は牛乳を配達《はいだつ》したり、学校食堂の給仕をしたりして勉強して居た。斯《こ》うして約一年過ぎ、最初の学年試験も今日|明日《あす》と云う際《きわ》になって、突然病死したのである。彼は父の愛子であった。
連日《れんじつ》の雪や雨にさながら沼《ぬま》になった悪路に足駄《あしだ》を踏み込み/\、彼等夫妻は鉛《なまり》の様に重い心で次郎さんの家に往った。
禾場《うちば》には村の人達が寄って、板を削《けず》り寝棺《ねがん》を拵《こさ》えて居る。以前《もと》は耶蘇教信者と嫌われて、次郎さんのお祖父《じい》さんの葬式の時なぞは誰も来て手伝《てつど》うてくれる者もなかったそうだ。土間には大勢《おおぜい》女の人達が立ち働いて煮焚《にた》きをして居る。彼等夫妻は上《あが》って勘五郎さんに苦しい挨拶した。恵比須《えびす》さまの様な顔をしたかみさんも出て来た。勧めて無理な勉強をさして、此様《こん》な事になってしまって、まことに済《す》みません、と詫《わ》ぶる外に彼等は慰《なぐさ》めの言を知らなかった。
奥座敷《おくざしき》に入ると、次郎さんは蒲団《ふとん》の上に寝て居る。昨日雨中を舁《か》いて来たまゝなので、蒲団が濡《ぬ》れて居る。筒袖《つつそで》の綿入《わたいれ》羽織《ばおり》を着て、次郎さんは寝入った様に死んで居る。額《ひたい》を撫《な》でると氷《こおり》の様に冷《つめ》たいが、地蔵眉の顔は如何にも柔和で清く、心の美しさも偲《しの》ばれる。次郎さんをはじめ此家の子女《むすこむすめ》は、皆|小柄《こがら》の色白で、可愛げな、而《そう》して品《ひん》の良《よ》い顔をして居る。阿爺《おとっさん》は、亡児《なきこ》の枕辺《まくらべ》に座《すわ》って、次郎さんの幼《おさ》な立《だち》の事から臨終前後の事何くれと細《こま》かに物語った。勘五郎さんはもと気負肌《きおいはだ》で、烈《はげ》しい人、不平の人であったが、子の次郎さんは非常に柔和な愛の塊《かたまり》の様な児《こ》であった。次郎さんの小さな時、縁《えん》の上から下に居る弟を飛び越し/\しては遊んで居ると、偶《たまたま》飛び損《そこ》ねて弟を倒し、自分も倒れてしたゝか鼻血《はなぢ》を出した。次郎さんは鼻血を滴《た》らしつゝ、弟の泣く方《かた》へ走せ寄って吾を忘《わす》れて介抱《かいほう》した。父は次郎さんを愛してよく背《せなか》に負《おぶ》ったが、次郎さんは成丈《なるたけ》父の背《せな》を弟に譲《ゆず》って自身は歩いた。次郎さんは到る処で可愛がられた。学課の出来も好かった。両三日前の大雪に、次郎さんは外套《がいとう》もなく濡《ぬ》れて牛乳を配達したので、感冒《かぜ》から肺炎《はいえん》となったのである。彼は気分の悪いを我慢《がまん》して、死ぬる前日迄働いた。死ぬる其朝も、ふら/\する足を踏みしめて、苦学仲間の某《なにがし》の室《へや》に往って、其日の牛乳の配達を頼んだりした。病気は早急《さっきゅう》であった。医師が手を尽した甲斐もなかった。次郎さんは終に死んだ。屍《しかばね》を踏み越えて進む乱軍《らんぐん》の世の中である。学校は丁度試験中で、彼の父が急報《きゅうほう》に接して駈《か》けつけた時、死骸《しがい》の側《そば》には誰も居なかった。次郎さんは十六であった。
やがて納棺《のうかん》して、葬式が始まった。調子はずれの讃美歌《さんびか》があって、牧師《ぼくし》の祈祷《きとう》説教《せっきょう》があった。牧羊者《ひつじかい》が羊の群《むれ》を導《みちび》いて川を渡るに、先ず小羊《こひつじ》を抱《だ》いて渡ると親羊《おやひつじ》が跟《つ》いて渡ると云う例をひいて、次郎少年の死は神が其父母|生存者《せいぞんしゃ》を導《みちび》かん為の死である、と牧師は云うた。
日が短《みじか》い頃で、葬式が家を出たのは日のくれ/″\であった。青山《あおやま》街道《かいどう》に出て、鼻欠《はなかけ》地蔵《じぞう》の道しるべから畑中を一丁ばかり入り込んで、薄暗《うすぐら》い墓地に入った。大きな松が枝を広げて居る下に、次郎さんの祖母《ばば》さんや伯母《おば》さんの墓がある。其の祖母さんの墓と向き合いに、次郎さんの棺は埋《う》められた。
「祖母さんと話《はなし》してる様だァね」
と墓掘《はかほり》の人が云う。
「祖母さんが可愛がって居たからナ」
と次郎さんの阿爺《おとっさん》が云う。
自身《じしん》子が無くて他人《ひと》の子ばかり殺して居る夫妻は、荒《すさ》んだ心になって、黙って夜道を帰った。
*
一月《ひとつき》あまり過ぎた。
梅から桜、八重桜と、園内《えんない》の春は次第に深くなった。ある朝庭を漫歩《そぞろある》きして居た彼は、
「吁《ああ》、咲《さ》いた、咲いた」
と叫んだ。其は庭の片隅《かたすみ》に、坊主《ぼうず》になる程|伐《き》られた若木《わかぎ》の塩竈桜《しおがまざくら》であった。昨年次郎さんが出京入学して程なく、次郎さんの阿爺が持って来てくれたのである。其時は満開であった。惜しい事をしたものだ、此花ざかりを移し植えて、無事につくであろうか、枯れはしまいか、と其時は危《あや》ぶんだ。果して枯枝《かれえだ》が大分出来たが、肝腎《かんじん》の命《いのち》は取りとめて、剪《き》り残されの枝にホンの十二三|輪《りん》だが、美しい花をつけたのである。彼はあらためてつく/″\と其花を眺めた。晩桜《おそざくら》と云っても、普賢《ふげん》の豊麗《ほうれい》でなく、墨染《すみぞめ》欝金《うこん》の奇を衒《てら》うでもなく、若々《わかわか》しく清々《すがすが》しい美しい一重《ひとえ》の桜である。次郎さんの魂《たましい》が花に咲いたら、取りも直さず此花が其れなのであろう。
清い、単純な、温《あたた》かな其花を見つめて居ると、次郎さんのニコ/\した地蔵顔《じぞうがお》が花心《かしん》から彼を覗《のぞ》いた様であった。
[#地から3字上げ](明治四十一年)
[#改ページ]
きぬや
明治四十三年十二月二十六日。
書院前《しょいんまえ》の野梅《やばい》に三輪の花を見つけた。年内に梅花を見るは珍《めず》らしい。霜《しも》に葉を紫《むらさき》に染《そ》めなされた黄寒菊《きかんぎく》と共に、折って小さな銅瓶《どうへい》に插《さ》す。
例年《れいねん》隣家《となり》を頼んだ餅《もち》を今年《ことし》は自家《うち》で舂《つ》くので、懇意《こんい》な車屋夫妻が臼《うす》、杵《きね》、蒸籠《せいろう》、釜《かま》まで荷車《にぐるま》に積んで来て、悉皆《すっかり》舂いてくれた。隣《となり》二軒に大威張《おおいばり》で牡丹餅《ぼたもち》をくばる。肥後流《ひごりゅう》の丸餅《まるもち》を造る。碁石《ごいし》程のおかさねは自分で拵《こさ》えて、鶴子《つるこ》女史《じょし》大得意である。
逗子《ずし》の父母から歳暮《せいぼ》に相模《さがみ》の海の鯛《たい》を薄塩《うすじお》にして送って来た。
同便《どうびん》で来た手紙はがきの中に、思いがけない報知が一つあった。二十二日にとめやのきぬやが面疔《めんちょう》で死んだ、と云う知《しら》せである。
彼女は粕谷草堂夫妻の新生涯に絡《から》んで忘れ難い恩人の一人《ひとり》である。
明治三十九年美的百姓が露西亜《ろしあ》から帰って、青山《あおやま》高樹町《たかぎちょう》に居《きょ》を定むると間《ま》もなく、ある日|銀杏返《いちょうがえ》しに白い薔薇《ばら》の花簪《はなかんざし》を插した頬《ほお》と瞼《まぶた》のぽうと紅《あか》らんだ二十前後の娘が、突然唯一人でやって来て、女中《じょちゅう》になると云う。名はとめと云って江州《ごうしゅう》彦根在《ひこねざい》の者であった。兄が東京で商売をして居るので、彼女も出京してある家に奉公中、逗子で懇意になった老人夫婦の家の女中から高樹町の家の事を聞き込み、自《みずか》ら推薦《すいせん》して案内もなく女中に来たのであった。使《つか》って見ると、少し愚《おろ》かしい点《とこ》もあるが、如何にも親切な女で、毎《いつ》も莞爾々々《にこにこ》して居る。