ずるまでゝある。

           *

 淋《さび》しい元日であった。
 あまり淋しいので、夜《よる》隣家《となり》の人々を案内にやったら、皆|浪花節《なにわぶし》に出かけて留守だった。
[#地から3字上げ](明治四十四年)
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     芝生の上

 正月に入って、連日《れんじつ》美晴《びせい》。
 庭を歩くと、吹くともない風が冷やり/\顔を撫《な》でる。日はほか/\と暖かい。杉《すぎ》は鳶色《とびいろ》になり、松は微黄《びこう》を帯《お》び、裸《はだか》になった楓《かえで》の枝《えだ》には、四十雀《しじゅうから》が五六|羽《ぱ》、白頬《しろほ》の黒頭《くろあたま》を傾《かし》げて見たり、ヒョイ/\と枝から枝に飛んだりして居る。地蔵様《じぞうさま》の影が薄《うっ》すら地に落ちて居る。
 デカとピンとチョンが、白茶《しらちゃ》のフラシ天《てん》の敷物《しきもの》を敷きつめた様な枯れて乾《かわ》いた芝生《しばふ》に悠々《ゆうゆう》と寝《ね》そべり、満身に日を浴《あ》びながら、遊んで居る。過去は知らず、将来は知らず、現在の彼等は幸福《こうふく》である。幸福な彼等を眺《なが》めて楽《たのし》む主人《あるじ》も、不幸な者とは云われない。
 勝手の方で、飯《めし》をやる合図《あいず》の口笛《くちぶえ》が鳴ったので、犬の家族は刎《は》ね起きて先を争うて走って往った。主人はやおら下駄《げた》をぬいで、芝生の真中《まんなか》に大の字に仰臥《ぎょうが》した。而して一鳥|過《よ》ぎらず片雲《へんうん》駐《とど》まらぬ浅碧《あさみどり》の空《そら》を、何時までも何時までも眺めた。
[#地から3字上げ](明治四十五年 一月十日)
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     小鳥

 芝生を焼く。
 水島生《みずしませい》が来た。社会主義《しゃかいしゅぎ》神髄《しんずい》を返えし、大英遊記《だいえいゆうき》を借りて往った。林の中で拾《ひろ》ったと云って、弾痕《だんこん》ある鶇《つぐみ》を一|羽《わ》持て来た。食う気になれぬので、楓の下に埋葬《まいそう》。
 銃猟《じゅうりょう》は面白いものであろう。小鳥はうまいものである。此村にはあまり銃猟に来る都人士もないので、小鳥は可なり多い。ある日庭を歩いて居ると、突然東の方から嵐《あらし》の様な羽音《はおと》を立てゝ、夥《おびただ》しい小鳥の群《むれ》が悲鳴《ひめい》をあげつゝ裏の雑木林《ぞうきばやし》に飛んで来た。と思うと、やがて銃声がした。小鳥はうまいものである。銃猟は面白いものであろう。然しあの遽《あわただ》しい羽音と、小さな心臓《しんぞう》も破裂《はれつ》せんばかり驚きおびえた悲鳴を聞いては……
 午後|鳥打《とりうち》帽子《ぼうし》をかぶった丁稚風《でっちふう》の少年が、やゝ久しく門口に立って居たが、思切ったと云う風で土間に入って来た。年は十六、弟子にして呉れと云う。縁《えん》の方へ廻れと云うたら、障子をあけてずンずン入って来たから、縁から突落して馬鹿と叱った。もと谷中村《やなかむら》の者で、父は今|深川《ふかがわ》で石工《いしく》、自身はボール箱造って、向う賄《まかない》で月《つき》六円とるそうだ。小説家なぞになるものでない、と云って聞かして、干柿《ほしがき》を三つくれて帰えす。
[#地から3字上げ](明治四十二年 一月十七日)
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     炬燵

 雪がまだ融《と》けぬ。
 夜、二畳の炬燵《こたつ》に入って、架上《かじょう》の一冊を抽《ぬ》いたら、「多情多恨《たじょうたこん》」であった。器械的《きかいてき》に頁《ページ》を翻《ひるがえ》して居ると、ついつり込まれて読み入った。ふっと眼を上げると、向うには鶴子が櫓《やぐら》に突伏《つっぷ》して好い気もちにスヤ/\寝て居る。炬燵の上には、猫が咽《のど》も鳴《な》らさず巴形《ともえなり》に眠って居る。九時近い時計がカチ/\鳴る。台所では細君が皿《さら》の音をさして居る。
 茫々《ぼうぼう》たる過去と、漠々《ばくばく》たる未来の間に、斯《この》一瞬《いっしゅん》の現今は楽しい実在《じつざい》であろう。
 またさら/\と雪になった。
 余は多情多恨を読みつゞける。何と云うても名筆である。柳之助《りゅうのすけ》が亡妻《ぼうさい》の墓に雨がしょぼ/\降って居たと葉山《はやま》に語る条《くだり》を読むと、青山《あおやま》墓地《ぼち》にある春日《かすが》燈籠《とうろう》の立った紅葉山人《こうようさんじん》の墓が、突《つ》と眼の前に現《あら》われた。忽ち其墓の前に名刺《めいし》を置いて落涙《らくるい》する一|青年《せいねん》士官《しかん》の姿《すがた》が現われる。それは寄生木《やどりぎ》の原著者《げんちょしゃ》である。あゝ其青年士官――彼自身|最早《もう》故山の墓になって居るのだ。
 皆さっさと過ぎて行く。
「御徐《おしずか》に!」
 斯く云いたい。
 何故《なぜ》人生は斯《こ》うさっさと過ぎて往って了《しま》うのであろう?
[#地から3字上げ](明治四十二年 一月二十二日)
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     蓄音器

 あまり淋《さび》しいので、昔は嫌いなものゝ一にして居た蓄音器《ちくおんき》を買った。無喇叺《むらっぱ》の小さなもので、肉声《にくせい》をよく明瞭《めいりょう》に伝える。呂昇《ろしょう》、大隈《おおすみ》、加賀《かが》、宝生《ほうじょう》、哥沢《うたざわ》、追分《おいわけ》、磯節《いそぶし》、雑多《ざった》なものが時々余等の耳に刹那《せつな》の妙音《みょうおん》を伝える。
 あたりが静《しずか》なので、戸をしめきっても、四方に余音《よいん》が伝《つた》わる。蓄音器があると云う事を皆知って了うた。そこで正月には村の若者四十余名を招待《しょうだい》して、蓄音器を興行《こうぎょう》した。次ぎには平生世話になる耶蘇教《やそきょう》信者《しんじゃ》の家族を招待した。次ぎには畑仕事で始終|厄介《やっかい》になる隣字《となりあざ》の若者等を案内した。今夜は村の婦人連を招《まね》いた。生憎《あいにく》前日来の雨で、到底|来者《きて》はあるまいと思うて居ると、それでも傘《かさ》をさして夕刻《ゆうこく》から十数人の来客《らいきゃく》。
 妻と鶴子と逗留中《とうりゅうちゅう》の娘とが席に出て取持つ。
 余は母屋《おもや》の炉《ろ》を擁《よう》して、書《ほん》を見ながら時々書院のさゞめきに耳傾ける。一曲終る毎に、入り乱れたほめ言葉が聞こえる。曲中ながら笑声が起る。二時間ばかりも過ぎた。茶菓が運ばれた。やがて誰やらクド/\言う様子であったが、音譜《おんぷ》の中には聞き覚えのない肉声が高々と響き出した。
 余は窃《そ》と廊下《ろうか》伝《づた》いに書院に往って、障子の外に停《たたず》んだ。蓄音器が歌うのではない。田圃向《たんぼむこ》うのお琴婆さんが歌うのである。
 田圃向うの浜田の源《げん》さんの母者《ははじゃ》は、余の字《あざ》で特色ある人物の一人である。彼女は神道《しんどう》大成教《たいせいきょう》の熱心な信者で、あまり大きくもない屋敷の隅には小さな祠《ほこら》が祭ってあって、今でも水垢離《みずごり》とって、天下泰平《てんかたいへい》、国土安穏《こくどあんのん》、五穀成就《ごこくじょうじゅ》、息災延命《そくさいえんめい》を朝々祈るのである。彼女は村の生れでなく、噂《うわさ》によればさる士《さむらい》の芸妓《げいしゃ》に生ませた女らしい。其信心は何時から始まったか知らぬが、其夫が激烈《げきれつ》な脚気《かっけ》にかゝって已に衝心《しょうしん》した時、彼女は身命《しんめい》を擲《なげう》って祈ったれば、神のお告に九年|余命《よめい》を授《さず》くるとあった。果然《はたして》夫の病気は畳《たたみ》の目一つずつ漸々快方に向って、九年の後死んだ。顔の蒼白い、頬骨《ほおぼね》の高い、眼の凄《すご》い、義太夫語りの様な錆声《さびごえ》をした婆さんである。「折目高《おりめだか》なる武家《ぶけ》挨拶《あいさつ》」と云う様な切口上で挨拶をするのが癖である。今日も朝方《あさがた》蓄音器招待の礼《れい》に、季節には珍らしい筍《たけのこ》二本持て来てくれた。
 琴婆さんは蓄音器の返礼《へんれい》にと云って、文句《もんく》は自作の寿《ことぶき》を唄うて居る。
「福富サンが、皆を集めて遊ばせて下さるゥ……(如何《どう》も声が出ないものですから、エヘン、エヘン――ウーイ、ウーイ、ウーイ)……御親切な福富さんの(ウーイ、ウーイ)ます/\御繁昌《ごはんじょう》で(ウーイ、ウーイ)表《おもて》の方から千両箱、右の方から宝船《たからぶね》(ウーイ、ウーイ)……
 障子の外に立聞く主人は、冷汗が流れた。彼は窃《そっ》とぬき足して母屋に帰った。唄《うた》はまだつゞいて、(ウーイ、ウーイ)が Refrain の様に響いて来る。
[#地から3字上げ](明治四十五年 二月六日)
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     春七日

       (一)雛節句

 三月三日。別に買った雛も無いから、細君が鶴子を相手に紙雛を折ったり、色紙《いろがみ》の鶴、香箱《こうばこ》、三方《さんぼう》、四方《しほう》を折ったり、あらん限りの可愛いものを集めて、雛壇《ひなだん》を飾《かざ》った。
 草餅《くさもち》が出来た。蓬《よもぎ》は昨日鶴子が夏やと田圃《たんぼ》に往って摘《つ》んだのである。東京の草餅は、染料《せんりょう》を使うから、色は美しいが、肝腎《かんじん》の香が薄《うす》い。
 今朝は非常の霜だった。午《ひる》の前後はまた無闇《むやみ》と暖《あたたか》で、急に梅が咲き、雪柳《ゆきやなぎ》が青く芽をふいた。山茱萸《さんしい》は黄色の花ざかり。赤い蕾《つぼみ》の沈丁花《ちんちょうげ》も一つ白い口を切《き》った。春蘭《しゅんらん》、水仙《すいせん》の蕾が出て来た。
 雲雀《ひばり》が頻《しきり》に鳴く。麦畑《むぎばた》に陽炎《かげろう》が立つ。
 唖の巳代吉が裸馬《はだかうま》に乗って来た。女子供がキャッ/\騒《さわ》ぎながら麦畑の向うを通る。若い者が大勢《おおぜい》大師様の参詣《さんけい》に出かける。
 春だ。
 恋猫《こいねこ》、恋犬《こいいぬ》、鶏《にわとり》は出しても/\巣《す》につき、雀《すずめ》は夫婦で無暗《むやみ》に人の家《うち》の家根《やね》に穴をつくり、木々は芽を吐き、花をさかす。犬のピンの腹《はら》ははりきれそうである。
 夜は松の心芽《しんめ》程《ほど》の小さな蝋燭《ろうそく》をともして、雛壇が美《うつく》しかった。

       (二)春雨

 三月六日。
 尽日《じんじつ》雨、山陽《さんよう》の所謂《いわゆる》「春雨《はるさめ》さびしく候」と云う日。
 書窓《しょそう》から眺めると、灰色《はいいろ》をした小雨《こさめ》が、噴霧器《ふんむき》で噴《ふ》く様に、弗《ふっ》――弗《ふっ》と北から中《なか》ッ原《ぱら》の杉の森を掠《かす》めて斜《はす》に幾《いく》しきりもしぶいて通る。
 つく/″\見て居る内に、英国の発狂《はっきょう》詩人《しじん》ワットソン[#「ワットソン」に傍線]の God comes down in the rain 神は雨にて降《くだ》り玉う、と云う句を不図《ふと》憶《おも》い出した。其れは「田舎《いなか》の信心《しんじん》」と云う短詩の一句である。全詩《ぜんし》は忘れたが、右の句と、「此処《ここ》田舎の村にては、神を信頼《しんらい》の一念今も尚存し」と云う句と、結句の「此れぞ田舎の信心なる、此れに越すものあらめやも」と云う句を覚えて居る。
 農村《のうそん》に天道様《てんとうさま》の信心が無くなったら、農村の破滅《はめつ》である。然るに此信心は日に/\消亡《しょうもう》して、人智人巧唯我唯利の風が日々農村人心の分解《ぶんかい》を促《うなが》しつゝあるのだ。少しでも農村の実情を見知る者は、前途を懸念《けねん》せずには居られぬ。

       (三)雨後

 三月七日。

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