った。為めに余等は甚《はなはだ》興を失ったが、子供の事だ、其まゝ寝ついた。翌日はみやげにすると云うて父が秘蔵《ひぞう》のシャボテンの芽《め》をかいで、一同土肥君の宅に押しかける途中、小川で水泳して、枯れてはいけぬと云うて砂の中にシャボテンの芽を仮植《かりう》えしたりしたことがある。其頃の土肥君は、色は黒いが少女《おとめ》の様なつゝましい子であった。余は西郷戦争の翌年京都に往った。其れからかけ違《ちが》って君に逢わざること三十三年。三十四年目に帝国座の舞台で丁抹《でんまるく》の王子として君を見るのである。
興味は一幕毎に加わって行く。オフィリャは可憐《かれん》であった。劇中劇の幕の終、ハムレットの狂喜《きょうき》が殊《こと》に好かった。諫言の場もハムレットの出来は好かった。矢張|王妃《おうひ》が強過ぎた。ポロニアスは手に入ったもの。ホラシオは間《ま》がぬけた。オフィリャの狂態《きょうたい》になっての出は凄《すご》く好かった。墓場《はかば》で墓掘《はかほり》の歌う声が実に好く、仕ぐさも軽妙であった。
要するに帝国劇場は荘麗なもの、沙翁劇《さおうげき》は真面目《まじめ》で案外面白いものであった。
大詰《おおづめ》の幕がひかれたのが、九時過ぎ。新宿から車で帰る。提灯《ちょうちん》の火が映《うつ》る程、街道《かいどう》は水が溜《たま》って居る。
「降ったね」
「えゝ/\。ひどい降りでした。上《かみ》では雹《ひょう》が降ったてます」
余等が帝劇のハムレットに喜憂《きゆう》を注《そそ》いで居る間に、北多摩《きたたま》では地が真白になる程雹が降った。余が畑の小麦《こむぎ》も大分こぼれた。隣字《となりあざ》では、麦は種《たね》がなくなり、桑《くわ》も蔬菜《そさい》も青い物|全滅《ぜんめつ》の惨状《さんじょう》に会《あ》うた。
[#地から3字上げ](明治四十四年 五月二十四日)
[#改ページ]
春の暮
庭石菖《にわせきしょう》、またの名は草あやめの真盛りである。茜《あかね》がかった紫と白と、一本二本はさしてめでたい花でもないが、午《ご》の日を受けて何万となく庭一面に咲く時は、緑の地《じ》に紫と白の浮き模様《もよう》、花毛氈《はなもうせん》を敷いた様に美しい。見てくれる人がないから、日傭《ひよう》のおかみを引張って来て見せる。
草あやめの外には、芍薬《しゃくやく》、紫と白と黄の渓※[#「くさかんむり/孫」、第3水準1−91−17]《あやめ》、薔薇《ばら》、石竹《せきちく》、矍麦《とこなつ》、虞美人草《ぐびじんそう》、花芥子《はなげし》、紅白《こうはく》除虫菊《じょちゅうぎく》、皆存分に咲いて、庭も園も色々に明《あか》るくなった。
畑では麦が日に/\照って、周囲《あたり》の黯《くら》い緑に競《きそ》う。春蝉《はるぜみ》が鳴《な》く。剖葦《よしきり》が鳴く。蛙《かわず》が鳴く。青い風が吹く。夕方は月見草《つきみそう》が庭一ぱいに咲いて香《かお》る。
今日《きょう》は雨が欲しく、風が恋《こい》しく、蔭《かげ》がなつかしい五月下旬の日であった。蝉《せみ》の音《ね》、色づいた麦、耳にも眼にもじり/\と暑《あつ》く、光《ひか》る緑に眼は痛《いた》い様であった。果然《かぜん》寒暖計《かんだんけい》は途方《とほう》もない八十度を指《さ》した。
落葉木《らくようぼく》が悉皆《すっかり》若葉から青葉になった処で、樫《かし》、松《まつ》、杉《すぎ》、樅《もみ》、椎《しい》等の常緑樹《ときわぎ》や竹《たけ》の類《るい》が、日に/\古葉《ふるは》を落しては若々しい若葉をつけ出した。此頃は毎日|掃《は》いても掃いても樫の古葉が落ちる。
