黒文字で危険と書き、注意と書いてある。其様《そん》な危険なものなら、百姓の頭の上を引張《ひっぱ》らずと、地下でも通したらよさそうなものだ。
 よく身投《みなげ》があるので其|袂《たもと》に供養《くよう》の卒塔婆《そとば》が立って居る玉川上水の橋を渡って、田圃に下り、また坂を上って松友《しょうゆう》の杉林の間を行く。此処の杉林は見ものである。檣《ほばしら》、電柱、五月鯉《さつきのこい》の棹《さお》などになるのが、奇麗に下枝を下《お》ろされ、殆んど本末の太さの差もなく、矗々《すくすく》と天を刺して居る。電燈会社は、此杉林を横断《おうだん》して更に電線を引きたがって居るが、松友の財産家が一万円出すと云う会社の提議《ていぎ》を刎《は》ねつけて応ぜぬので、手古摺《てこず》って居るそうである。
 雨がはら/\と来た。ステッキ一本の余は、降ったり止んだりする危《あぶな》げな空を眺め※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]行く。田無街道を突切って、荻窪停車場に来た。
 中野まで汽車。中野から電車。お茶の水で下りて、本郷中央会堂に往った。

       二

 何の為の慈善演芸会か知らぬが、中央会堂はほゞ一ぱいになって居た。演壇では、筒袖《つつそで》の少年が薩摩《さつま》琵琶《びわ》を弾《ひ》いて居た。凜々《りり》しくて好い。次ぎは呂昇の弟子の朝顔日記浜松小屋。まだ根から子供だ。其れから三曲《さんきょく》合奏《がっそう》の熊野《ゆや》。椅子にかけての琴、三絃《さみせん》は、見るにあぶなく、弾きにくゝはあるまいかと思われた。三曲|済《す》んで休憩《きゅうけい》になった。
 九時二十分頃、呂昇が出て来て金屏風《きんびょうぶ》の前の見台《けんだい》に低頭《ていとう》した。連《つ》れ弾《びき》は弟子の昇華《しょうか》。二人共時候にふさわしい白地に太い黒横縞《くろよこしま》段だらの肩衣《かたぎぬ》を着て居る。有楽座で初めて中将姫を聞いた時よりヨリ若く今宵《こよい》は見えた。場内は一ぱいになった。頭の禿《は》げた相場師らしいのや、瀟洒《しょうしゃ》とした服装《なり》の若い紳士や、涼《すず》しく装うた庇髪《ひさしがみ》、皆呂昇の聴者《ききて》である。場所柄に頓着《とんじゃく》なく、しっかり頼みますぞ、など声をかける者がある。それを笑う声も起った。
 呂昇は無頓着に三絃取って斜《しゃ》に構え、さっさと語り出した。咽喉《のど》をいためて療治《りょうじ》中だと云うに、相変らず美しい声である。少しは加減して居る様だが、調子に乗ると吾を忘れて声帯《せいたい》が震《ふる》うらしい。語り出しは、今少しだ。鳥辺山《とりべやま》は矢張好かった。灯影《ほかげ》明るい祇園町の夜、線香の煙《けぶり》絶々《たえだえ》の鳥辺山、二十一と十七、黒と紫とに包まれた美しい若い男女が、美しい呂昇の声に乗ってさながら眼の前に踊《おど》った。お俊《しゅん》のさわりはます/\好い。呂昇が堀川のお俊や、酒屋のお園や、壺坂《つぼさか》のお里を語るは、自己を其人に托《たく》するのだ。同じ様な上方女《かみがたおんな》、同じ様な気質《きだて》の女、芸と人とがピッタリ合うて居るのだ。悪かろう筈がない。呂昇が彼美しい声で語り出す美しい女性《にょしょう》の魂《たましい》は、舞台のノラ[#「ノラ」に傍線]を見たり机の上の青鞜《せいとう》を読んだりする娘達に、如何様《どん》な印象《いんしょう》を与うるであろうか。余は見廻わした。直ぐ隣の腰かけに、水際立《みずぎわた》ってすっきりとした装《なり》をした十八九の庇髪《ひさしがみ》が三人並んで居る。二人は心を空《そら》にして呂昇の方を見入って居る。一人の金縁眼鏡には露が光って居る。日の若い単純《たんじゅん》な代《よ》も、複雑な今日も、根本《こんぽん》の人情に差違はない。唯真故新《ただしんゆえにしん》、古い芸術も新しい耳によく解せられるのである。
 猿廻《さるまわ》しに来た。此は呂昇の柄《がら》にも無いし、連れ弾もまずいし、大隈《おおすみ》を聞いた耳には、無論物足らぬ。と思いつゝ、十数年前の歌舞伎座《かぶきざ》が不図眼の前に浮んだ。ぽっと鬘《かつら》をかぶった故人菊五郎の与次郎が、本物の猿を廻わしあぐんで、長い杖《つえ》で、それ立つのだ、それ辞義《じぎ》だと、己《わ》が物好きから舞台面の大切《たいせつ》な情味を散々に打壊《ぶちこわ》して居る。今の梅幸の栄三郎のお俊が、美しい顔に涙はなくて今にも吹き出しそうにして居る。故人片市の婆《ばあ》さんと、故人菊之助の伝兵衛が独《ひとり》神妙《しんみょう》にお婆さんになり伝兵衛になって舞台を締《し》めて居る。余は菊之助が好きだった。彼が真面目《まじめ》な努力の芸術は、若いながらも立派なものであった。彼は自身がする程の役には、何様《どん》な役でも身を入れて勤めた。養父《ようふ》も義弟も菊五郎や栄三郎|寧《いっそ》寺島父子になって了《しも》うた堀川の芝居の此猿廻わしの切《きり》にも、菊之助のみは立派《りっぱ》な伝兵衛であった。最早彼は此世に居ない。片市も、菊五郎も居ない。
 夥《おびただ》しい拍手が起った。吾に復《かえ》ると呂昇と昇華が演壇の上に平伏《ひれふ》して居た。

