》してか今日はまる/\の青坊主《あおぼうず》に剃《そ》って、手拭肩に独ぶら/\歩いて居る。
 甲州街道の小間物屋のおかみが荷を背負《せお》って来た。「ドウもねえあなた、天道様《てんとうさま》に可愛がられまして、此通り真黒でございます」と頬《ほお》を撫《な》でる。気の利いた口のきゝぶり、前半生に面白い話を持て居そうな女だ。負ってあるく荷は十貫目からあると云う。細君が鬢櫛《びんぐし》と鶴子の花簪《はなかんざし》を買うた。
 小間物屋のおかみが帰ると、与右衛門《よえもん》さんが地所を買わぬかと云うて来た。少しばかりの地面を買って古い家を建てたりしたので、やれ地面を買わぬかの、古い天水桶用《てんすいおけよう》の釜《かま》を買わぬかの、植木の売物があるのと、蟻《あり》の砂糖《さとう》につく如くたかってくる。金が無いと云っても、中々|本当《ほんと》にしてくれぬ。与右衛門さんも其一人である。
 与右衛門さんは、村内《そんない》切《き》っての吾儘者《わがままもの》剛慾者《ごうよくもの》としてのけものにさるゝ男である。村内でも工面《くめん》のよい方で、齢《とし》もまだ五十|左右《さう》、がっしりした岩畳《がんじょう》の体格、濃い眉の下に開《あ》いた蛇《じゃ》の目の様な二つの眼は鋭く見つめて容易に動かず、頭の頂辺《てっぺん》から足の爪先《つまさき》まで慾気《よくけ》満々《まんまん》として寸分のタルミも無い。岩畳な彼を容《い》るゝその家は、基礎《どだい》を切石《きりいし》にし、柱《はしら》の数を多くし、屋根をトタンで包《つつ》み、縁《えん》を欅《けやき》で張り、木造の鬼《おに》の窟《いわや》の如く岩畳である。彼に属する一切のものは、其|堅牢《けんろう》な意志の発現《はつげん》である。彼が家の子女は何処の子女よりも岩畳である。彼の家の黒猫は、小さな犬より大きく、村内の如何なる猫も其|威《い》に恐れぬものは無い。彼が家の麦からの束《たば》は、他家《よそ》の二倍もある。彼が家の夜具《よるのもの》は、宇都宮《うつのみや》の釣天井《つりてんじょう》程に重く大きなものだ。彼が家の婆さんは、七十過ぎて元気おさ/\若者を凌《しの》ぐ婆さんである。婆さんの曰く、私《わたし》の家《うち》は信心なんざしませんや。正に其通り、与右衛門さんは神仏《かみほとけ》なんか信ずる様な事はせぬ、徹頭徹尾|自力宗《じりきしゅう》の信者である。遠い神仏《しんぶつ》を信心するでもなければ、近所隣の思惑《おもわく》や評判を気にするでもなく、流行《はやり》とか外聞《がいぶん》とかつき合《あい》とか云うことは、一切禁物で、恃《たの》む所は自家の頭と腕、目ざすものは金である。与右衛門さんには道楽《どうらく》と云うものが無いが、金と酒は生命《いのち》にかけて好きである。家《うち》で晩酌《ばんしゃく》に飲み、村の集会で飲み、有権者だけに衆議院議員の選挙《せんきょ》振舞《ぶるまい》で飲み、どうやらすると昼日中《ひるひなか》おかず媼《ばあ》さんの小店《こみせ》で一人で飲んで真赤《まっか》な上機嫌《じょうきげん》になって、笑って無暗《むやみ》にお辞義をしたり、管《くだ》を巻いたり、気焔《きえん》を吐《は》いたりして居ることがある。皆が店を覗《のぞ》いて、与右衛門さんのお株《かぶ》梅ヶ谷の独相撲《ひとりずもう》がはじまりだ、と笑う。与右衛門さんは何処までも自己中心である。人が与右衛門さんの地所を世話すれば、世話人は差措《さしお》いて必|直談《じきだん》に来る。自身の世話しかけた地所を人が直談にすれば、一盃機嫌で怒鳴《どな》り込んで来る。
