都会に近い田舎の事で、何《ど》の家《うち》も多少の親類を東京に有《も》って居る。村の祭には東京からも遊びに来る。農閑《のうかん》の季節には、田舎からも東京に遊びに行く。辰《たつ》爺《じい》さんは浅草に親類がある。時々遊びに行くが、帰ると溜息《ためいき》ついて曰く、全く田舎が好《え》えナ、浅草なンか裏が狭くて、雪隠《せっちん》に往っても鼻《はな》ア突《つっ》つく、田舎に帰《けえ》ると爽々《せいせい》するだ、親類のやつが百姓は一日《いちにち》にいくら儲《もう》かるってきくから、こちとらは帳面なンかつけやしねえ、年の暮になりゃ足りた時は足りた、剰《あま》らねえ時は剰らねえンだ、って左様《そう》云ってやりましたよ、と。
東京に往けば、人間に負《ま》けます、と皆が云う。麦《むぎ》の穂《ほ》程人間の顔がある東京では、人間の顔見るばかりでも田舎者はくたびれて了《しま》う。其処《そこ》に電話《でんわ》の鈴《りん》が鳴る。電車が通《とお》る。自動車が走る。号外《ごうがい》が飛ぶ。何かは知らず滅多《めった》無性《むしょう》に忙《せわ》しそうだ。斯様《こん》な渦《うず》の中に捲《ま》き込《こ》まれると、杢兵衛《もくべえ》太五作《たごさく》も足の下が妙にこそばゆくなって、宛無《あてな》しの電話でもかけ、要もないに電車に飛び乗りでもせねば済《す》まぬ気になる。ゆっくりした田舎の時間《じかん》空間《くうかん》の中に住み慣《な》れては、東京好しといえど、久恋《きゅうれん》の住家《すみか》では無い。だから皆帰りには欣々として帰って来る。
田舎では、豊《ゆた》かな生計《くらし》の家《うち》でも、女《むすめ》を東京に奉公に出す。女の奉公と、男の兵役とは、村の両遊学《りょうゆうがく》である。勿論弊害もあるが、軍隊に出た男は概《がい》して話せる男になって帰って来る。いさちゃんのお婿《むこ》さんなども、日露戦争にも出て、何処《どこ》やら垢《あか》ぬけのした在郷《ざいごう》軍人《ぐんじん》である。奉公に出た女にも、東京に嫁入《よめい》る者もあるが、田舎に帰って嫁《とつ》ぐ者が多い。何を云うても田舎は豊かである。田舎に生れた者が田舎を恋《こ》うばかりでなく、都に生れた者でも田舎に育てば矢張田舎が恋しくなる。
いさちゃんも好い生涯《しょうがい》を与えられた。
[#地から3字上げ](明治四十五年)
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紫雲英
午後の散歩に一家|打連《うちつ》れて八幡山《はちまんやま》、北沢間《きたざわかん》の田圃《たんぼ》に往った。紫雲英《れんげそう》の花盛りである。
此処は西|欝々《うつうつ》とした杉山《すぎやま》と、東|若々《わかわか》とした雑木山《ぞうきやま》の緑《みどり》に囲《かこ》まれた田圃で、遙《はるか》北手《きたて》に甲州街道が見えるが、豆人《とうじん》寸馬《すんば》遠く人生行路《じんせいこうろ》の図《ず》を見る様で、却《かえっ》てあたりの静《しず》けさを添《そ》える。主人と妻と女児《むすめ》と、田の畔《くろ》の鬼芝《おにしば》に腰を下ろして、持参《じさん》の林檎《りんご》を噛《かじ》った。背後《うしろ》には生温《なまぬる》い田川《たがわ》の水がちょろ/\流れて居る。前は畝《うね》から畝へ花毛氈《はなもうせん》を敷いた紫雲英の上に、春もやゝ暮近《くれちか》い五月の午後の日がゆたかに匂《にお》うて居る。ソヨ/\と西から風が来る。見るかぎり桃色《ももいろ》の漣《さざなみ》が立つ。白い蝶が二つもつれ合うてヒラ/\と舞うて居る。跟《つ》いて来た大きな犬のデカと小さなピンが、蛙《かえる》を追ったり、何かフッ/\嗅《か》いだりして、面白そうに花の海を踏《ふ》み分けて、淡紅《とき》の中に凹《なかくぼ》い緑の線《すじ》をつける。熟々《つくづく》と見て居ると、紅《くれない》の歓楽《かんらく》の世に独《ひとり》聖者《せいじゃ》の寂《さび》しげな白い紫雲英が、彼所《かしこ》に一本、此処《ここ》に一|株《かぶ》、眼に立って見える。主人はやおら立って、野に置くべきを我庭に移《うつ》さんと白きを掘る。白い胸掛《むねかけ》をした鶴子は、寧《むしろ》其美しきを撰《えら》んで摘《つ》み且摘み、小さな手に持ち切れぬ程になったのを母の手に預《あず》けて、また盛に摘んで居る。
