言通《もんごんどお》り吹けば飛ぶ軽い土が、それ吹くと云えば直ぐ茶褐色の雲を立てゝ舞い込む。彼は前年|蘇士《スエズ》運河の船中で、船房の中まで舞い込む砂あらしに駭いたことがある。武蔵野の土あらしも、やわか劣《おと》る可き。遠方から見れば火事の煙。寄って来る日は、眼鼻口はもとより、押入《おしいれ》、箪笥《たんす》の抽斗《ひきだし》の中まで会釈《えしゃく》もなく舞い込み、歩けば畳に白く足跡がつく。取りも直さず畑が家内《やうち》に引越すのである。
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都をば塵の都と厭《いと》ひしに
    田舎も土の田舎なりけり
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 あまり吹かれていさゝかヤケになった彼が名歌である。風が吹く、土が飛ぶ、霜が冴《さ》える、水が荒い。四拍子|揃《そろ》って、妻の手足は直ぐ皸《ひび》、霜やけ、あかぎれに飾られる。オリーヴ油《ゆ》やリスリンを塗《ぬ》った位では、血が止まらぬ。主人の足裏《あしうら》も鯊《さめ》の顋《あご》の様に幾重《いくえ》も襞《ひだ》をなして口をあいた。あまり手荒《てあら》い攻撃に、虎伏す野辺までもと跟《つ》いて来た糟糠《そうこう》の御台所《みだいどころ》も、ぽろ/\涙をこぼす日があった。以前の比較的ノンキな東京生活を知って居る娘などが逗留《とうりゅう》に来て見ては、零落《れいらく》と思ったのであろ、台所の隅《すみ》で茶碗を洗いかけてしく/\泣いたものだ。

       二

 主人は新鋭の気に満ちて、零落どころか大得意であった。何よりも先ず宮益《みやます》の興農園から柄《え》の長い作切鍬、手斧鍬《ちょうなぐわ》、ホー、ハァト形のワーレンホー、レーキ、シャヴル、草苅鎌、柴苅鎌《しばかりがま》など百姓の武器と、園芸書類《えんげいしょるい》の六韜三略《りくとうさんりゃく》と、種子と苗《なえ》とを仕入れた。一反五|畝《せ》の内、宅地、杉林、櫟林を除いて正味一反余の耕地には、大麦小麦が一ぱいで、空地《あきち》と云っては畑の中程に瘠《や》せこけた桑樹と枯れ茅《かや》枯れ草の生えたわずか一畝に足らぬ位のものであった。彼は仕事の手はじめに早速其草を除き、重い作切鍬よりも軽いハイカラなワーレンホーで無造作に畝《うね》を作って、原肥無し季節御構いなしの人蔘《にんじん》二十日大根《はつかだいこん》など蒔《ま》くのを、近所の若い者は東京流の百姓は彼様《ああ》するのかと眼を瞠《みは》って眺《なが》めて居た。作ってある麦は、墓の向うの所謂《いわゆる》賭博《とばく》の宿の麦であった。彼は其一部を買って、邪魔《じゃま》になる部分はドシ/\青麦をぬいてしまい、果物好きだけに何よりも先ず水蜜桃を植えた。通りかゝりの百姓衆《ひゃくしょうしゅう》に、棕櫚縄《しゅろなわ》を蠅頭《はえがしら》に結ぶ事を教わって、畑中に透籬《すいがき》を結い、風よけの生籬《いけがき》にす可く之に傍《そ》うて杉苗を植えた。無論必要もあったが、一は面白味から彼はあらゆる雑役《ぞうえき》をした。あらゆる不便と労力とを歓迎した。家から十丁程はなれた塚戸《つかど》の米屋が新村入を聞きつけて、半紙一帖持って御用聞《ごようき》きに来た時、彼はやっと逃げ出した東京が早や先き廻りして居たかとばかりウンザリして甚《はなはだ》不興気《ふきょうげ》な顔をした。