 然し与右衛門さんは強慾《ごうよく》であるかわり、彼は詐《うそ》を云わぬ。詐は貨幣《かね》同様《どうよう》天下の通《とお》り物である。都でも、田舎でも、皆それ/″\に詐をつく。多くの商売は詐に築《つ》かれた蜃気楼《しんきろう》と云ってもよい。此辺の田舎でも、些《ちっ》とまとまった買物を頼めば、売主は頼まれた人に、受取《うけとり》は幾何金《いくら》と書きましょうか、ときく。コムミッションの天引《てんびき》は殆《ほとんど》不文律になって居る。人を見て値《ね》を云う位は、世にも自然な事共である。東京から越して来た人に薪《まき》を売った者がある。他の村人が、あまり値段《ねだん》が高いじゃないかと注意したら、売り主の曰く、そりゃ些《ちった》ア高いかも知《し》んねえが、何某《なにがし》さんは金持《かねもち》だもの、此様な時にでも些《ちった》ア儲《も》うけさして貰《もら》わにゃ、と。而《そう》して薪の売主は、衆議院議員選挙権を有って居る、新聞位は読んで居る男である。売る葺萱《ふきがや》の中に屑《くず》をつめ込んで束《たば》を多くする位は何でも無い。
 誰も平気に詐《うそ》をつく。然し看板《かんばん》を出した慾張り屋の与右衛門さんは、詐を云わぬ、いかさまをせぬ。それから彼は作代《さくだい》に妻をもたせて一家を立てゝやったり、義弟が脚部に負傷《ふしょう》したりすると、荷車にのせて自身|挽《ひ》いて一里余の道を何十度も医者へ通ったり、よく縁者の面倒《めんどう》を見る。与右衛門さんに自慢話《じまんばなし》がある。東京者が杉山か何か買って木を伐《き》らした時、其木が倒れて誤《あやま》って隣合《となりあ》って居る彼与右衛門が所有林《しょゆうりん》の雑木《ぞうき》の一本を折った。最初|無断《むだん》で杉を伐りはじめたのであった。与右衛門さんは例《れい》の毛虫眉《けむしまゆ》をぴりりとさせて苦情《くじょう》を持込んだ。御自分に御買いになった木を御伐《おき》りになるに申分は無いが、何故《なぜ》此方の山の木まで御折りになったか、金が欲しくて苦情を申すでは無い、金は入りません、折れた木を元《もと》の様にして戴《いただ》きたい。思いがけない剛敵《ごうてき》に出会《でっくわ》して、東京者も弱った。与右衛門さんは散々並べて先方《せんぽう》を困《こま》らせぬいた揚句《あげく》、多分の賠償金《ばいしょうきん》と詫言《わびごと》をせしめて、やっと不承《ふしょう》した。右は東京者に打勝った与右衛門さんの手柄話の一節である。与右衛門さんは、東京者に此手で行くばかりでなく、近所隣までも此の筆法で行く。そこで与右衛門さんを憚《はばか》って、其の地所の隣地に一寸した事をするにも、屹度《きっと》わたりをつける。
 与右衛門さんは評判の長話家《ながばなしや》である。鍬を肩にして野ら仕事の出がけに鉢巻とって「今日《こんにち》は」の挨拶《あいさつ》からはじめて、三十分一時間の立話《たちばなし》は、珍らしくもない。今日も煙管《きせる》をしまっては出し、しまっては出し、到頭二時間と云うものぶっ通しに話された。与右衛門さんは中々の精力家である。「どうもダイ産《さん》としては地所程好いダイ産はありませんからナ」の百万|遍《べん》を聞かされた。
「でも斯様《こん》な時代もあったですよ」
と云って、与右衛門さんは九度目《ここのたびめ》に抽《ぬ》き出した煙管《きせる》に煙草をつめながら、斯様《こん》な話をした。
 此辺はもと徳川様の天領《てんりょう》で、納《おさ》め物の米や何かは八王子《はちおうじ》の代官所《だいかんしょ》まで一々持って往ったものだ。八王子まではざっと六里、余り面倒なので、田はうっちゃってしまえと云う気になり、粕谷では田を一切|烏山《からすやま》にやるから貰《もら》ってくれぬかと相談をかけた。烏山では、タヾでは貰えぬ、と言う。到頭馬弐駄に酒樽《さかだる》をつけて、やっと厄介な田を譲った。
「嘘《うそ》の様な話でさ。惜しい事さね、今ならば……」
と云って、与右衛門さんは煙管《きせる》の雁管《がんくび》をポンと火鉢にはたいて、今にも水が垂《た》りそうな口もとをした。
[#地から3字上げ](明治四十四年 四月三日)
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     五月五日

 五月五日。日曜。節句。余等が結婚十九年の記念日。例によって赤の飯、若芽《わかめ》の味噌汁《みそしる》。