       三

 堀川は十時十五分に終った。外に出ると、雨がぼと/\落ちて居る。雨傘《あまがさ》と、懐中電燈の電池《でんち》を買って、電車で新宿に往った。追分《おいわけ》で下りて、停車場前の陸橋を渡ると、一台居合わした車に乗った。若い車夫はさっさと挽《ひ》き出す。新町を出はなれると、甲州街道は真暗で、四辺《あたり》はひっそりして居た。余程降ったと見えて、道が大分悪い。
「旦那は重うございますね。二十|貫《かん》から御ありでしょう」
「なまけるからね」
「エ、如何《どう》しても体を烈《はげ》しく使《つか》うと、ふとりませんな。私ですか、私は十四貫しかありません」
 車夫は市川の者、両親は果て、郷里の家は兄がもち、自身は今|十二社《じゅうにそう》に住んで、十三の男児《むすこ》を頭に子供が四人、六畳と二畳を三円五十銭で借り、かみさんは麻《あさ》つなぎの内職をして居る。
「だから中々遊んで居られませんや」
 烏山《からすやま》の口《くち》で下りて、代を払い、南へ切れ込んだ。
 雨は止んで居る。懐中電燈の光を便《たよ》りに、真黒い藪蔭《やぶかげ》の路を通って、田圃《たんぼ》に下りた。夜目にも白い田の水。蛙《かわず》の声が雨の様だ。不図東の空《そら》を見ると、大火事の様に空が焼けて居る。空に映《うつ》る東京の火光《あかり》である。見る/\すうと縮《ちぢ》み、またふっと伸びる。二百万の生霊《せいれい》が吐《つ》く息《いき》ひく息が焔《ほのお》になるのかと物凄《ものすご》い。田圃の行き止まりに小さな流れがある。其処《そこ》に一つ碧《あお》い光が居る。はっと思うと、ついと流れた。螢《ほたる》であった。田圃を上りきると、今度は南の空の根方《ねかた》が赤く焼けて居る。東京程にもないが、此は横浜の火光《あかり》であろう。村々は死んだ様に真黒《まっくろ》に寝て居る。都は魘《おそ》われた様に深夜《しんや》に火の息を吐いて居る。
[#地から3字上げ](明治四十五年 六月十日)
[#改ページ]

