角谷は手が器用《きよう》で、書籍の箱造り荷拵《にごしら》えなどがうまかった。職人になればよかった、と自身もしばしばこぼして居た。
角谷は十九であった。店《みせ》は耶蘇教主義であるが、角谷は夜毎の家庭《かてい》祈祷会《きとうかい》などに出るのを厭《いや》がって居た。彼の本箱には、梅暦《うめごよみ》や日本訳のマウパッサン短篇集《たんぺんしゅう》が入って居た。
謎《なぞ》は自《おの》ずから解ける。
ヱデキンドが「春の目ざめ」のモリッツを想わずに居られぬ。
*
夜、外の闇から火光《あかり》を眼がけて猛烈にカナブンが飛んで来る。ばたンばたンと障子《しょうじ》にぶつかる音が、礫《つぶて》の様だ。掴《つか》んでは入れ、掴んでは入れして、サイダァの空瓶《あきびん》が忽一ぱいになった。
[#地から3字上げ](明治四十四年 八月二十二日)
[#改ページ]
暁斎画譜
重田《しげた》さんが立寄《たちよ》った。重田さんは隣字《となりあざ》の人で、気が少し変なのである。躁暴狂《そうぼうきょう》でもなく、憂欝狂《ゆううつきょう》と云う訳でもなく、唯家業の農を抛擲《ほうてき》してぶらぶら歩いて居る。美的百姓が遊び人であるためか、時々音ずれる。
今日《きょう》も立寄った。挨拶《あいさつ》が斯《こ》うだ。
「えゝ私は、晩寝郡《おそねごおり》、早起村《はやおきむら》、濡垂《ぬれたら》拭兵衛《ふくべえ》と申しますが、その、私の弟《おとうと》が発狂《はっきょう》致《いた》しまして……」
くど/\二言《ふたこと》三言《みこと》云うかと思うと、「それじゃまた」とお辞儀《じぎ》をして往ってしまった。「弟が発狂した」が彼の口癖《くちぐせ》である。弟とは蓋《けだし》夫子《ふうし》自《みずから》道《い》うのであろう。
重田さんの影が消《き》ゆると、安達君《あだちくん》の顔が歴々《ありあり》と主人《あるじ》の頭に現われた。
安達君は医学士で、紀州《きしゅう》の人であった。
紀州は蜜柑《みかん》と謀叛人《むほんにん》の本場《ほんば》である。紀州灘《きしゅうなだ》の荒濤《あらなみ》が鬼《おに》が城《じょう》の巉巌《ざんがん》にぶつかって微塵《みじん》に砕けて散る処、欝々《うつうつ》とした熊野《くまの》の山が胸に一物《いちもつ》を蔵《かく》して黙《もく》して居る処、秦始皇《しんのしこう》に体《てい》のよい謀叛した徐福《じょふく》が移住《いじゅう》して来た処、謀叛僧|文覚《もんがく》が荒行《あらぎょう》をやった那智《なち》の大瀑《おおだき》が永久《えいきゅう》に漲《みなぎ》り落つ処、雄才《ゆうさい》覇気《はき》まかり違えば宗家《そうか》の天下を一《ひと》もぎにしかねまじい南竜公《なんりゅうこう》紀州《きしゅう》頼宣《よりのぶ》が虫を抑えて居た処、此国には昔から一種|熬々《いらいら》した不穏《ふおん》の気が漂《ただよ》うて居る。明治になっても、陸奥《むつ》宗光《むねみつ》を出し、大逆《だいぎゃく》事件《じけん》にも此処から犠牲《ぎせい》の一人《ひとり》を出した。安達君は此不穏の気の漂う国に生れたのである。
余が始めて君を識った時、君はまだ医科大学に居た。小説「黒潮《こくちょう》」の巻頭辞《かんとうじ》を見て、苟《いやし》くも兄たる者に対して、甚|無礼《ぶれい》と詰問《きつもん》の手紙をよこした。君自身兄であった。間もなく相見た時は、君もやゝ心解けて居たが、茶色の眼鋭く眉《まゆ》嶮《けわ》しく、熬々《いらいら》した其顔は、一見不安の念を余に起《おこ》さした。君は医学を専門にして居たが、文芸を好み高山《たかやま》樗牛《ちょぎゅう》の崇拝者で、兄弟打連れて駿州《すんしゅう》竜華寺《りゅうげじ》に樗牛の墓を弔うたりした。君の親戚が当時余の僑居《きょうきょ》と同じく原宿《はらじゅく》にあったので、君はよく親戚に来るついでに遊びに来た。親戚の家の飼犬《かいいぬ》に噛まれて、用心の為数週間芝の血清《けっせい》注射《ちゅうしゃ》に通うたなぞ云って居た。君はまた余に惺々《しょうじょう》暁斎《ぎょうさい》の画譜《がふ》二巻を呉れた。惺々暁斎は平素|猫《ねこ》の様につゝましい風をしながら、一旦酒をあおると欝憤《うっぷん》ばらしに狂態《きょうたい》百出当る可からざるものがあった。画帖《がちょう》の画も、狸が亀を押しころがしてジッと前足で押さえて居たり、蛇が羽《はば》たく雀をわんぐりと啣《くわ》えて居たり、大きな猫が寝そべりながら凄《すご》い眼をしてまだ眼の明かぬ子鼠の群を睨《にら》んで居たり、要するに熬々した頭の状態が紙の一枚毎にまざ/\と出て居た。安達君の贈物だけに、一種の興味を感じた。
