三十分で来た。父が「一家鶏犬一車上、器機妙用瞬間行」なぞ悪詩《あくし》を作った。工合《ぐあい》が好いので、帰りも自動車にした。今度のは些《ちと》大きく、宅の傍《そば》までは来ぬと云う。五丁程歩んで、乗った。栗梅色《くりうめいろ》に塗《ぬ》った真新《まあたら》しい箱馬車式《はこばしゃしき》の立派なものだ。米国から一昨日着いたばかり、全速《ぜんそく》五十|哩《まいる》、六千円出たそうだ。父、母、姉、妻、女は硝子戸《がらすど》の内に、余は運転手《うんてんしゅ》と並んで運転手台に腰かけた。
 運転手の手にハンドルが一寸|捩《ねじ》られると、物珍らしさにたかる村の子供の群《むれ》を離《はな》れて、自動車はふわりと滑《すべ》り出した。村路《そんろ》を出ぬけて青山街道に出る。識《し》る顔の右から左から見る中を、余は少しは得意に、多くは羞明《まぶ》しそうに、眼を開けたりつぶったりして馳《は》せて行く。坂を下って、田圃《たんぼ》を通って、坂を上って、車は次第に速力を出した。荷車が驚いて道側《みちばた》の草中《くさなか》に避《よ》ける。鶏《にわとり》が刮々《くわっくわっ》叫んで忙《あわ》てゝ遁《に》げる。小児《こども》の肩《かた》を捉《とら》え、女が眼を円《まる》くして見送る。囂々《ごうごう》、機関《きかん》が鳴《な》る。弗々々《ふっふっふっ》、屁《へ》の如く放《ひ》り散《ち》らすガソリンの余煙《よえん》。後《あと》には塵も雲と立とうが、車上の者には何でもない。あたり構わず突進する現代精神を具象《ぐしょう》した車である。但人通りが少ないので、此街道は自動車には理想的な道路と云ってよい。
 豪徳寺《ごうとくじ》附近に来ると、自動車は一《ひと》かく入れた馬の如く、決勝点《けっしょうてん》を眼の前に見る走者《そうしゃ》の如く、宛《さ》ながら眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》り、※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》と口を結んで、疾風の如く駛《は》せ出した。余は帽子に手を添《そ》えた。麦畑や、地蔵や、眼と口を一緒《いっしょ》にあけた女の顔や、人の声や、眼《め》まぐろしく駈《か》けて来ては後《うしろ》へ飛ぶ。機関の響は心臓の乱拍子《らんぴょうし》、車は一の砲弾《ほうだん》の如く飄《ひゅう》、倏《しゅっ》と唸《うな》って飛ぶ。
「今三十五|哩《まいる》の速力です」
と運転手が云う。
 余は痛快であった。自動車の意志は、さながら余に乗り移《うつ》って、臆病者《おくびょうもの》も一種の恍惚《エクスタシー》に入った。余は次第に大胆《だいたん》になった。自動車が余を載せて駈けるではなく、余自身が自動車を駆って斯《か》く駛《は》せて居るのだ。余は興《きょう》に乗《じょう》じた。運転手台に前途を睥睨《へいげい》して傲然《ごうぜん》として腰かけた。道があろうと、無かろうと、斯速力で世界の果まで驀地《まっしぐら》に駈けて見たくなった。山となく、野となく、人でも獣《けもの》でもあらゆるものを乗り越え踏みつけ、唯真直に一文字に存分に駈けて駈けて駈けぬいて見たくなった。硝子戸《がらすど》の内を見かえれば、母は眼を閉じ、父は口を開き、姉と妻児《さいじ》は愉快そうに笑って話して居る。
「何《ど》の位でとめられるですかね」またそろ/\臆病風《おくびょうかぜ》が吹いて来た余は、右手にかけて居る運転手に問うた。
「三|間前《げんまえ》ならトメます。運転手は中々頭がなければ出来ません」
「随分神経を使うですね」
「エ、然し愉快です――力《ちから》ですから」
 忽《たちまち》世田ヶ谷村役場の十字路に来た。南に折れて、狭い路を田圃に下り、坂を上って世田ヶ谷街道に出るまで、荷車が来はせぬか、荷馬車が来はせぬか、と余はびく/\ものであった。
 世田ヶ谷に出て、三軒茶屋以往は、最早東京の場末である。電車、人力車、荷車、荷馬車、馬、さま/″\の人間の間を、悧巧《りこう》な自動車は巧に縫うて、家を出て三十分、まさに青山に着いた。