 手脚を少し動かすと一廉《いっかど》勉強した様で、汚ないものでも扱うと一廉謙遜になった様で、無造作に応対をすると一廉人を愛するかの様で、酒こそ飲まね新生活の一盃機嫌《いっぱいきげん》で彼はさま/″\の可笑味を真顔でやってのけた。東京に居た頃から、園芸好きで、糞尿を扱う事は珍らしくもなかったが、村入しては好んで肥桶を担《かつ》いだ。最初はよくカラカフス無しの洋服を着て、小豆革《あずきかわ》の帯をしめた。斯革の帯は、先年神田の十文字商会で六連発の短銃を買った時手に入れた弾帯で、短銃其ものは明治三十八年の十二月日露戦役果て、満洲軍総司令部凱旋の祝砲を聞きつゝ、今後は断じて護身の武器を帯びずと心に誓って、庭石にあてゝ鉄槌でさん/″\に打破《うちこわ》してしまったが、帯だけは罪が無いとあって今に残って居るのであった。洋服にも履歴がある。そも此洋服は、明治三十六年日蔭町で七円で買った白っぽい綿セルの背広《せびろ》で、北海道にも此れで行き、富士《ふじ》で死にかけた時も此れで上り、パレスチナから露西亜《ろしあ》へも此れで往って、トルストイの家でも持参《じさん》の袷《あわせ》と此洋服を更代《こうたい》に着たものだ。西伯利亜鉄道《シベリアてつどう》の汽車の中で、此一張羅の洋服を脱いだり着たりするたびに、流石《さすが》無頓着《むとんちゃく》な同室の露西亜の大尉も技師も、眼を円《まる》く鼻の下を長くして見て居た歴史つきの代物《しろもの》である。此洋服を着て甲州街道で新に買った肥桶を青竹《あおだけ》で担いで帰って来ると、八幡様に寄合をして居た村の衆《しゅう》がドッと笑った。引越後《ひっこしご》間《ま》もなく雪の日に老年の叔母が東京から尋ねて来た。其帰りにあまり路が悪《わる》いので、矢張此洋服で甲州《こうしゅう》街道《かいどう》まで車の後押しをして行くと、小供が見つけてわい/\囃《はや》し立てた。よく笑わるゝ洋服である。此洋服で、鍔広《つばびろ》の麦藁帽をかぶって、塚戸に酢《す》を買いに往ったら、小学校|中《じゅう》の子供が門口に押し合うて不思議な現象を眺めて居た。彼の好物《こうぶつ》の中に、雪花菜汁《おからじる》がある。此洋服着て、味噌漉《みそこし》持って、村の豆腐屋に五厘のおからを買いに往った時は、流石|剛《ごう》の者も髯と眼鏡《めがね》と洋服に対していさゝかきまりが悪かった。引越し当座は、村の者も東京人《とうきょうじん》珍《めず》らしいので、妻なぞ出かけると、女子供《おんなこども》が、
「おっかあ、粕谷の仙ちゃんのお妾《めかけ》の居た家《うち》に越して来た東京のおかみさんが通《とお》るから、出て来て見なァよゥ」
と、すばらしい長文句で喚《わめ》き立てゝ大騒《おおさわ》ぎしたものだ。
 東京客が沢山《たくさん》来た。新聞雑誌の記者がよく田園生活の種取《たねと》りに来た。遠足半分《えんそくはんぶん》の学生も来た。演説依頼の紳士《しんし》も来た。労働最中に洋服でも着た立派な東京紳士が来ると、彼は頗得意であった。村人の居合わす処で其紳士が丁寧に挨拶《あいさつ》でもすると、彼はます/\得意であった。彼は好んで斯様な都の客にブッキラ棒の剣突《けんつく》を喰《く》わした。芝居気《しばいげ》も衒気《げんき》も彼には沢山にあった。華美《はで》の中に華美を得|為《せ》ぬ彼は渋い中に華美をやった。彼は自己の為に田園生活をやって居るのか、抑《そもそ》もまた人の為に田園生活の芝居をやって居るのか、分からぬ日があった。小《ちい》さな草屋のぬれ縁《えん》に立って、田圃《たんぼ》を見渡す時、彼は本郷座《ほんごうざ》の舞台から桟敷や土間を見渡す様な気がして、ふッと噴《ふ》き出す事さえもあった。彼は一時片時も吾を忘れ得なかった。趣味から道楽から百姓をする彼は、自己の天職が見ることと感ずる事と而して其れを報告するにあることを須臾《しゅゆ》も忘れ得なかった。彼の家から西へ四里、府中町《ふちゅうまち》へ買った地所と家作の登記《とうき》に往った帰途、同伴の石山氏が彼を誘《さそ》うて調布町のもと耶蘇教信者の家に寄った。爺さんが出て来て種々雑談の末、石山氏が彼を紹介《しょうかい》して今度村の者になったと云うたら、爺さん熟々《つくづく》彼の顔を見て、田舎住居も好いが、さァ如何《どう》して暮したもんかな、役場の書記と云ったって滅多《めった》に欠員《けついん》があるじゃなし、要するに村の信者の厄介者だと云う様な事を云った。そこで彼はぐっと癪《しゃく》に障《さわ》り、斯《こ》う見えても憚りながら文字の社会では些《ちっと》は名を知られた男だ、其様な喰詰《くいつ》め者と同じには見て貰うまい、と腹の中では大《おおい》に啖呵《たんか》を切ったが、虫を殺して彼は俯《うつむ》いて居た。