川音を聴いて居ると、陶然《とうぜん》として即身成仏《そくしんじょうぶつ》の妙境《みょうきょう》に入《い》って了う。
 夜|上利別《かみとしべつ》のマッチ製軸所《せいじくしょ》支配人|久禰田《くねだ》孫兵衛《まごべえ》君に面会。もと小学教師をした淡路《あわじ》の人、真面目な若者である。二里の余もある上利別から始終《しじゅう》関翁の話を聞きに来るそうだ。
 九月三十日。晴。雪のような朝霜。
 最早斗満を去らねばならぬ日となった。
 早朝関翁以下|駅逓《えきてい》の人々に別を告げる。斗満橋を渡って、見かえると、谷を罩《こ》むる碧《あお》い朝霧《あさぎり》の中に、関翁は此方に向い、杖《つえ》の頭《かしら》に両手を組《く》んで其上に額《ひたい》を押付《おしつ》けて居られた。
 ※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻−311−12]別で余作君に別れ、足寄駅《あしょろえき》で五郎君の勤務した郵便局を教えられ、高島駅《たかしまえき》で又一君に別れ、池田駅で旭川行《あさひかわゆき》の汽車に乗換え、帯広《おびひろ》で貢君に別れ、余等は来た時の同行三人となって了った。汽車は西へ西へと走って、日の夕暮《ゆうぐれ》に十勝《とかち》国境《こっきょう》の白茅《はくぼう》の山を石狩《いしかり》の方へと上《のぼ》った。此処の眺望《ながめ》は全国の線路に殆《ほと》んど無比である。越し方《かた》を顧《かえり》みれば、眼下《がんか》に展開する十勝の大平野《だいへいや》は、蒼茫《そうぼう》として唯|雲《くも》の如くまた海の如く、却《かえっ》て北東の方を望めば、黛色《たいしょく》の連山《れんざん》波濤《はとう》の如く起伏して居る。彼山々こそ北海道中心の大無人境を墻壁《しょうへき》の如く取囲《とりかこ》む山々である。関翁の心は彼の山々の中にあるのだ。余は窓に凭《よ》って久しく其方を眺めた。中に尤も東北の方に寄って一峯《いっぽう》特立《とくりつ》頗《すこぶる》異彩《いさい》ある山が見える。地理を案ずるに、キトウス山ではあるまいか。斗満川《とまむがわ》の水源、志ある人と共にうち越えて其山の月を東に眺めんと関翁が歌うたキトウス山ではあるまいか。関翁の心はとく彼山を越えて居る。然しながら翁も老齢《ろうれい》已に八十を越した。其身其心に随うて彼山を越ゆることが出来るや否や、疑問である。或は翁は摩西《モーゼ》の如く、遙《はるか》に迦南《カナン》を望むことを許されて、入ることを許されずに終るかも知れぬ。然し翁の心は已にキトウス山を越えて居る。而して翁が百歳の後、其精神は後の若者の体《からだ》を仮《か》って復活し、必彼山を越え、必彼大無人境を拓《ひら》くであろう。汽車はます/\国境の山を上る。尾花に残る日影《ひかげ》は消え、蒼々《そうそう》と暮れ行く空に山々の影も没して了うた。余は猶《なお》窓に凭って眺める。突然白いものが目の前に閃《ひら》めく。はっと思って見れば、老木《ろうぼく》の梢《こずえ》である。年久しく風霜《ふうそう》と闘うて皮《かわ》は大部分|剥《は》げ、葉も落ちて、老骨《ろうこつ》稜々《りょうりょう》たる大蝦夷松《おおえぞまつ》が唯一つ峰に突立《つった》って居るのであった。
 余の胸は一ぱいになった。
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君に別れ十勝の国の国境《くにざかひ》
    今|越《こ》ゆるとてふりかへり見し
かへり見《み》れば十勝は雲になりにけり
    心に響く斗満《とま》の川音《かはおと》
雲か山か夕霧《ゆふぎり》遠く隔《へだ》てにし
    翁《おきな》が上《うへ》を神《かみ》護《まも》りませ
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 斯く出たらめをはがきに書いつけ、石狩《いしかり》の鹿越駅《しかごええき》で関翁|宛《あて》に投函《とうかん》した。」

       三

 武蔵野の彼等が斗満を訪《と》うた其年の冬、関翁は最後の出京して、翌明治四十四年の四月斗満に帰った。出京中に二度|粕谷《かすや》の茅廬《ぼうろ》に遊びに来た。三月の末二度目に来た時は、他の来客や学生なぞに深呼吸の仕方などして見せ、一泊して帰った。最早今回限り東京には出て来ぬ決心という話であった。主人《あるじ》は甲州街道まで翁を送った。馬車を待って乗るから構《かま》わず帰れと翁が云うので、翁を茶店の前に残し、少し用を達《た》して戻《もど》りかけると、馬車はすれ違《ちが》いに通ったが、車中に翁の影が見えない。と見ると茶店の方から古びた茶の中折帽《なかおれぼう》をかぶって、例《れい》の癖《くせ》で下顋《したあご》を少し突出し、濡《ぬ》れ手拭を入れた護謨《ごむ》の袋《ふくろ》をぶら提《さ》げながら、例の足駄《あしだ》でぽッくり/\刻足《きざみあし》に翁が歩いて来る。此時も明治四十一年の春初めて来た時着て居た彼|無地《むじ》の木綿羽織だった。「乗れませんでしたか」「満員だった」「今車を呼んで来ます」「何、構わん、構わん」と翁が手を掉《ふ》る。然し翁の足つきは両三年前よりは余程弱って見えた。四五丁走って、懇意《こんい》の車屋を頼み、翁のあとを追いかけさせた。
 翁は斗満に帰ってから、実桜《チェリー》の苗《なえ》二本送って呉れた。其夏久しく気にかけて居た余作君の結婚が済《す》んだ事を報じてよこした。其秋の九月二十六日は雨だった。一周年前彼等が斗満に着いた其|翌日《よくじつ》も雨だった。彼はこんな出たらめを翁に書き送った。
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去年《こぞ》の今日《けふ》も斯《か》くは降《ふ》りきと秋《あき》の雨
    眺めて独君をしぞおもふ
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 程なく翁から其|雑著《ざっちょ》出版《しゅっぱん》の事を依頼して来た。此春翁と前後して北へ帰った雁《かり》がまた武蔵野の空に来《き》鳴《な》く時となった。然し春の別れの宣言の如く、翁は再び斗満を出なかった。秋から冬にかけて、翁は心身の病に衰弱甚しく、已に覚期《かくご》をした様であったが、年と共に玉《たま》の緒《お》新《あらた》に元気づき、わずかに病床を離るゝと直ぐ例の灌水《かんすい》をはじめ、例の細字《さいじ》の手紙、著書の巻首《かんしゅ》に入る可き「千代かけて」の歌を十三枚、著書を配布《はいふ》す可き二百幾名の住所姓名を一々|明細《めいさい》に書いて来た。翁にとりては此が形見《かたみ》のつもりであったのである。
「命《いのち》の洗濯《せんたく》」「命《いのち》の鍛錬《たんれん》」「旅行日記」「目ざまし草」「関牧場創業記事」「斗満《とまむ》漫吟《まんぎん》」をまとめて一|冊《さつ》とした「命の洗濯」は、明治四十五年の三月中旬東京|警醒社書店《けいせいしゃしょてん》から発行された。翁は其出版を見て聊《いささか》喜《よろこび》の言を漏《も》らしたが、五月初旬には愈《いよいよ》死を決したと見えて、逗子《ずし》なる老父の許《もと》と粕谷《かすや》の其子の許へカタミの品々を送って来た。其は翁が八十の祝《いわい》に出来た関牧場の画模様《えもよう》の服紗《ふくさ》と、命の洗濯、旅行日記、目ざまし草に一々|歌《うた》及《および》俳句《はいく》を自署《じしょ》したものであった。両家族の者残らずに宛《あ》てゝ、各別《かくべつ》に名前を書いてあった。「人並《ひとなみ》の道は通《とお》らぬ梅見かな」の句が其の中にあった。短冊《たんざく》には、
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辞世 一 諸《もろ》ともに契《ちぎ》りし事は半《なかば》にて
         斗満《とまむ》の露と消えしこの身は[#地から10字上げ]八十三老白里
辞世 二 骨も身もくだけて後ぞ心には
         永く祈らん斗満《とま》の賑《にぎはひ》[#地から10字上げ]八十三老白里
死後希望 露の身を風にまかせてそのまゝに
         落れば土と飛んでそらまで[#地から10字上げ]八十三老白里
死後希望 死出《しで》の山越えて後にぞ楽まん
         富士の高根《たかね》を目の下に見て[#地から10字上げ]八十三老白里
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と書いてあった。

           *

 七月初旬、翁の手紙が来て、余作君は斗満を去り、以前の如く医を以て立つことに決し、自身は斗満に留ることを報じた。書末《しょまつ》に左の三首の歌があった。
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  寄川恋
我恋は斗満《とまむ》の川の水の音
    夜ひるともにやむひまぞなき
  病床独吟
憂き事の年をかさねて八十三《やそみ》とせ
    尽きざる罪になほ悩《なや》みつゝ
  死後希望
身は消えて心はうつるキトウスと
    十勝石狩両たけのかひ
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翁の絶筆《ぜっぴつ》であった。

       四

 翁が晩年の十字架は、家庭に於ける父子意見の衝突であった。父は二宮流《にのみやりゅう》に与えんと欲し、子は米国風《べいこくふう》に富まんことを欲した。其《その》為《ため》関家の諍《あらそい》は、北海道中の評判となり、色々の風説をすら惹起《ひきおこ》した。翁は其為に心身の精力を消磨《しょうま》した。然し翁は自《みずか》ら信ずること篤《あつ》く、子を愛すること深く、神明《しんめい》に祈り、死を決して其子を度《ど》す可く努めた。
 最後の手紙を受取ってから四ヶ月過ぎた。武蔵野の家族が斗満《とまむ》を訪《おとず》れた其二周年が来た。雁《かり》は二たび武蔵野の空に来《き》鳴《な》いた。此四ヶ月の間には、明治天皇の崩御《ほうぎょ》、乃木翁《のぎおう》の自刃《じじん》、など強い印象を人に与うる事実が相ついだ。北の病翁《びょうおう》に如何に響《ひび》いたであろうか、と気にかゝらぬではなかったが、推移《おしうつ》って居る内に、突然翁の訃報《ふほう》が来た。
 翁は十月十五日、八十三歳の生涯を斗満なる其子の家に終えたのである。翁の臨終《りんじゅう》には、形《かたち》に於て乃木翁に近く、精神に於てトルストイ翁に近く、而して何《いず》れにもない苦しみがあった。然し今は詳《つまびらか》に説く可き場合でない。
 翁の歌に、
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遠く見て雲か山かと思ひしに
    帰ればおのが住居《すまひ》なりけり
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 遮莫《さもあらばあれ》永い年月《としつき》の行路難《こうろだん》、遮莫《さもあらばあれ》末期《まつご》十字架の苦《くるしみ》、翁は一切《いっさい》を終えて故郷《ふるさと》に帰ったのである。
[#改ページ]

     次郎桜

 朝、珍らしく角田《つのだ》の新五郎さんが来た。何事か知らぬが、もうこゝでと云うのを無理やりに座敷《ざしき》に請《しょう》じた。新五郎さんは耶蘇《やそ》信者《しんじゃ》で、まことに善良な人であるが、至って口の重い人で、疎遠《そえん》の挨拶《あいさつ》にややしばし時間を移《うつ》した。それから新五郎さんは重い口を開いて、
「実は――隣《となり》の勘五郎さんでございますが、其の――勘五郎さん処《とこ》の次郎さんが亡くなられまして――」
「エッ、次郎さんが? 次郎さんが死んだんですか」
 青山《あおやま》学院《がくいん》で最早《もう》試験前の忙《せわ》しくして居るであろうと思った次郎少年が死んだとは、嘘《うそ》の様な話だ。
 新五郎さんは、持て来た医師の診断書を見せた。急性肺炎とある。急報に接して飛んで往った次郎さんの阿爺《おとっさん》も、間《ま》に合わなかったそうである。夜にかけて釣台《つりだい》にのせて連れて来て、組合中《くみあいじゅう》の都合《つごう》で今日《きょう》葬式《そうしき》をすると云うのである。
 新五郎さんは直ぐ帰り、夫婦も直ぐあとから出かけた。
 次郎さんは、千歳村《ちとせむら》で唯五軒の耶蘇信者の其一軒に生れて、名の如く次男であった。粕谷《かすや》の夫妻が千歳村に移住《いじゅう》した其春、好成績《こうせいせき》で小学校を卒業し、阿爺は師範《しはん》学校《がっこう》にでも入れようかと云って居たのを、勧《すす》めて青山学院に入れた。学資不足なので、彼
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