一度泥棒が入って後、彼女は離れて独女中部屋に寝るを恐れたが、部屋に戸締《とじま》りをつけてやると、安心して寝た。その兄はシャツ、ズボン下《した》など莫大小物《めりやすもの》の卸売《おろしうり》をして居るので、彼女も少しミシンを稽古《けいこ》して置きたいと云う。承知したら、彼女は喜んで日々|弁当持参《べんとうじさん》で高樹町から有楽町《ゆうらくちょう》のミシン教場《きょうじょう》へ通ったが、教場があまり騒々《そうぞう》しくて頭がのぼせるし、加上《そのうえ》ミシン台《だい》の数が少ないので、生徒間に競争が劇《はげ》しく、ズウズウしい女達《おんなたち》が順番《じゅんばん》になった彼女を押のけてミシンを占領したりするので、彼様《あん》な処へは最早《もう》行くのは嫌《いや》でござりますと云って、到頭《とうとう》女中専門になった。
彼女が奉仕《ほうし》の天使の如く突然高樹町の家《うち》に現《あら》われてから六月目《むつきめ》に、主人夫婦は東京を引払うて田舎に移った。如何に貧乏な書生生活でも、東京で二十円の借家から六畳|二室《ふたま》の田舎《いなか》のあばら家への引越しは、人目《ひとめ》には可なりの零落《れいらく》であった。奉公人にはよい見切時《みきりどき》である。然しとめやは馴染《なじみ》もまだそれ程深くない主人夫婦を見捨てなかった。彼女は東京に居らねばならぬ身体《からだ》であったが、当分御手伝をすると云うて、風呂敷に包んだランプをかゝえて彼等に跟《つ》いて来た。
東京から引越《ひっこし》当座《とうざ》の彼等が態《ざま》は、笑止《しょうし》なものであった。昨今の知り合いの石山さんを除《のぞ》く外|知人《しりびと》とては素《もと》よりなく、何が何処にあるやら、何《ど》れを如何《どう》するものやら、何角《なにか》の様子は一切|分《わ》からず。狭《せま》いと汚穢《きたなさ》とは我慢するとしても、一《ひと》つ家《や》の寒さは猛烈《もうれつ》に彼等に肉迫《にくはく》した。二百万の人いきれで寄り合うて住む東京人は、人烟《じんえん》稀薄《きはく》な武蔵野の露骨《ろこつ》な寒さを想い見ることが出来ぬ。二月の末、三月の始、雲雀《ひばり》は鳴いて居たが、初めて田舎のあばら家《や》住居《ずまい》をする彼等は、大穴のあいた荒壁《あらかべ》、吹通しの床下《ゆかした》、建具《たてぐ》は不足し、ある建具は破《やぶ》れた此の野中の一つ家と云った様な小さな草葺《くさぶき》を目がけて日暮れ方《がた》から鉄桶《てっとう》の如く包囲《ほうい》しつゝずうと押寄《おしよ》せて来る武蔵野の寒《さむさ》を骨身《ほねみ》にしみて味《あじ》わった。風吹き通す台所《だいどこ》に切ってある小さな炉《ろ》に、木片《こっぱ》枯枝《かれえだ》何くれと燃《も》される限りをくべてあたっても、顔は火攻《ひぜめ》、背《せな》は氷攻《こおりぜ》めであった。とめやが独で甲斐々々しく駈《か》け廻った。煮焚《にたき》勿論《もちろん》、水ももろうてあるき、五丁もはなれた足場の悪い品川堀《しながわぼり》まで盥《たらい》をかゝえて洗濯に往っては腰を痛くし、それでも帰途《かえり》には蕗《ふき》の薹《とう》なぞ見つけて、摘《つ》んで来ることを忘れなかった。襷《たすき》がけのまゝ人に聞き/\近在《きんざい》を買物《かいもの》に駈け歩いて、今日《きょう》は斯様《こん》な処を歩きました、妙《みょう》な処に店《みせ》は出してない呉服屋《ごふくや》がありましたと一々報告した。彼女は忽ち近隣《きんりん》の人々と懇意《こんい》になった。墓地向うの家《うち》の久さんの子女《こども》が久さんを馬鹿にするのを見かねて、余《あんま》りでございますねと訴《うった》えた。唖の子の巳代吉《みよきち》とは殊《こと》に懇意になって、手真似《てまね》で始終《しじゅう》話して居た。唖との交渉はとめや
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