 余は老人子供を扶《たす》け下ろして、ホット一息ついた。
[#地から3字上げ](明治四十五年 五月十八日)
[#改ページ]

     デカの死

 昨日|隣字《となりあざ》に知辺《しるべ》の結婚があった。余は「みゝずのたはこと」の校正を差措《さしお》いて、鶴子を連れて其席に連《つら》なり、日暮れて帰ると、提灯《ちょうちん》ともして迎えに来た女中は、デカが先刻《せんこく》甲州街道で自動車に轢《ひ》かれたことを告げた。今朝も奥の雨戸を開《あ》けると、芝生《しばふ》に腹這《はらば》いながら、主人の顔を見て尻尾《しっぽ》振《ふ》り/\した。書院の雨戸を開けると、起きて来て縁《えん》に両手をつき、主人に頭《あたま》撫《な》でられて嬉《うれ》しそうに尾を振って居た。正午の頃までは、裏の櫟林《くぬぎばやし》で吠《ほ》えたりして居た。何時の間に甲州街道に遊びに往って無惨《むざん》の最後《さいご》を遂《と》げたのか。
 尤も彼は此頃ひどく弱って居た。彼は年来ピンの押入婿《おしいりむこ》であったが、昨秋新に村人の家に飼われた勇猛《ゆうもう》の白犬の為に一度噛み伏せられてピンをとられて以来、俄に弱って著《いちじる》しく老衰して見えた。彼は其の腹慰《はらい》せであるかの如く、何処からかまだ子供々々した牝犬《めいぬ》を主人の家に連れ込んだ。如何に犬好きの家でも、牝犬二匹は厄介である。主人は度々牝犬を捨てたが、直ぐ舞戻《まいもど》って来た。到頭近所の人を頼み、わざ/\汽車で八王子まで連れて往って捨てゝもろうた。二週間前の事である。其後デカが夜毎に帰っては来たが、昼《ひる》は其牝犬を探《さ》がしあるいて居るらしかった。探がし探がして探がし得ず、がっかりした容子《ようす》は、主人の眼にも笑止《しょうし》に見えた。其様《そん》な事で弱って居る矢先《やさき》、自動車に轢《ひ》かるゝ様なことになったのだろう。春秋《しんじゅう》の筆法《ひっぽう》を以てすれば、取りも直さず牝犬を捨てた主人の余の手にかゝって死んだのである。
 彼は幡《はた》ヶ谷《や》の阪川牛乳店に生れて、其処《そこ》此処《ここ》に飼われた。名もポチと云い、マルと云い、色々の名をもって居た。ある大家では、籍まで入れて飼って居たが、交尾期《こうびき》にあまり家をあけるので、到頭|離籍《りせき》して了うた。其様《そん》な事で彼は甲州街道の浮浪犬《ふろういぬ》になり、可愛がられもし窘《いじ》められもした。最後に主従の縁を結んだのが、粕谷の犬好きの家だった。デカは粕谷の犬になって二年|経《へ》た。渡り者のくせで、子飼《こがい》から育てたピンの如くはあり得なかった。主人に跟《つ》いて出ても、中途から気が変って道草を喰《く》ったりしては、水臭《みずくさ》いやつだと主人に怒《おこ》られた。雄犬の癖《くせ》でもあるが、よく家をあけた。先《せん》の主《ぬし》、先々の主、其外|一飯《いっぱん》の恩《おん》ある家《うち》をも必|訪《たず》ねた。悪戯《いたずら》でもして叱られると、直ぐ甲州街道に逃げて往った。然し彼はよく主人をはじめ一家の者になずいて、仮令余が彼を撲《ぶ》ちたゝくことがあっても、彼は手足をちゞめて横になり、神妙《しんみょう》に頭をのべて鞭《むち》を受けた。其為め余が鞭の手は自然に鈍《にぶ》るのであった。彼は長い間浮浪犬として飢《ひも》じい目をした故《せい》であろ、食物を見ると意地汚《いじきた》なく涎《よだれ》を流した。文豪《ぶんごう》ジョンソン[#「ジョンソン」に傍線]が若い時非常の貧苦を経た結果、位置が出来ても、物を食えば額《ひたい》に太《ふと》い筋《すじ》現《あら》われ、汗《あせ》を流し、犬の如くむしゃ/\喰うた、と云う逸話を思い浮《うか》べて、甚|可哀想《かあいそう》になった。其れから彼は餅《もち》でもやると容易《ようい》に食わず、熟《じっ》と主人の顔を見て、其れ切りですか、まだありますかと云う貌《かお》をした。三つも投げて、両手を開《ひら》いて見せると、彼は納得《なっとく》して、三個ながら口に啣《くわ》えて、芝生に行ってゆる/\食うのが癖であった。彼は浮浪の癖が中々|脱《ぬ》けなかった。先《せん》の白も彼に色々の厄介をかけたが、デカも近所の鶏《とり》を捕ったりして一再《いっさい》ならず迷惑《めいわく》をかけた。去年の秋の頃は、あまりに家をあけるので、煩悩《ぼんのう》も消え失せ、既に離籍《りせき》しようかとした程であった。其れがまた以前の如く居付《いつ》く様になり、到頭余が家のデカで死んだ。