主人は田川の生温《なまぬる》い水で泥手《どろて》を洗って、鬼芝の畔に腰かけつゝ、紫雲英を摘む女児を眺めて居る。ぽか/\した暮春《ぼしゅん》の日光《ひざし》と、目に映《うつ》る紫雲英の温《あたた》かい色は、何時しか彼をうっとりと三十余年の昔に連れ帰るのであった。
時は明治十年である。彼は十歳の子供である。彼の郷里は西郷戦争の中心になった。父は祖父を護《ご》して遠方に避難《ひなん》し、兄は京都の英学校に居り、家族の中で唯一人《ただひとり》の男の彼は、母と三人の姉と熊本を東南に距《さ》る四里の山中の伯父《おじ》の家に避難した。山桜《やまざくら》も散って筍《たけのこ》が出る四月の末、熊本城の囲《かこみ》が解《と》けたので、避難の一家は急いで帰途に就いた。伯父の家から川に添《そ》うて一里下れば木山町、二里下ると沼山津《ぬやまづ》村。今夜は沼山津|泊《とまり》の予定であった。皆|徒歩《かち》だった。木山まで下ると、山から野に出る。彼等は川堤《かわつつみ》を水と共に下って往った。堤の北は藻隠《もがく》れに鮒《ふな》の住む川で、堤の南は一面の田、紫雲英が花毛氈《はなもうせん》を敷き、其の絶間《たえま》※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]《たえま》には水銹《みずさび》が茜色《あかねいろ》の水蓋《みずぶた》をして居た。行く程に馬上の士官が来た。母が日傘《ひがさ》を横にして会釈《えしゃく》し、最早《もう》熊本に帰っても宜しゅうございましょうかと云うた。宜《よ》いとも/\、皆《みんな》ひどい目に会《あ》った喃《なあ》。と士官が馬上から挨拶《あいさつ》した。其処《そこ》に土俵《どひょう》で築《きず》いた台場《だいば》――堡塁《ほるい》があった。木山の本営《ほんえい》を引揚《ひきあ》げる前、薩軍《さつぐん》が拠《よ》って官軍を拒《ふせ》いだ処である。今は附《つ》け剣《けん》の兵士が番して居た。会釈して一同其処を通りかゝると、蛇が一疋のたくって居る。蛇嫌《へびぎら》いの彼は、色を変えて立どまった。兵士が笑って、銃剣《じゅうけん》の先《さき》で蛇をつっかけて、堤外《ていがい》に抛《ほう》り出した。無事に此《この》関所《せきしょ》も越して、彼は母と姉と※[#「口+喜」、第3水準1−15−18]々《きき》として堤を歩んだ。春の日はぽかり/\春の水はのたり/\、堤外は一面の紫雲英で、空には雲雀《ひばり》、田には蛙《かわず》が鳴いて居る。明日《あす》家《うち》に帰る前に今夜|泊《とま》る沼山津の村は、一里向うに霞んで居る。……
「阿父《おとうさん》、ほら此様《こんな》に摘んでよ」
吾に復《か》えった彼の眼の前に、両手《りょうて》につまんで立った鶴子の白《しろ》胸掛《むねかけ》から、花の臙脂《えんじ》がこぼれそうになって居る。
[#地から3字上げ](明治四十四年 五月八日)
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印度洋
夜、新聞で見ると、長谷川《はせがわ》二葉亭《ふたばてい》氏が肺病で露西亜から帰国の船中、コロムボ[#「コロムボ」に二重傍線]と新嘉坡《シンガポール》の間で死んだとある。去十日の事。
馬琴物《ばきんもの》から雪中梅型《せっちゅうばいがた》のガラクタ小説に耽溺《たんでき》して居た余に、「浮雲《うきぐも》」は何たる驚駭《おどろき》であったろう。余ははじめて人間の解剖室《かいぼうしつ》に引ずり込まれたかの如く、メスの様な其|筆尖《ふでさき》が唯恐ろしかった。それからツルゲーネフの翻訳「あひゞき」を国民の友で、「めぐりあひ」を都の花で見た時、余は世にも斯様《こん》な美しい世界があるかと嘆息した。繰《く》り返えし読んで足らず、手ずから写《うつ》したものだ。其後「血笑記《けっしょうき》」を除く外、翻訳物は大抵見た。「其《その》面影《おもかげ》」はあまり面白いとも思わなかった。「平凡《へいぼん》」は新聞で半分から先きを見た。浮雲の筆は枯《か》れきって、ぱっちり眼を開いた五十男の皮肉《ひにく》と鋭利《えいり》と、醒《さ》めきった人のさびしさが犇々《ひしひし》と胸に迫《せま》るものがあった。朝日から露西亜へ派遣《はけん》された時、余は其通信の一|行《ぎょう》も見落さなかった。通信の筆は数回ではたと絶えた。而《そう》して帰朝中途の死!