君は其年医学士になって郷里紀州に帰り、妻を迎え子をもうけ、開業医の生活をして居た。
余が千歳村に引越した其夏、遊びに来た一学生をちと没義道《もぎどう》に追払ったら、学生は立腹して一《ひと》はがき五拾銭の通信料をもらわるゝ万朝報《よろずちょうほう》の文界《ぶんかい》短信《たんしん》欄《らん》に福富《ふくとみ》源次郎《げんじろう》は発狂したと投書した。自分は可なり正気の積りで居たが、新聞なるものゝ平気に譌《うそ》をつく事をまだよく知らぬ人達の間には大分|影響《えいきょう》したと見え、見舞やら問合せの手紙はがきなどいくらか来て、余は自身で自身の正気を保証《ほしょう》す可く余儀なくされた。ある日、庭で覚束《おぼつか》ない手つきをして小麦を扱《こ》いて居ると、入口で車を下りて洋装の紳士が入って来た。余は眼を挙げて安達君を見た。安達君は彼万朝報の記事を見て、余を見舞にわざ/\東京から来てくれたのであった。君は余の不相変《あいかわらず》ぼんやりして麦扱《むぎこ》きをして居るのを見て、正気だと鑑定《かんてい》をつけたと見え、来て見て安心したと云った。而《そう》して此れから北海道の増毛《ましげ》病院長となって赴任する所だと云った。妻子は? ときいたら、はっきりした返事をしなかった。
北海道から林檎《りんご》やら歌《うた》やら送って来た。病院長の生活は淋しいものらしかった。家庭の模様《もよう》を聞いてやっても、其れだけは何時《いつ》もお茶を濁して来た。余は
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北の国|五百重《いほへ》につもる白雪も
埋《うづ》みは果てじ胸の焔を
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訳《わけ》の分からぬ歌など消息の端《はし》にかきつけた。
間もなく君はまた郷里紀州に帰った。而して相変らず医を業としつゝ、其|熬々《いらいら》を漏《もら》す為に「浜《はま》ゆふ」なぞ云う文学雑誌を出したり、俳句に凝ったりして居た。曾て夏密柑を贈ってくれた。余は
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紀の国のたより来る日や風|薫《かを》る
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斯様《こん》な悪句《あくく》を書いて酬《むく》うた。或時君の令弟が遊びに来た。聞けば、細君は別居して、家庭はあまり面白くもなさそうだが、遠隔《えんかく》の地突込んで聞きもならず、其まゝに打過ぎた。
梅雨《ばいう》季《き》は誰しも発狂しそうな時節だ。安達君から、
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梅霖欝々、憂愁如水
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などはがきに書いて来た。
翌年の春、突然他の紀州の人から安達君が発狂して自殺したと知らして来た。驚いて令弟《れいてい》宛《あて》に弔状《ちょうじょう》を出したら、其れと行き違いに先の人から、安達君は短刀で自殺しかけたが、負傷したまゝで人に止《と》められたと云って、紀州の新聞を一枚送って来た。其れには安達君の直話《じきわ》として、苟《いやしく》も書を読み理義《りぎ》を解する者が、此様な事を仕出来《しでか》して、と恥じて話して居た。
余は慰問状を出した。其れが紀州に届いたと思う頃、令弟から安達君は到頭《とうとう》先度の傷の為に亡くなった、と知らして来た。
安達君は余の発狂を見舞に来てくれたが、余は安達君の病原《びょうげん》に触《ふ》るゝことが出来なかった。
記念の暁斎《ぎょうさい》画譜《がふ》は大切《だいじ》に蔵《しま》って居る。
[#改丁]
[#ここで上巻終わり]
落穂の掻き寄せ
デデン
一月一日
七時|起床《きしょう》。戸を開けば、霜如雪《しもゆきのごとし》。裏の井戸側《いどばた》に行って、素裸《すっぱだか》になり、釣瓶《つるべ》で三ばい頭から水を浴びる。不精者《ぶしょうもの》の癖《くせ》で、毎日の冷水浴をせぬかわり、一年分を元朝《がんちょう》に済《す》まそうと謂うのである。
戸、窓《まど》の限りを明《あ》け、それから鶏小屋《とりごや》の開闢《かいびゃく》。
畑《はたけ》に出て紅《あか》い実付《みつき》の野茨《のばら》一枝《ひとえだ》を剪《き》って廊下の釣花瓶《つりはないけ》に活《い》け、蕾付《つぼみつき》の白菜《はくさい》一株《ひとかぶ》を採《と》って、旅順《りょじゅん》の記念にもらった砲弾《ほうだん》信管《しんかん》のカラを内筒《ないとう》にした竹の花立《はなたて》に插《さ》し、食堂の六畳に飾《かざ》る。旧臘《きゅうろう》珍らしく暖《あたたか》だったので、霜よけもせぬ白菜に蕾がついたのである。
十時過ぎ、右の食堂で家族打寄り、梅干茶《うめぼしちゃ》一|碗《わん》、枯露柿《ころがき》一|個《こ》。今日《きょう》此家《ここ》で正月を迎えた者は、主人夫妻、養女、旧臘から逗留中《とうりゅうちゅう》の秋田の小娘《こむすめ》、毎日仕事に来る片眼のかみさん。猫のトラ、犬のデカ、ピン、小犬のチョン、クマ、鶏が十五羽。
十一時|雑煮《ぞうに》。東京仕入の種物《たねもの》沢山で、頗《すこぶる》うまい。長者気《ちょうじゃき》どりで三碗|代《か》える。尤も餅《もち》は唯三個。
*
朝は晴、やがて薄曇《うすぐも》って寒かったが、正午頃《しょうごころ》からまた日が出て暖《あたたか》になった。
自家《うち》は正月元日でも、四囲《あたり》が十二月一日なので、一向正月らしい気もちがせぬ。年賀に往く所もなく、来る者も無い。
デデンがぶらりと遊びに来た。デデンは唖の巳代吉《みよきち》が事である。唖で口が利けぬが、挨拶《あいさつ》をする場合には、デデンと云う声を出す。彼は姦淫《かんいん》の子である。戸籍面《こせきめん》の父は痴《おろか》で、母は莫連者《ばくれんもの》、実父は父の義弟《ぎてい》で実は此村の櫟林《くぬぎばやし》で拾《ひろ》われた捨子《すてご》である。捨てた父母は何者か知らぬが、巳代吉が唖ながら心霊《しんれい》手巧《しゅこう》職人風のイナセな容子を見れば、祖父母の何者かが想像されぬでもない。巳代吉は三歳《みっつ》までは口をきいた。ある日「おっかあ、お湯が呑みてえ」と呼んだきり唖となった。何ものが彼の舌を縛《しば》ったか。同じ胤《たね》と云う彼の弟も盲であるのを見れば、梅毒《ばいどく》の遺伝もあろう。父母の心の咎《とがめ》も与《あずか》って力あるかも知れぬ。兎に角彼は唖になった。
「イエス行く時、生来《うまれつき》なる瞽《めくら》を見しが、其弟子彼に問ふて曰ひけるは、ラビ、此人の瞽に生れしは誰の罪なるや、己に由るか、又二親に由るか。イエス答へけるは、此人の罪に非ず、亦其二親の罪にもあらず、彼に由て神の作為《わざ》の顕はれん為也。此事を言ひて地に唾《つば》きし、唾にて土を和《と》き、其泥を瞽者《めしひ》の目に塗《ぬ》り、彼に曰ひけるは、シロアム[#「シロアム」に二重傍線]の池に往きて洗《あら》へ。彼則ち往きて洗ひ、目見ることを得て帰れり。」
耶蘇《やそ》程《ほど》の霊力《れいりょく》があるなら、巳代吉の唖は屹度《きっと》癒《なお》る。年来《ねんらい》眼の前に日々此巳代吉に現《あら》わるゝ謎《なぞ》を見ながら、哀《かな》しいかな不信《ふしん》軽薄《けいはく》の余には、其謎を解《と》き其舌の縛《しばり》を解く能力《ちから》が無い。彼がデデンと呼んで来れば、デデンと応
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