家が日あたりが好いので、先の大工の妾時代から遊び場所にして居た習慣から、休日には若い者や女子供が珍らしがってよく遊びに来た。妻が女児の一人に其《その》家《うち》をきいたら、小さな彼女は胸を突出し傲然《ごうぜん》として「大尽《だいじん》さんの家《うち》だよゥ」と答えた。要するに彼等は辛《かろ》うじて大工の妾のふる巣にもぐり込んだ東京の喰いつめ者と多くの人に思われて居た。実際彼等は如何様《どんな》に威張《いば》っても、東京の喰詰者であった。但《ただ》字を書く事は重宝がられて、彼も妻もよく手紙の代筆をして、沢庵《たくわん》の二三本、小松菜の一二|把《わ》礼にもらっては、真実感謝して受けたものだ。彼はしば/\英語の教師たる可く要求された。妻は裁縫《さいほう》の師匠をやれと勧められた。自身《じしん》上州《じょうしゅう》の糸屋から此村の農家に嫁《とつ》いで来た媼《ばあ》さんは、己が経験から一方ならず新参のデモ百姓に同情し、種子をくれたり、野菜をくれたり、桑があるから養蚕《ようさん》をしろの、何の角のと親切に世話をやいた。

       三

 東京へはよく出た。最初一年が間は、甲州《こうしゅう》街道《かいどう》に人力車があることすら知らなかった。調布新宿間の馬車に乗るすら稀《まれ》であった。彼等が千歳村《ちとせむら》に越して間もなく、玉川電鉄は渋谷《しぶや》から玉川まで開通したが、彼等は其れすら利用することが稀であった。田舎者は田舎者らしく徒歩主義《とほしゅぎ》を執らねばならぬと考えた。彼も妻も低い下駄、草鞋《わらじ》、ある時は高足駄《たかあしだ》をはいて三里の路を往復した。しば/\暁かけて握飯食い/\出かけ、ブラ提灯を便《たよ》りに夜《よる》晩《おそ》く帰ったりした。丸《まる》の内《うち》三菱《みつびし》が原で、大きな煉瓦の建物を前に、草原《くさはら》に足投げ出して、悠々《ゆうゆう》と握飯食った時、彼は実際好い気もちであった。彼は好んで田舎を東京にひけらかした。何時《いつ》も着のみ着のまゝで東京に出た。一貫目余の筍《たけのこ》を二本|担《にな》って往ったり、よく野茨の花や、白いエゴの花、野菊や花薄《はなすすき》を道々折っては、親類へのみやげにした。親類の女子供も、稀に遊びに来ては甘藷《いも》を洗ったり、外竈《そとへっつい》を焚《た》いて見たり、実地の飯事《ままごと》を面白がったが、然し東京の玄関《げんかん》から下駄ばきで尻からげ、やっとこさに荷物|脊負《せお》うて立出る田舎の叔父の姿を見送っては、都《みやこ》の子女《しじょ》として至って平民的な彼等も流石に羞《はず》かしそうな笑止《しょうし》な顔をした。
 彼は田舎を都にひけらかすと共に、東京を田舎にひけらかす前に先ず田舎を田舎にひけらかした。彼は一切《いっさい》の角《つの》を隠して、周囲に同化す可く努《つと》めた。彼はあらゆる村の集会《しゅうかい》に出た。諸君が廉酒《やすざけ》を飲む時、彼は肴《さかな》の沢庵をつまんだ。葬式に出ては、「諸行無常」の旗持をした。月番《つきばん》になっては、慰兵会費を一銭ずつ集めて廻って、自身役場に持参《じさん》した。村の耶蘇教会にも日曜毎《にちようごと》に参詣して、彼が村入して程なく招《まね》かれて来た耳の遠い牧師の説教《せっきょう》を聴いた。荷車を借りて甲州街道に竹買いに行き、椎蕈ムロを拵《こしら》えると云っては屋根屋の手伝をしたりした。都の客に剣突《けんつく》喫《く》わすことはある共、田舎の客に相手《あいて》にならぬことはなかった。誰《たれ》にでもヒョコ/\頭を下げ、いざとなれば尻軽《しりがる》に走り廻った。牛にひかれた妻も、外竈《そとへっつい》の前に炭俵を敷いて座りながら、かき集めた落葉で麦をたき/\読書をしたりして「大分《だいぶ》話《はな》せる」と良人にほめられた。
 玉川に遠いのが毎《いつ》も繰り返えされる失望であったが、井水
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