     ムロのおかみ

 目籠《めかご》を背負《せお》って、ムロのおかみが自然薯《じねんじょ》を売りに来た。一本三銭宛で六本買う。十五銭に負《ま》けろと云うたら、それではこれが飲《の》めぬと、左の手で猪口《ちょこ》をこさえ、口にあてがって見せた。
 ムロのおかみは酒が好きである。
 ムロのおかみは近村《きんそん》の者である。夫婦はもと兄の家のムロに住んで居たので、今も「ムロ」さん/\と呼ばれて居る。夫婦して一《ひと》つコップから好きな酒を飲み合い、暫時《しばし》も離れぬので、一名|鴛鴦《おし》の称がある。夫婦は農家の出だが、別に耕《たがや》す可き田畑も有《も》たぬ。自然薯でも、田螺《たにし》でも、鰌《どじょう》でも、終始|他人《ひと》の山林田畑からとって来ては金に換《か》え、飯《めし》に換え、酒に換える。門松すら剪《き》って売ると云う評判がある。村に行わるゝ自然《しぜん》の不文律《ふぶんりつ》で、相応な家計《くらし》を立てゝ居る者が他人の櫟《くぬぎ》の枝一つ折っても由々敷《ゆゆしい》咎《とが》になるが、貧しい者は些《ちっと》やそとのものをとっても、大目に見られる。ムロの鴛鴦夫婦は、此《この》寛典《かんてん》の中に其理想的|享楽生活《きょうらくせいかつ》を楽しんで居るのである。
 午後到頭雨になった。蛙《かわず》の声が劣《おと》らじと雨に競《きそ》うてわめく。
 夜皆寝て了うたあとで、母屋《おもや》の段落《だんおち》で二葉亭訳「うき草」を読んだ。此処《ここ》は引越した年の秋、無理に北側《きたがわ》につぎ足した長五畳の板張《いたばり》で、一尺程段落になって居る。勾配《こうばい》がつかぬので、屋根は海鼠板《なまこいた》のトタンにし、爪立《つまだ》てば頭が閊《つか》える天井《てんじょう》を張った。先には食堂にして居たので、此狭い船房《カビン》の様な棺の中の様な室《しつ》で、色々の人が余等と食を共にした。今は世に亡《な》き人々の記憶が、少なからず此処《ここ》に籠《こも》って居る。
 夜は更《ふ》けた。余は「うき草」の巻を開《あ》けたまゝ、読むともなく、想うともなく、テェブルに凭《もた》れて居る。雨がぼと/\頭上《ずじょう》のトタンをたゝく。ランプが※[#「虫+慈」、下巻−68−4]々ともえる。
 うき草の訳者二葉亭は印度洋で死んだ。原著者のツルゲーネフは夙《とう》に死んだ。然しルヂンは生きて居る。ナタリーも生きて居る。アレキサンドラも、ビカソーフも、バンタレフスキーもワルインツオフも生きて居る。
 人生短、芸術千古。
[#地から3字上げ](明治四十二年 六月十五日)
[#改ページ]

     田圃の簑笠

 朝から驟雨性《しゅううせい》の雨がざあと降って来たり、繊《ほそ》い雨が煙ったり、蛞蝓《なめくじ》が縁に上り、井戸|縁《ぶち》に黄な菌《きのこ》が生《は》えて、畳の上に居ても腹の底まで滲《し》み通りそうな湿《しめ》っぽい日。
 今日も庭の百日紅《さるすべり》の梢に蛇が居る。何処かの杉の森で梟《ふくろ》がごろ/\咽《のど》を鳴らして居る。麦が収められて、緑暗い村々に、微《すこ》しの明るさを見せるのは卵色の栗の花である。
 蛙の声の間々《あいあい》に、たぶ/\、じゃぶ/\田圃に響《おと》がする。見れば簑笠《みのかさ》がいくつも田に働いて居る。遠く見れば水戸様の饌《ぜん》にのりそうな農人形が、膝まで泥に踏み込んで、柄の長い馬鍬《まんが》を泥に打込んでは曳《えい》やっと捏《こ》ね、また打込んでは曳やっとひく。他所では馬に引かす犁《すき》を重そうに人間が引張って、牛か馬の様に泥水《どろみず》の中を踏み込み/\ひいて行く。労力《ろうりょく》其ものゝ画姿を見る様で、気の毒すぎて馬鹿※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]しく、腹が立つ。労働は好いが、何故《なぜ》牛馬の働《はたらき》までせねばならぬ乎。
 然し千歳村は約千町歩の面積《めんせき》の内、田はやっと六十町歩に過ぎぬ。田の労《ろう》は多くない。馬を使う程でもない、と皆が云う。此れでも昔は馬も居たそうだが、今は馬を飼《か》うも不経済《ふけいざい》で、馬を使うより人力がまだ/\ましと皆が云う。共同して馬を飼うたらと云ったこともあるが共同が中々行われぬ。
 馬も一利一害である。余の字《あざ》には、二三年来二十七戸の内で馬を飼う家が三軒出来た。内二軒は男の子が不足なので、東京からの下肥《しもごえ》ひきに馬を飼う事を思い立ったのである。然し石山の馬は、口綱をとって行く主人と調子が合わなかった為、一寸した阪路を下る車に主人は脾腹《ひばら》と太腿《ふともも》をうたせ、二月も寝る程の怪我をした。寺本の馬は、新宿で電車に驚いて、盲
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