 今朝|懇意《こんい》の車屋がデカの死骸《しがい》を連れて来た。死骸は冷たくなって、少し眼をあいて居たが、一点の血痕《けっこん》もなく、唯|鼻先《はなさき》に土がついて居た。其死を目撃《もくげき》した人の話に、デカは昨日甲州街道の給田《きゅうでん》に遊びに往って、夕方玉川から帰る自動車目がけて吠《ほ》え付いた。と思うたら、自動車のタイヤに鼻づらを衝《つ》かれたのであろう、ひょろ/\と二度ばかり顛《ころ》んだ。自動車は見かえりもせず東京の方に奔って往って了うた。其容子を見て居た人は、デカを可愛がる人であったので、デカを連れ込んで、水天宮《すいてんぐう》の御符《おふだ》など飲ましたが、駄目であった。
 余は鶏柵内《けいさくない》のミズクサの木の根を深く掘って、薦《こも》に包《つつ》んだまゝ眠った様なデカの死骸を葬《ほうむ》った。
[#地から3字上げ](大正二年 二月十七日)
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     ハムレット

 帝国劇場で文芸協会のハムレットがある。芝居と云うものを久しく見ず、評判の帝国座もまだ覗《のぞ》いたことが無いので、見物に出かける。
 劇場の外観は白っぽく冷《つめ》たく、あまり好い感じがせぬ。内は流石に綺羅《きら》びやかなものであった。二階の正面に陣取《じんど》って、舞台や天井《てんじょう》、土間、貴顕《きけん》のボックスと、ずっと見渡した時、吾着物の中で土臭《つちくさ》い体《からだ》が萎縮《いしゅく》するように感じた。
 幕が上った。十五六世紀の西洋の甲冑《かっちゅう》着《つ》けた士卒が出て、鎌倉武士《かまくらぶし》の白《せりふ》を使う。亡霊《ぼうれい》の出になる。やがて丁抹《でんまるく》王城《おうじょう》の場になる。道具立《どうぐだて》は淋《さび》しいが、国王は眼がぎろりとして、如何にも悪党《あくとう》らしい。ガァツルード妃《ひ》は血色が好過ぎ若過ぎ強過ぎた。緑の上衣の若者を一寸ハムレットかと思うたら、そうではなくて、少し傍見《わきみ》をして居た内に、黒い喪服《もふく》のハムレットが出て来て、低い腰掛《こしかけ》にかけて居た。余は熟々《つくづく》とハムレットの顔を見た。成程違わぬ。舞台のハムレットには、幼《おさ》な顔の土肥《どい》君が残って居る。
 土肥君は余の同郷、小学校の同窓《どうそう》である。色の浅黒い、顋《あご》の四角な、鼠《ねずみ》の様な可愛いゝ黒い眼をした温厚《おんこう》な子供であった。阿父《おとっさん》が書家《しょか》樵石《しょうせき》先生だけに、土肥君も子供の時から手跡《しゅせき》見事に、よく学校の先生に褒《ほ》められるのと、阿父が使いふるしの払子《ほっす》の毛先を剪《はさ》み切った様な大文字筆を持って居たのを、余は内々ひどく羨《うらや》んだものだ。其れは西郷戦争前であった。余等の仲間《なかま》では、仲の好い同志遊びに往ったり来たり泊《とま》ったりしたものだ。ある時余は学校の帰りに土肥君と他の二三人を「遊びに来《こ》らし」と引張って、学校から小一里もある余の家に伴《とも》のうた。遊んで居る内日が暮れたので、皆泊ることにした。土肥君は彼《あの》鼠《ねずみ》の様な眼を見据《みす》えて、やゝ不安な寂《さび》しそうな面地をして居たが、皆に説破されて到頭泊った。枕を並べて一寝入《ひとねい》りしたと思うと、余等は起された。土肥君の宅から迎えの使者が来たと云うのである。土肥君はいそ/\起きて一人帰って往
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