 朝飯すまして一家買物に東京行。東京には招魂祭、府中には大国魂《おおくにたま》神社《じんしゃ》の祭礼があるので、甲州街道も東へ往ったり西へ来たり人通りが賑《にぎ》やかだ。新宿、九段、上野、青山と廻《まわ》って、帰途に就いたのが、午後四時過ぎ。東京は賑やかで面白い。賑やかで面白い東京から帰って来ると、田舎も中々悪くない。西日《にしび》に光る若葉の村々には、赭《あか》い鯉が緑の中からふわりと浮いて居る。麦の穂は一面|白金色《はくきんしょく》に光り、蛙《かわず》鳴く田は紫雲英《れんげそう》の紅《くれない》を敷き、短冊形《たんざくがた》の苗代《なわしろ》には最早|嫩緑《どんりょく》の針《はり》がぽつ/\芽ぐんで居る。夕雲雀《ゆうひばり》が鳴く。日の入る甲州の山の方から塵《ちり》のまじらぬ風がソヨ/\顔を吹く。府中の方から大国魂神社の大太鼓《おおたいこ》がドン/\と遙《はるか》に響《ひび》いて来る。
 帰宅したのが六時過ぎ。正面《まとも》に見て眩《まぶ》しくない大きな黄銅色《しんちゅういろ》の日輪《にちりん》が、今しも橋場《はしば》の杉木立《すぎこだち》に沈みかけた所である。
 本当に日が永い。
 留守に隣から今年《ことし》も※[#「木+解」、第3水準1−86−22]餅《かしわもち》をもらった。
 留守に今一つの出来事があった。橋本のいさちゃんが、浜田の婆《ばあ》さんに連れられ、高島田《たかしまだ》、紋付《もんつき》、真白に塗《ぬ》って、婚礼《こんれい》の挨拶《あいさつ》に来たそうだ。美《うつく》しゅうござんした、と婢《おんな》が云う。
 いさちゃんは此辺でのハイカラ娘である。東京のさる身分ある人の女で、里子に来て、貰《もら》われて橋本の女になった。橋本の嗣子《あととり》が亡くなったので、実弟の谷さんを順養子《じゅんようし》にして、いさちゃんを妻《めあ》わしたのである。余等が千歳村に越《こ》して程なく、時々遊びに来る村の娘の中に、垢《あか》ぬけした娘が居た。それがいさちゃんであった。彼女は高等小学を卒《お》え、裁縫《さいほう》の稽古《けいこ》に通った。正月なんか、庇髪《ひさし》に結《ゆ》ってリボンをかけて着物を更《か》えた所は、争われぬ都の娘であったが、それでも平生《ふだん》は平気に村の娘同様の仕事をして、路の悪い時は肥車《こやしぐるま》の後押《あとお》しもし、目籠《めかご》背負《せお》って茄子《なす》隠元《いんげん》の収穫《しゅうかく》にも往った。実家の母やマアガレットに結って居る姉妹等が遊びに来ても、いさちゃんはさして恥じらう風情《ふぜい》も無かった。
 田舎は淋《さび》しい。人が殖《ふ》え家が殖えるのは、田舎の歓喜《よろこび》である。人が喰合《くいあ》う都会では、人口の増加は苦痛《くつう》の問題だが、自然を相手に人間の戦《たたか》う田舎の村では、味方の人数が多い事は何よりも力で強味《つよみ》である。小人数《こにんず》の家は、田舎では惨《みじめ》なものだ。何《ど》の家でも、五人六人子供の無い家《うち》は無い。この部落《ぶらく》でも、鴫田《しぎだ》や寺本の様に屈強《くっきょう》な男子《おとこのこ》の五人三人持て居る家《うち》は、家《いえ》も栄《さかえ》るし、何かにつけて威勢《いせい》がよい。養蚕《ようさん》が重《おも》な副業《ふくぎょう》の此地方では、女の子も大切《だいじ》にされる。貧しい家《うち》が扶持《ふち》とりに里子をとるばかりでなく、有福《ゆうふく》な家《うち》でも里子をとり、それなりに貰ってしまうのが少なくない。其まゝに大きくして、内の※[#「女+息」、第4水準2−5−70]《よめ》にするのが多い。所謂《いわゆる》「蕾《つぼみ》からとる花嫁御《はなよめご》」である。一家総労働の農家では、主僕の間に隔《へだて》がない様に、実の娘と養女の間に格別《かくべつ》の差等《さとう》はない。養われた子女が大きくなっても、別に東京恋しとも思わず、東京に往っても直ぐ田舎に帰って来る。
 
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