印度洋はよく人の死ぬ所である。昔から船艦《せんかん》の中で死んで印度洋の水底に葬《ほうむ》られた人は数知れぬ。印度洋で死んだ日本人も一人や二人では無い。知人《ちじん》柳房生《りゅうぼうせい》の親戚|某神学士《ぼうしんがくし》も、病を得て英国から帰途印度洋で死んで、新嘉坡《シンガポール》に葬られた。二葉亭氏も印度洋で死んで新嘉坡で火葬され、骨になって日本に帰るのである。
高山《こうざん》の麓《ふもと》の谷は深い。世界第一の高峻《こうしゅん》雪山《せつさん》を有《も》つ印度の洋《うみ》は、幾干《いくばく》の人の死体を埋めても埋めても埋めきれぬ。其|陸《りく》の菩提樹《ぼだいじゅ》の蔭に「死の宗教」の花が咲いた印度の洋《うみ》は、餌《え》を求めて※[#「厭/食」、第4水準2−92−73]《あ》くことを知らぬ死の海である。烈しい暑《あつ》さのせいもあろうが、印度洋は人の気を変にする。日本郵船のある水夫は、コロムボ[#「コロムボ」に二重傍線]で気が変になり、春画《しゅんが》など水夫部屋に飾《かざ》って拝《おが》んだりして居たが、到頭印度洋の波を分けて水底深く沈《しず》んで了うた、と其船の人が余に語り聞かせた。印度洋の彼《かの》不可思議《ふかしぎ》な色をして千劫《せんごう》万劫《まんごう》已《や》む時もなくゆらめく謎《なぞ》の様な水面《すいめん》を熟々《つくづく》と見て居れば、引き入れられる様で、吾れ知らず飛び込みたくなる。
三年前余は印度洋を東から西へと渡った。日々海を眺《なが》めて暮らした。海の魔力《まりょく》が次第に及ぶを感じた。三等船客の中に、眼が悪《わる》いので欧洲《おうしゅう》廻《まわ》りで渡米する一青年があって「思出《おもいで》の記《き》」を持て居た。ペナン[#「ペナン」に二重傍線]からコロムボ[#「コロムボ」に二重傍線]の中間《ちゅうかん》で、余は其思出の記を甲板《かんぱん》から印度洋へ抛《ほう》り込んだ。思出の記は一瞬《いっしゅん》の水煙《みずけむり》を立てゝ印度洋の底深《そこふか》く沈んで往ったようであったが、彼小人菊池慎太郎が果して往生《おうじょう》したや否は疑問である。印度洋は妙に人を死に誘《さそ》う処だ。
[#地から3字上げ](明治四十二年 五月十二日)
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自動車
九十一歳の父と、八十四歳の母と逗留《とうりゅう》に来ると云う。青山から人力車では、一時間半はかゝる。去年までは車にしたが、今年《ことし》は今少し楽《らく》なものをと考えて、到頭以前|睥睨《へいげい》して居た自動車をとることにした。実は自身乗って見たかったのである。
自動車は余の嫌いなものゝ一《ひとつ》である。曾て溜池《ためいけ》の演伎座前《えんぎざまえ》で、微速力《びそくりょく》で駈《か》けて来た自動車を避《さ》けおくれて、田舎者の婆さんが洋傘《こうもり》を引かけられて転《ころ》んだ。幸に大した怪我《けが》はなかったが、其時自動車の内から若い西洋人がやおら立上り、小雨《こさめ》を厭《いと》うて悠々《ゆうゆう》と洋傘《こうもり》をひらいて下り立った容子のあまりに落つき払ったのを、眼前に見た余は、其西洋人を合せて自動車に対する憎悪《ぞうお》を抑《おさ》えかねた。自動車は其後余の嫌いなものゝ一《ひとつ》であった。
然るに自身乗って見れば、案外乗心地が好い。青山から余の村まで
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