に限ると主人夫婦は云うた。馬鈴薯《じゃがいも》を買《こ》うて来ることを巳代公《みよこう》に頼むと云って、とめやが鍬《くわ》で地を掘《ほ》る真似をして、指《ゆび》で円《まる》いものを拵《こさ》えて見せて、口にあてゝ食うさまをして、東を指し北を指し、巳代公が頷《うなず》いたと云って納《おさ》まって居ると、巳代公は一時間|経《た》っても二時間経ってもやって来ぬので、往って見ると自分の事をして居たので、始めてとめやの早合点《はやがてん》、巳代公が分《わ》からずに居た事が分かって、一同大笑いしたことがある。兎に角彼女の無我にして骨身《ほねみ》を惜まぬ快活の奉仕は、主人夫婦の急激な境遇変化に伴う寂寥《せきりょう》と不安とを如何ばかり慰めたか知れぬ。移転《いてん》の騒《さわ》ぎも一型《ひとかた》ついて、日々の生活もほゞ軌道に入ったので、彼女は泣く/\東京に帰った。妻も後影《うしろかげ》を見送って泣いた。
 三月の末東京に帰って、五月中また苺《いちご》など持って訪《たず》ねて来た。翌年丁度引越しの一周年に、彼女はまた手土産《てみやげ》を持って訪ねてくれた。去年帰西して、昨日《きのう》江州《ごうしゅう》から上京したばかりだと云った。四日程|逗留《とうりゅう》して、台所《だいどこ》をしたり、裁縫《しごと》を手伝《てつだ》ったり、折から不元気で居た妻を一方ならず助けて往った。其翌年の春、彼女は同郷《どうきょう》の者で姓も同じく商売も兄のと似寄《によ》った男に縁づいたことを知らして来た。秋十月の末、ある日|丸髷《まるまげ》に結《ゆ》った血色《けっしょく》の好い若いおかみさんが尋ねて来た。とめやであった。名も絹《きぬ》とあらためて、立派なおかみさんになって居た。夫妻|共稼《ともかせ》ぎで中々|忙《せわ》しいと云った。其れから東京では正直な人を得難いことをかこって、誰か好い子僧《こぞう》はあるまいかなぞ折から居合わした懇意の大工に聞いて居た。彼女の話の中に一つ面白い事があった。ある時|両国橋《りょうごくばし》の上で彼女は四十あまりの如何にも汚ない風をした立《たち》ン坊《ぼう》に会うた。つく/″\其顔を見て居た彼女は、立ン坊に向い、好い仕事があるかと聞いた。立ン坊は無いと答えた。橋の上に立って居るよりわたしの家に来て商売の手伝《てつだい》をしないかと云うた。立ン坊も彼女の顔を見て居たが、手伝しましょうと云うた。とめやのきぬやは早速立ン坊を連れて良人《おっと》に引合わせ、翌日から車を挽《ひ》かせて行商《こうしょう》に出したが、立ン坊君正直に働いて双方喜んで居る云々。此話は非常に旧主人夫婦を悦ばした。あの温順《おとな》しい女にも、中々|濶達《かったつ》な所がある、所謂近江商人の血が流れて居る、とあとで彼等は語り合った。
 彼女は其時已に六月《むつき》の身重《みおも》であった。今年の春男子を挙げたと云うたよりがあった。今日の其《その》訃《ふ》は実に突然である。
 彼女の臨終は如何であったろうか。当歳の子と夫を残して逝《ゆ》く彼女は嘸《さぞ》残念であったであろう。然し彼女自身は朝《あした》に生《うま》れて夕《ゆうべ》に死すとも憾《うら》みは無い善良の生涯を送って居たので、生の目的は果した。彼女の実家は仏教の篤信者《とくしんじゃ》で、彼女の伯母《おば》なぞは南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》を唱《とな》えつゝ安らかな大往生《だいおうじょう》を遂《と》げた。彼女にも其血が流れて居る。
 謙遜な奉仕の天使、彼等が我等と共に在るの日、高慢な我等は微笑を以て其|弱点《じゃくてん》を見つゝ十分に尊敬を払《はら》わず、当然の事の如く座《い》ながらにして其|心尽《こころづく》しの奉仕を受け易《やす》い。彼等が去るの日に於て、我等は今更の如く其人と其働の意味を知り得て、あらためて感謝と慚愧《ざんき》を感ずるのである。
[#改ページ]