気軽《きがる》な落葉木の若葉も美しいが、重々しい常緑樹の柄《がら》にない嫩《やわら》かな若葉をつけた処も中々好い。ゆさ/\と嫩《やわ》らかな食《く》えそうな若葉をかぶった白樫《しらかし》の瑞枝《みずえ》、杉は灰緑《かいりょく》の海藻《かいそう》めいた新芽《しんめ》を簇立《むらだ》て、赤松《あかまつ》は赭《あか》く黒松《くろまつ》は白っぽい小蝋燭《ころうそく》の様な心芽《しんめ》をつい/\と枝の梢毎《うらごと》に立て、竹はまた「暮春には春服已に成る」と云った様に譬《たと》え様もない鮮《あざ》やかな明るい緑の簑《みの》をふっさりとかぶって、何れを見ても眼の喜《よろこび》である。
今夜はじめて蚊《か》が一つぶゥんと唸《うな》った。
「蚊一つに寝《ね》られぬ宵《よひ》や春の暮」
春は最早《もう》暮るゝのである。
[#地から3字上げ](明治四十五年 五月二十六日)
[#改ページ]
首夏
先日七の家《うち》から茄子苗《なすなえ》を買ったら、今朝七の母者《ははじゃ》がわざ/\茄子の安否《あんぴ》を見に来た。
此頃の馳走《ちそう》は豌豆《えんどう》めしだ。だが、豌豆にたかる黒虫、青虫の数は、実に際限がない。今日も夫婦で二時間ばかり虫征伐《むしせいばつ》をやった。虫と食を争《あらそ》い、蠅《はえ》と住居《すまい》を争い、人の子もこゝさん/″\の体《てい》たらくだ。
午後|筍買《たけのこか》いに隣村まで出かける。筍も末だ。其筈である、新竹《しんちく》伸《の》びて親竹《おやだけ》より早一丈も高くなって居る。往復に田圃《たんぼ》を通った。萌黄《もえぎ》に萌《も》え出した苗代《なわしろ》が、最早《もう》悉皆《すっかり》緑《みどり》になった。南風《みなみ》がソヨ/\吹く。苗代の水に映《うつ》る青空《あおぞら》に漣《さざなみ》が立ち、二寸ばかりの緑秧《なえ》が一本一本|涼《すず》しく靡《なび》いて居る。
両三日来夜になると雷様《かみなりさま》が太鼓《たいこ》をたゝき、夕雲《ゆうぐも》の間から稲妻《いなずま》がパッと射《さ》したりして居たが、五時過ぎ到頭|大雷雨《だいらいう》になり、一時間ばかりして霽《は》れた。
袷《あわせ》では少し冷《ひや》つくので、羅紗《らしゃ》の道行《みちゆき》を引かけて、出て見る。門外の路には水溜《みずたま》りが出来、熟《う》れた麦は俯《うつむ》き、櫟《くぬぎ》や楢《なら》はまだ緑の雫《しずく》を滴《た》らして居る。西は明るいが、東京の空は紺色《こんいろ》に曇って、まだごろ/\遠雷《えんらい》が鳴って居る。武太《ぶた》さんと伊太《いた》さんが、胡瓜《きゅうり》の苗を入れた大きな塵取《ごみとり》をかゝえて、跣足《はだし》でやって来る。
最早夏に移るのだ。
[#地から3字上げ](明治四十四年 五月二十七日)
[#改ページ]
憎むと枯れる
戸を開《あ》けると、露一白《つゆいっぱく》。芝生《しばふ》には吉野紙《よしのがみ》を広げた様な蜘網《くものあみ》が張って居る。小さな露の玉を瓔珞《ようらく》と貫《つらぬ》いた蜘《くも》の糸が、枝から枝にだらりと下《さが》って居る。
門の入口に甘《あま》い香《かおり》がすると思うたら、籬根《かきね》にすいかずらの花が何時の間にか咲いて居る。
生々《せいせい》又生々。営々《えいえい》且《かつ》営々。何処《どこ》を向いても凄《すさま》じい自然の活気《かっき》に威圧《いあつ》される。田圃《たんぼ》には泥声《だみごえ》あげて蛙《かわず》が「生《う》めよ殖《ふ》えん」とわめく。雀や燕《つばめ》は出産《しゅっさん》を気がまえて、新巣《しんす》の経営《けいえい》に忙《せわ》しく、昨日も今日も書院《しょいん》の戸袋《とぶくろ》に巣《す》をつくるとて、チュッ/\チュッ/\喧《やかま》しく囀《さえず》りながら、さま/″\の芥《あくた》をくわえ込む。蠅《はえ》がうるさい。蚊《か》がうるさい。薔薇《ばら》にも豌豆《えんどう》にも数限りもなく虫が涌く。地は限りなく草を生《は》やす。四囲《あたり》の自然に攻め立てられて、万物《ばんぶつ》の霊殿《れいどの》も小さくなって了《しま》いそうだ。
隣の金《かね》さんが苗をくれた南瓜《とうなす》の成長を見に来たついでに、斯様《こん》な話をした。金さんの家に、もと非常によく実《な》る葡萄《ぶどう》があった。一年《あるとし》家の新ちゃんが葡萄をちぎると棚《たな》から落ち、大分の怪我をした。それからと云うものは、家の者一同深く其葡萄の木を憎んだ。すると、葡萄は何時となく枯れて了うた。憎むと枯れる。面白い話。新約聖書に、耶蘇《やそ》が実《みの》らぬ無花果《いちじく》を通りかゝりに咀《のろ》うたら、夕方帰る時最早枯れて居たと云う記事がある。耶蘇程の心力の強い人には出来そうな事だ。
夕方|真紅《まっか》な提灯《ちょうちん》の様な月が上った。雨になるかと思うたら、水の様な月夜になった。此の頃は宵毎《よいごと》に月が好い。夜もすがら蛙が鳴く。剖葦《よしきり》が鳴く。月に浸《ひた》されて生活する我儕《われら》も、さながら深い静かな水の底《そこ》に住んで居る心地がする。
[#地から3字上げ](明治四十五年 六月一日)
[#改ページ]
麦愁
机に向うて、終日|兀座《こつざ》。
外は今にも降りそうな空の下に、一村《ひとむら》総出の麦収納《むぎしゅうのう》。此方《こち》では鎌の音|※[#「竹/(束+欠)」、下巻−60−3]々《さくさく》。彼方《あち》では昨日苅ったのを山の様に荷車に積んで行く。時々|賑《にぎ》やかな笑声が響《ひび》く。皆欣々として居る。労働の報酬《むくい》が今来るのだ。嬉《うれ》しい筈。
例年麦秋になると、美的百姓先生の煩悶《はんもん》がはじまる。余は之を自家の麦愁《ばくしゅう》と名づける。先生の家《うち》にも、大麦小麦を合わせて一反そこらの麦の収納をするが、其れは人を傭《やと》うたりして直ぐ片づいてしまう。慰《なぐさ》みにくるり棒を取った処で、大した事も無い。買った米を食う先生には、大麦の二俵三俵取れたところで、何でもないのだ。単純な充実《じゅうじつ》した生活をする農家が今|勝誇《かちほこ》る麦秋の賑合《にぎわい》の中に、気の多い美的百姓は肩身狭く、憊《つか》れた心と焦々《いらいら》した気分で自ら己を咀《のろ》うて居る。さっぱりと身を捨てゝ真実の農にはなれず。さりとて思う様に書けもせず。彼方《あち》を羨《うらや》んで見たり、自ら憐んで見たり。中途|半端《はんぱ》な吾儘《わがまま》生活をする罰《ばち》だ。致方は無い。もとより見物人も役者の一人ではある。然し離《はな》れて独り見物は矢張|寂《さび》しい。
終日|懊悩《おうのう》。夕方庭をぶら/\歩いた後、今にも降り出しそうな空の下に縁台《えんだい》に腰かけて、庭一ぱいに寂寥《さびしさ》を咲《さ》く月見草の冷たい黄色の花をやゝ久しく見入った。
[#地から3字上げ](明治四十五年 六月五日)
[#改ページ]
堀川
一
新聞を見たら、今夜本郷中央会堂で呂昇の堀川がある。蓄音器では、耳にタコの出来る程|鳥辺山《とりべやま》も聞いて居る。生《しょう》の声で呂昇の堀川は未だ聞かぬ。咽喉《のど》が悪いとて療治をして居ると云うが如何だろう、と好奇心も手伝うて、午後|独歩《どっぽ》荻窪《おぎくぼ》停車場《すてえしょん》さして出かける。
デカが跟《つ》いて来る。ピンは一昨夜子を生んだので、隣家《となり》の前まで見送って、御免を蒙《こうむ》った。朝来の雨は止んで、日が出たが、田圃はまだ路が悪い。田植時《たうえどき》も近いので、何《ど》の田も生温《なまぬる》い水満々と湛《たた》え、短冊形《たんざくがた》の苗代は緑の嫩葉《わかば》の勢揃《せいぞろ》い美しく、一寸其上にころげて見たい様だ。泥《どろ》の楽人《がくじん》蛙の歌が両耳に溢《あふ》れる。甲州街道を北へ突切《つっき》って行く。大麦は苅られ、小麦は少し色づき、馬鈴薯や甘藷《さつまいも》、草箒《くさほうき》などが黒い土を彩《いろ》どって居る。其間を太《ふと》いはりがねを背負って二本ずつ並んで西から北東へ無作法《ぶさほう》に走って居るのが、東京電燈の電柱である。一部を赤く塗《ぬ》って、大きな
前へ
次へ
全69ページ中51ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング