった。明治三十四年中、ゴルドン将軍伝を書く時、余はゴルドンを描《えが》く其原稿紙上に乃木将軍の面影《おもかげ》がちらり/\と徂《い》ったり徠《き》たりするを禁じ得なかった。
縁は異《い》なもので、ゴルドン伝を書いた翌々年「寄生木《やどりぎ》」の主人公から突然「寄生木」著作の事を委托《いたく》された。恩人たる乃木将軍の為めにと云う彼の辞《じ》であった。余は例に無く乗地《のりじ》になって引受けた。結果が小説寄生木である。
小説寄生木は、該書《がいしょ》の巻頭にも断《ことわ》って置いた通り、主人公にして原著者なる「篠原良平」の小笠原善平が「寄生木」で、厳密《げんみつ》なる意味に於て余の「寄生木」では無い。寄生木の大木将軍夫妻は、篠原良平の大木将軍夫妻で、余の乃木大将夫妻では無い。余は厳に原文に拠《よ》って、如何なる場合にも寸毫《すんごう》も余の粉飾《ふんしょく》塗抹《とまつ》を加えなかった。そこで、寄生木は、南部《なんぶ》の山中から駈《か》け出した十六歳の少年が仙台で将軍の応接間《おうせつま》の椅子に先ず腰かけて「馬鹿ッ!」と大喝《だいかつ》されてから、二十八歳の休職士官が失意失恋故山に悶死《もんし》するまで、其単純な眼に映《えい》じた第一印象の実録である。固より将軍夫妻は良平の恩人である為に、温かい感謝の膜《まく》を隔《へだ》てゝ見たところもある。然し彼は徹頭徹尾《てっとうてつび》単純にして偽《いつわ》ることを得為《えせ》ぬ男で、且如何なる場合にも見且感ずるを得る自然の芸術家であったことを忘れてはならぬ。余は寄生木によって、乃木大将夫妻をヨリ近く識り得た。
篠原良平は「寄生木」の原稿を余に托し置いて、明治四十一年の秋悶死した。而して、恩人乃木将軍が其名を書いてくれた墓碣《ぼかつ》が故山に建てられた明治四十二年十二月小説寄生木が世に出た。即ち将軍は幕下《ばくか》の彼が為め死後の名を石に書き、彼は恩人の為に生前《せいぜん》の断片的記伝を紙の上に立てた訳《わけ》である。
余は寄生木を乃木大将に贈呈《そうてい》しなかった。然し伝聞《でんぶん》する処によれば、将軍夫妻は読んだそうだ。将軍は巻中にある某の学資金《がくしきん》は某大佐に渡したかと夫人に問い、夫人が渡しましたと答えた事、夫人は通読し終って、著者は一度も材料の為に訪われもしなかったに、よくも斯く精確《せいかく》に書かれた、と云われた事、を聞いた。精確な筈《はず》だ、記憶の好《い》い本人良平が命《いのち》がけで書いたのである。余は将軍夫妻の感想を聞く機会を有《も》たなかった。然しながら寄生木を読んだ将軍夫妻は、生前《せいぜん》顔を合わすれば棒立《ぼうだち》に立ってよくは口もきけず、幼年学校でも士官学校でも学科はなまけ、病気ばかりして、晩年には殊に謀叛気《むほんぎ》を見せて、恩義を弁《わきま》えたらしくもなかった篠原良平が、案外深い感謝あり、理解あり、同情あり、而して個性あり、痛切な苦悶あり、要するに一個真面目の霊魂《れいこん》であったことを今更の様に発見したであろう。兎に角篠原良平の死と「寄生木」とが、寂《さび》しい将軍の晩年に於てまた一の慰藉《いしゃ》となったことは、察《さっ》するに難からぬ。篠原良平が「寄生木」を遺《のこ》した目的の一は達せられたのである。
余は篠原良平の晩年に於て、剣を抛《なげう》つ可く彼に勧告し、彼を乃木将軍から奪《うば》う可く多少の
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