思いかけぬ豪興《ごうきょう》である。弾手《ひきて》は林学士《りんがくし》が部下の塩田君《しおだくん》、鹿児島《かごしま》の壮士《そうし》。何をと問われて、取りあえず「城山《しろやま》」を所望《しょもう》する。今日《きょう》は九月二十七日、城山|没落《ぼつらく》は三十三年前の再昨日《さいさくじつ》であった。塩田君はやおら琵琶を抱《かか》え、眼を半眼《はんがん》に開いて、咳《がい》一咳。外は天幕総出で立聞く気はい。「夫《そ》れ――達人《たつじん》は――」声はいさゝか震《ふる》えて響きはじめた。余は瞑目《めいもく》して耳をすます。「大隅山《おおすみやま》の狩《かり》くらにィ――真如《しんにょ》の月《つき》の――」弾手は蕭々《しょうしょう》と歌いすゝむ。「何を怒《いか》るや怒《いか》り猪《い》の――俄《にわか》に激《げき》する数千|騎《き》」突如《とつじょ》として山|崩《くず》れ落つ鵯越《ひよどりごえ》の逆落《さかおと》し、四絃《しげん》を奔《はし》る撥音《ばちおと》急雨《きゅうう》の如く、呀《あっ》と思う間もなく身は悲壮《ひそう》渦中《かちゅう》に捲《ま》きこまれた。時は涼秋《りょうしゅう》九|月《げつ》、処は北海山中の無人境、篝火《かがりび》を焚く霜夜の天幕、幕《まく》の外《そと》には立聴くアイヌ、幕の内には隼人《はやと》の薩摩《さつま》壮士《おのこ》が神来《しんらい》の興《きょう》まさに旺《おう》して、歌|断《た》ゆる時四絃続き、絃黙《げんもく》す時|声《こえ》謡《うた》い、果ては声音《せいおん》一斉《いっせい》に軒昂《けんこう》嗚咽《おえつ》して、加之《しかも》始終《しじゅう》斗満川《とまむがわ》の伴奏《ばんそう》。手を膝《ひざ》に眼を閉《と》じて聴く八十一の翁《おきな》をはじめ、皆我を忘れて、「戎衣《よろい》の袖《そで》をぬらし添《そ》うらん」と結びの一句|低《ひく》く咽《むせ》んで、四絃一|撥《ばつ》蕭然《しょうぜん》として曲《きょく》終るまで、息もつかなかった。讃辞《さんじ》謝辞《しゃじ》口を衝《つ》いて出る。天幕の外もさゞめいた。興《きょう》未だ尽きぬので、今一つ「墨絵《すみえ》」の曲を所望する。終って此|興趣《きょうしゅ》多い一日の記念に、手帳を出して関翁以下諸君の署名を求める。
それから話聞くべくアイヌを呼んでもらう。御召《おめし》につれて髭顔《ひげがお》二つランプの光に現《あら》われ、天幕の入口に蹲踞《そんこ》した。若い方は、先刻《さっき》山鳥五羽うって来た白手《しらで》留吉《とめきち》、漢字で立派に名がかけて、話も自由自在なハイカラである。一人は、胡麻塩髯《ごましおひげ》胸に垂《た》るゝ魁偉《おおき》なアイヌ、名は小川《おがわ》ヤイコク、これはあまり口が利《き》けぬ。アイヌの信仰《しんこう》、葬式《そうしき》の事、二三|風習《ふうしゅう》の質問などして、最後に、日本人《シャモ》に不満な点はと問うたら、ヤイコクは重い口から「日本人《シャモ》のゴロツクがイヤだ」と吐《は》き出す様に云った。ゴロツクは脅迫《きょうはく》の意味そうな。乳呑子《ちのみご》連れた女《メノコ》が来て居ると云うので、二人と入れ代りに来てもらう。眼に凄味《すごみ》があるばかり、例《れい》の刺青《いれずみ》もして居らず、毛繻子《けじゅす》の襟《えり》がかゝった滝縞《たきじま》の綿入《わたいれ》なぞ着て居る。名もお花さんと云うそうだ。妻が少し語を交《まじ》えて、何もないので紫《むらさき》メレンスの風呂敷《ふろしき》をやった。
惜しい夜も更《ふ》けた。手を浄《きよ》めに出て見ると、樺の焚火《たきび》は燃《も》え下《さが》って、ほの白い煙《けむり》を※[#「風+昜」、第3水準1−94−7]《あ》げ、真黒な立木《たちき》の上には霜夜の星|爛々《らんらん》と光って居る。何処《どこ》かの天幕でぱっと火光《あかり》がさして、黒い人影が出て来たが、直ぐ入って了《しま》った。川音が颯々《さあさあ》と嵐の様に響《ひび》く。持て来た毛布までかさねて、関翁と余等三人、川音を聞き/\趣《おもむき》深い天幕の夢を結んだ。
九月二十八日。微雨。
関翁は起きぬけに川に灌水《かんすい》に行《ゆ》かれた。
朝飯後、天幕の諸君に別れて帰路に就《つ》く。成程《なるほど》ニオトマムは山静に水清く、関翁が斗満《とまむ》を去って此処に住みたく思うて居らるゝも尤である。然し余等は無人境のホンの入口まで来たばかり、せめてキトウス山見ゆるあたりまで行かずに此まゝ帰って了うのは、甚|遺憾《のこり》多かった。
帰路《きろ》余は少し一行に後《おく》れて、林中《りんちゅう》にサビタのステッキを伐《き》った。足音がするのでふっと見ると、向《むこ》うの径《こみち》をアイヌが三人歩いて来る。真先《まっさき》が彼《かの》留吉《とめきち》、中にお花さんが甲斐※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]《かいかい》しく子を負《お》って、最後に彼ヤイコクがアツシを着《き》、藤蔓《ふじづる》で編《あ》んだ沓《くつ》を穿《は》き、マキリを佩《は》いて、大股《おおまた》に歩いて来る。余は木蔭から瞬《またた》きもせず其|行進《マアチ》を眺めた。秋|寂《さ》びた深林《しんりん》の背景《はいけい》に、何と云う好調和《こうちょうわ》であろう。彼等アイヌは亡《ほろ》び行く種族《しゅぞく》と看做《みな》されて居る。然し此|森林《しんりん》に於て、彼等は正《まさ》に主《あるじ》である。眼鏡《めがね》やリボンの我等は畢竟《ひっきょう》新参《しんざん》の侵入者《しんにゅうしゃ》に過ぎぬ。余は殊《こと》に彼ヤイコクが五束《いつつか》もある鬚髯《しゅぜん》蓬々《ぼうぼう》として胸《むね》に垂《た》れ、素盞雄尊《すさのおのみこと》を見る様な六尺ゆたかな堂々《どうどう》雄偉《ゆうい》の骨格《こっかく》と悲壮《ひそう》沈欝《ちんうつ》な其|眼光《まなざし》を熟視《じゅくし》した時、優勝者と名のある掠奪者《りゃくだつしゃ》が大なる敗者《はいしゃ》に対して感ずる一種の恐怖を感ぜざるを得なかった。関翁が曾て云われた、山中で山葡萄《やまぶどう》などちぎると猿《さる》に対して気の毒に思う、と。本当だ。山葡萄をちぎっては猿に気の毒、コクワを採《と》っては熊に気の毒、深林を開いてはアイヌに気の毒なのも、自然である。そこで余は思った、熊|一変《いっぺん》せばアイヌに到らん、アイヌ一変せば日本人《シャモ》に到らん、日本人《シャモ》一変せば悪魔に到らん。余はアイヌを好む。尤も熊を好む。
天幕を出る時ぽと/\落ちて居た雨は止《や》み、傘《かさ》を翳《さ》す程にもなかった。炭焼君《すみやきくん》の家で昼の握飯《にぎりめし》を食って、放牧場《ほうぼくじょう》の端《はし》から二たび斗満|上流《じょうりゅう》の山谷《さんこく》を回顧し、ニケウルルバクシナイに来ると、妻は鶴子を抱《だ》いて駄馬《だば》に乗った。貢君《みつぎくん》が口綱《くちづな》をとって行く。後から仔馬《こうま》がひょこ/\跟《つ》いて行く。時々道草を食って後《おく》れては、遽《あわ》てゝ駈《か》け出し追《おっ》ついて母馬《はは》の横腹《よこはら》に頭《あたま》をすりつける様にして行く。関翁と余と其あとから此さまを眺めつゝ行く。斯くて午後二時|駅逓《えきてい》に帰った。
関翁は過日来|足痛《そくつう》で頗《すこぶる》行歩《ぎょうぶ》に悩《なや》んで居られると云うことをあとで聞いた。それに少しも其様な容子《ようす》も見せず、若い者|並《なみ》に四里の往復は全く恐れ入った。
此夕|台所《だいどこ》で大きな甘藍《きゃべつ》を秤《はかり》にかける。二貫六百目。肥料もやらず、移植《いしょく》もせぬのだから驚く。関翁が家の馳走《ちそう》で、甘藍の漬物《つけもの》に五升藷《ごしょういも》(馬鈴薯《じゃがいも》)の味噌汁《みそしる》は特色である。斗満で食った土のものゝ内、甘藍、枝豆《えだまめ》、玉蜀黍《とうもろこし》、馬鈴薯、南瓜《とうなす》、蕎麦《そば》、大根《だいこ》、黍《きび》の餅《もち》、何れも中々味が好い。唯|真桑瓜《まくわうり》は甘味が足らぬ。
九月二十九日。晴。
今日は余等三人余作君及貢君の案内で、放牧場の農家を見に出かける。阪を上って放牧場の埒外《らちそと》を南へ下り、ニタトロマップの細流《さいりゅう》を渡り、斗満殖民地入口と筆太《ふでぶと》に書いた棒杭《ぼうぐい》を右に見て、上利別《かみとしべつ》原野《げんや》に来た。野中《のなか》、丘《おか》の根《ね》に、ぽつり/\小屋が見える。先ず鉄道線路を踏切って、伏古古潭《ふしここたん》の教授所を見る。代用小学校である。型《かた》の如き草葺《くさぶき》の小屋、子供は最早帰って、田村《たむら》恰人《まさと》と云う五十余の先生が一人居た。それから歩を返えして、利別《としべつ》川辺《かわべ》に模範《もはん》農夫《のうふ》の宮崎君を訪う。矢張草葺だが、さすがに家内何処となく潤《うるお》うて、屋根裏には一ぱい玉蜀黍をつり、土間には寒中|蔬菜《そさい》を囲《かこ》う窖《あなぐら》を設け、農具《のうぐ》漁具《ぎょぐ》雪中用具《せっちゅうようぐ》それ/″\掛《か》け列《なら》べて、横手《よこて》の馬小屋には馬が高く嘶《いなな》いて居る。苦《にが》い茶《ちゃ》を点《い》れて、森永《もりなが》のドロップスなど出してくれた。余等は注文《ちゅうもん》してもぎ立ての玉蜀黍を炉《ろ》の火で焼いてもらう。主《あるじ》は岡山県人、四十余の細作《ほそづく》りな男、余作君に過日《こないだ》の薬《くすり》は強過ぎ云々と云って居た。宮崎君夫婦はもともと一文無《いちもんな》しで渡道《とどう》し、関家に奉公中|貯蓄《ちょちく》した四十円を資本とし、拓《ひら》き分《わ》けの約束で数年前此原野を開墾《かいこん》しはじめ、今は十町歩も拓いて居る。今年は豆類其他で千円も収入《みいり》があろうと云うことであった。細君の阿爺《ちゃん》が遙々《はるばる》讃岐《さぬき》から遊びに来て居る。宮崎君の案内で畑を見る。裏には真桑瓜《まくわうり》が蔓《つる》の上に沢山ころがり、段落《だんお》ちの畑には土が見えぬ程玉蜀黍が茂り、大豆《だいず》は畝《うね》から畝に莢《さや》をつらねて、試《こころみ》に其一個を剖《さ》いて見ると、豆粒《つぶ》の肥大《ひだい》実に眼を驚かすものがある。他の一二の小屋は訪わず、玉蜀黍を喰《く》い喰い帰る。北海道の玉蜀黍は実に甘《うま》い。先年皇太子殿下(今上《きんじょう》陛下《へいか》)が釧路《くしろ》で玉蜀黍を召《め》してそれから天皇陛下へおみやげに玉蜀黍を上げられたも尤《もっとも》である。
午後は又一君の案内で、アイヌの古城址《こじょうし》なるチャシコツを見る。※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻−310−15]別川《りくんべつがわ》に臨んだちょっとした要害《ようがい》の地、川の方は断崖《だんがい》になり、後《うしろ》はザッとしたものながら、塹濠《ざんごう》をめぐらしてある。此処から見ると※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻−310−17]別は一目だ。関翁は此坂の上に小祠《しょうし》を建《た》てゝ斃死《へいし》した牛馬の霊《れい》を祭《まつ》るつもりで居る。
夕方三人で又一君宅の風呂《ふろ》をもらいに行く。実は過日来|往返《おうへん》の毎《たび》に斗満橋《とまむばし》の上から見て羨《うらや》ましく思って居たのだ。風呂は直ぐ川端《かわばた》で、露天《ろてん》に据《す》えてある。水に強いと云う桂《かつら》の径《わたり》二尺余の刳《く》りぬき、鉄板《てっぱん》を底《そこ》に鋪《し》き、其上に踏板《ふみいた》を渡したもので、こんな簡易《かんい》な贅沢《ぜいたく》な風呂には、北海道でなければ滅多《めった》に入られぬ。秋の日落ち谷|蒼々《そうそう》と暮るゝ夕《ゆうべ》、玉の様な川水を沸《わか》した湯に頸《くび》まで浸《ひた》って、直ぐ傍《そば》を流るる
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