     命がけ

 昨夜は烈《はげ》しく犬が騒《さわ》いだ。
 今朝《けさ》起きて見ると、裏庭《うらにわ》の梧桐《あおぎり》の下に犬が一|疋《ぴき》横になって居る。寝たのかと思うと、死んで居るのであった。以前《もと》時々内のピンに通って来た狐《きつね》見た様な小柄《こがら》の犬だ。デカが噛《か》み殺したと見える。
 裏のはなれに泊って居るA君の話によれば、昨夜ピンを張りに来た此犬を、デカがはなれの縁の下に追い込んで、足を啣《くわ》えて引きずり出し、而《そう》して睾丸《こうがん》を啣えて体をドシ/\と大地に投げつけた。A君が余程引きはなそうと骨折ったが、デカが如何しても放さなかったと云う事である。
 此辺には牝犬《めいぬ》が少ないので、春秋の交尾期《こうびき》になると、猫程しかないピンを目がけて、来《く》るわ/\、白君、斑君《ぶちくん》、黒君、虎君、ポインタァ君、スパニール君、美君、醜君……婿《むこ》八人どころの騒ぎではない。デカも昨春までは、其一人であったが、抜群の強猛《きょうもう》故に競走者を追払《おっぱら》って、押入婿《おしいりむこ》になり済《す》ましたのである。今は正規の夫婿顔《ふせいがお》して、凡そ眼の届《とど》かん限り、耳の聞かん限り、一切の雄犬《おいぬ》を屋敷の内へは入れぬ。其目一たび雄犬の影を見ようものなら、血相変えて追払う。宛ながら足の四本に止まるを憾《うら》むが如く、一口《ひとくち》に他の犬を喰《く》うてしまうことが出来ぬを悲しむ如く、醜《しこ》の壮夫《ますらお》デカ君が悲鳴をあげつゝ追駈《おっか》ける。其時はピンもさながらデカに義理を立てるかの如く、横合《よこあい》からワン/\吠《ほ》えて走って行く。
 最初飼った「白《しろ》」は弱虫だったので、交尾期には他の強い犬に噛まれて、毎《つね》に血だらけになった。デカは強いので、滅多に敗《ひけ》は取らぬ。然し其悲鳴して他の雄犬を追かける声は、世にも情無《なさけな》げな、苦痛其ものゝ声である。弱い者素より苦み、強い者がまた苦む。生物《せいぶつ》は皆苦む。思うに惨《いた》ましく、見るに浅ましい。然し此れが自然の約束である。即ち命を捨てゝも命は自己を伝えずには措《お》かぬ。
 都々逸《どどいつ》氏《し》歌うて曰く、
[#ここから3字下げ]
色のいの字と命《いのち》のいの字
    そこで色事《いろごと》命がけ
[#ここで字下げ終わり]
 生殖は命がけ。嫉妬は必死。遊戯で無い。
 命がけで入り込んで、生殖の為に一命を果した彼|無名犬《ななしいぬ》の死骸を、欅《けやき》の根もとに葬《ほうむ》った。向うの方には、二本投げ出した前足《まえあし》に頭《あたま》をのせて、頬杖《ほおづえ》つくと云う見得《みえ》でデカがけろりとして眺めて居た。

           *

 二時間の後、用達《ようたし》に上高井戸に出かけた。八幡《はちまん》の阪で、誰やら脹脛《ふくらはぎ》を後から窃《そ》と押す者がある。ふっと見ると、烏山《からすやま》の天狗犬《てんぐいぬ》が、前足を挙《あ》げて彼の脛《はぎ》を窃と撫《な》でて彼の注意を牽《ひ》いたのである。此犬はあまり大きくもないが、金壺眼《かなつぼまなこ》の意地悪い悪相《あくそう》をした犬で、滅多《めった》に恐怖と云うものを知らぬ鶴子すら初めて見た時は魘《おび》えて泣いた。「白《しろ》」が居た頃、此犬は毎《つね》に善良な「白」を窘《いじ》め、「白」を誘惑して共に隣家《となり》の猫を噛《か》み殺し、到頭《とうとう》「白」を遠方《えんぽう》にやるべく余儀なくした、云わば白の敵《かたき》である。白の主人の彼は此犬を憎《にく》んで、打殺そうとしば/\思った。デカが来《こ》ぬ間《うち》は、此犬もピンに通うて来た犬の一つであった。其犬すら雌犬《めいぬ》のピン故に、ピンの主人の彼に斯く媚《こ》びるのである。甚あわれになった。天狗犬は訴うる様な眼付《めつき》をしてしば/\彼を見上げ、上高井戸に往《い》って復《かえ》るまで、始終彼にくっついて歩《ある》いた。
 帰って家近くなると、天狗犬はデカを恐れて、最早《もう》跟《つ》いて来なかった。ピンの主人を見送って、悄然《しょうぜん》と櫟《くぬぎ》の下の径《こみち》に立て居った。

           *

 先日|行衛《ゆくえ》不明で、若《もし》来たら留めて置いてくれと照会があった角谷《すみや》の消息《しょうそく》が分かった。彼は十八日の夜、大森停車場附近で鉄道自殺を遂げたのである。
 彼《あの》オトナしい角谷、今年《ことし》十九の彼|律義《りちぎ》な若者が――然し此驚きは、我|迂濶《うかつ》と浅薄《せんぱく》を証拠《しょうこ》立《だ》てるに過ぎぬ。
 角谷は十三四の年地方から出京して、其主人は親類筋《しんるいすじ》に当る某書店に奉公した。美的百姓が「寄生木《やどりぎ》」を出す時、角谷は其《その》校正《こうせい》を持って銀座と粕谷の間を自転車で数十回往復した。著者が校正を見る間に、彼は四歳の女児《じょじ》の遊び相手になったり、根が農家の出身だけに、時には鍬取《くわと》りもしてくれた。ルビ振りを手伝えと云うたら、頭を掻《か》いて尻ごみした。眉の濃い、眼の可愛い、倔強《くっきょう》な田舎者らしい骨格をしながら色の少し蒼《あお》い、真面目《まじめ》な様で頓興《とんきょう》な此十七の青年と、著者の家族は大分懇意になった。角谷は自分の巾着から女児に鼠《ねずみ》の画本《えほん》など買って来た。一度日本橋で、著者の家族三人、電車満員で困って居ると、折から自転車で来かゝった彼が見かけて、自転車を知辺《しるべ》の店に預け、女児を負って新橋まで来てくれた。去年の夏の休には富士《ふじ》山頂《さんちょう》から画はがきをよこしたりした。
 来たら留めて置いてくれとのはがきに接した時、いさゝか不審に思いは思いながら、まさか彼が生《せい》を見捨《みす》てようとは思わなかった。
 角谷は十二日から三日間、例によって夏休をもろうた。十一日に貯金の全部百二十円を銀行から引出し、同店員で従兄《いとこ》に当る若者|宛《あて》の遺書《いしょ》を認《したた》め、己がデスクの抽斗《ひきだし》に入れた。其の遺書には、自分は十九歳を一期《いちご》として父の許《もと》へ行く――父は前年郷里で死んだ――主人には申訳《もうしわけ》が無いから君から宜しく云うてくれ、荷物は北海道に居る母の許に送ってくれ、運賃として金五円|封入《ふうにゅう》して置く、不足したら店員某に七十二銭の貸しがあるから、其れで払ってくれ、と書いてあった。
 十二日には、主人の出社を待って、暇乞《いとまごい》して店を出で、麻布の伯父の家を訪《と》うて二階に上り、一時間半程|眠《ねむ》った。それから日比谷《ひびや》で写真を撮《と》って、主人、伯父、郷里の兄、北海道の母に届《とど》く可く郵税《ゆうぜい》一切《いっさい》払《はら》って置いた。日比谷から角谷は浅草《あさくさ》に往った。浅草公園の銘酒屋《めいしゅや》に遊んで、田舎出の酌婦《しゃくふ》に貯蓄債券《ちょちくさいけん》をやろうかなどゝ戯談《じょうだん》を云った。彼は製本屋《せいほんや》の職工から浅草、吉原の消息を聞いて居たのである。
 角谷の踪跡《そうせき》は此処《ここ》ではたと絶えた。其れから一週間彼は何処《どこ》を如何《どう》迷うて歩いたか、一切分からぬ。
 十八日の夜八時過ぎ、神戸発新橋行の急行列車が、角谷の主人の居に近い大森で一人の男子を轢《ひ》いた。足は切れ、顔もメチャ/\になって居たが、濃い眉で角谷と分かった。店を出る時白がすりを着て出たが、死骸は紺飛白《こんがすり》を着て居た。百二十円の貯金全部を引出した角谷の蟇口《がまぐち》には、唯一銭五厘しか残って居なかった。死骸は護謨《ごむ》草履《ぞうり》を穿《は》いて居た。護謨草履が欲しい/\と角谷は云って居たのであった。
 彼は久しく死ぬ/\と云って居た。死ぬ/\と云って死ぬ者はないものだ、貯金なぞ精出して死ぬ者があるか、と他の店員が笑うと、死ぬ前には奇麗に使って仕舞《しま》うと角谷は戯談の様に云って居た。
前へ 次へ
全69ページ中44ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング