《そこ》にある。創業から創業に移る理想家の翁にとって、汽車が開通した※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻−301−16]別なんぞは最早《もう》久恋《きゅうれん》の地では無い。其身斗満の下流に住みながら、翁の雄心《ゆうしん》はとくの昔キトウスの山を西に越えて、開闢《かいびゃく》以来人間を知らぬ原始的大寂寞境の征服に駛《は》せて居る。共に眺めんキトウスの月、翁は久しくキトウスの月を共に眺むる人を求めて居る。若い者さえ見ると、胸中《きょうちゅう》の秘《ひ》をほのめかす。此日放牧場の西端に立って遙に斗満《とまむ》上流の山谷《さんこく》を望んだ時、余は翁が心絃《しんげん》の震《ふる》えを切《せつ》ないほど吾|心《むね》に感じた。
 鉄線《はりがね》を潜《くぐ》って放牧場を出て、谷に下りた。関牧場はこれから北へ寄るので、此れからニオトマムまでは牧場外を通るのである。善良な顔をした四十余の男と、十四五の男児《むすこ》と各|裸馬《はだかうま》に乗って来た。関翁が声をかける。路作りかた/″\※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻−302−7]別《りくんべつ》まで買物に行くと云う。三年前入込んだ炭焼《すみやき》をする人そうな。やがて小さな流れに沿《そ》う熊笹葺《くまざさぶ》きの家に来た。炭焼君の家である。白樺《しらかば》の皮を壁《かべ》にした殖民地式の小屋だが、内は可なり濶《ひろ》くて、畳《たたみ》を敷き、奥に箪笥《たんす》柳行李《やなぎごうり》など列《なら》べてある。妻君《かみさん》も善《よ》い顔をして居る。囲炉裏側《いろりばた》に腰かけて渋茶《しぶちゃ》の馳走《ちそう》になって居ると、天幕から迎いの人夫が来た。
 茶を飲みながらふと見ると、壁の貼紙《はりがみ》に、彼岸会《ひがんえ》説教《せっきょう》、斗満寺《とまむじ》と書いてある。斗満寺! 此処《ここ》に其様《そん》なお寺があるのか。えゝありますと云う。折りからさきに馬に乗ってた子の弟が二人、本を抱《かか》えて其お寺から帰って来たので、早速案内を頼む。白樺の林の中を五六丁行くと、所謂《いわゆる》お寺に来た。此はまた思い切って小さな粗造《そぞう》な熊笹葺き、手際悪《てぎわわる》く張った壁の白樺|赤樺《あかかば》の皮は反《そ》っくりかえって居る。関翁を先頭《せんとう》にどや/\入ると、形《かた》ばかりの床《ゆか》に荒莚《あらむしろ》を敷いて、汚《よご》れた莫大小《めりやす》のシャツ一つ着《き》た二十四五の毬栗頭《いがぐりあたま》の坊さんが、ちょこなんと座《すわ》って居る。後《うしろ》に、細君であろ、十八九の引《ひっ》つめに結《ゆ》って筒袖《つつそで》の娘々《むすめむすめ》した婦人が居る。土間には、西洋種の瓢形《ふくべがた》南瓜《かぼちゃ》や、馬鈴薯《じゃがいも》を堆《うずたか》く積んである。奥の壁つきには六字|名号《みょうごう》の幅《ふく》をかけ、御燈明《おとうみょう》の光ちら/\、真鍮《しんちゅう》の金具《かなぐ》がほのかに光って居る。妙《みょう》に胸《むね》が迫《せま》って来た。紙片《しへん》と鉛筆を出して姓名を請うたら、斗満大谷派説教場創立係|世並《よなみ》信常《しんじょう》、と書いてくれた。朝露の間《ま》は子供に書《ほん》を教え、それから日々夫婦で労働して居るそうだ。御骨も折れようが御辛抱《ごしんぼう》なさい、急いで立派な寺なぞ建てないで、と云って別《わかれ》を告げる。戸外《そと》に紫の蝦夷菊《えぞぎく》が咲いて居た。あとで聞けば、坊さんは越後者《えちごもの》なる炭焼小屋の主人《あるじ》が招いたので、去年も五十円から出したそうだ。檀家《だんか》一軒のお寺もゆかしいものである。
 樺林《かばばやし》を拓《ひら》いて、また一軒、熊笹と玉蜀黍《とうもろこし》の稈《から》で葺《ふ》いた小舎《こや》がある。あたりには樺《かば》を伐《き》ったり焼いたりして、黍《きび》など作ってある。関翁が大声で、「婆サン如何《どう》したかい、何故《なぜ》薬取りに来ない?」と怒鳴《どな》る。爺《じい》さんが出て来て挨拶する。婆さんは留守だった。十一二の男児《むすこ》が出て来る。翁は其肩をたゝき顔を覗《のぞ》き込むようにして「如何《どう》だ、関《せき》の爺《じい》を識《し》ってるか。ウム、識ってるか」子供がにこ/\笑う。路は樺林をぬけて原に出る。霜枯れた草原に、野生《やせい》松葉独活《アスパラガス》の実《み》が紅玉を鏤《ちりば》めて居る。不図白木の鳥居《とりい》が眼についた。見れば、子供が抱《かか》えて行って了《しま》いそうな小さな荒削《あらけず》りの祠《ほこら》が枯草の中に立って居る。誰が何時《いつ》来て建てたのか。誰が何時来て拝《おが》むのか。西行《さいぎょう》ならばたしかに歌よむであろ。歌も句もなく原を過ぎて、崖《がけ》の下、小さな流《ながれ》に沿《そ》うてまた一つ小屋がある。これが斗満|最奥《さいおく》の人家《じんか》で、駅逓《えきてい》から此処《ここ》まで二里。最後の人家を過ぎてしばらく行く程に、イタヤの老樹《ろうじゅ》が一株、大分|紅葉《もみじ》した枝を、振《ふり》面白くさし伸《の》べて居る小高い丘《おか》に来た。少し早いが此処で昼食《ちゅうじき》とする。人夫が蕗《ふき》の葉や蓬《よもぎ》、熊笹《くまざさ》引かゞってイタヤの蔭《かげ》に敷いてくれたので、関翁、余等夫妻、鶴子も新之助君の背《せなか》から下りて、一同草の上に足投げ出し、梅干《うめぼし》菜《さい》で握飯《にぎりめし》を食う。流れは見えぬが、斗満《とまむ》の川音《かわおと》は耳|爽《さわやか》に、川向うに当る牧場内《ぼくじょうない》の雑木山は、午《ご》の日をうけて、黄に紅に緑に燃《も》えて居る。やがてこゝを立って小さな渓流《けいりゅう》を渡る時、一同石に跪《ひざまず》いて清水《しみず》をむすぶ。
 最早《もう》人気《ひとけ》は全く絶えて、近くなる時斗満の川音を聞くばかり。鷹《たか》の羽《は》なぞ落ちて居る。径《みち》は稀《まれ》に渓流を横ぎり、多く雑木林《ぞうきばやし》を穿《うが》ち、時にじめ/\した湿地《ヤチ》を渉る。先日来の雨で、処々に水溜《みずたまり》が出来て居るが、天幕《てんと》の人達が熊笹を敷き、丸木《まるき》を渡《わた》しなぞして置いて呉れたので、大に助かる。関翁は始終《しじゅう》一行《いっこう》の殿《しんがり》として、股引《ももひき》草鞋《わらじ》尻《しり》引《ひき》からげて杖《つえ》をお伴《とも》にてく/\やって来る。足場の悪い所なぞ、思わず見かえると、後《あと》見るな/\と手をふって、一本橋にも人手を仮《か》らず、堅固《けんご》に歩いて来る。斯くて四里を歩《あゆ》んで、午後の一時|渓声《けいせい》響く処に鼠色《ねずみいろ》の天幕《てんまく》が見えた。林君以下きながしのくつろいだ姿で迎える。
 斗満川辺の少しばかりの平地を拓《ひら》いて、天幕が大小六つ張ってある。アイヌの小屋も一つある。林《はやし》林学士を統領《とうりょう》として、属員《ぞくいん》人夫《にんぷ》アイヌ約二十人、此春以来|此処《ここ》を本陣《ほんじん》として、北見界《きたみざかい》かけ官有|針葉樹林《しんようじゅりん》の調査をやって居るのである。別天地の小生涯《しょうせいがい》、川辺《かわべ》に風呂《ふろ》、炊事場《すいじば》を設け、林の蔭に便所をしつらい、麻縄《あさなわ》を張って洗濯物を乾《ほ》し、少しの空地《あきち》には青菜《あおな》まで出来て居る。
 茶の後、直ぐ川を渡って針葉樹林の生態《せいたい》を見に行く。濶《はば》五|間《けん》程の急流に、楢《なら》の大木が倒れて自然に橋をなして居る。幹を踏み、梢《こずえ》を踏み、終に枝を踏む軽業《かるわざ》、幸に関翁も妻も事なく渡った。水際《みぎわ》の雑木林に入ると、「あゝ誰れか盗伐《とうばつ》をやったな」と林学士が云う。胡桃《くるみ》が伐《き》ってある。木の名など頻に聞きつゝ、針葉樹林に入る。此林特有の冷気がすうと身を包《つつ》む。蝦夷松《えぞまつ》や椴松《とどまつ》、昔此辺の帝王《ていおう》であったろうと思わるゝ大木|倒《たお》れて朽ち、朽ちた其木の屍《かばね》から実生《みしょう》の若木《わかぎ》が矗々《すくすく》と伸びて、若木其ものが径《けい》一尺に余《あま》るのがある。サルオガセがぶら下ったり、山葡萄《やまぶどう》が絡《から》んだり、其《それ》自身《じしん》針葉樹林の小模型《しょうもけい》とも見らるゝ、緑《りょく》、褐《かつ》、紫《し》、黄《おう》、さま/″\の蘚苔《こけ》をふわりと纏《まと》うて居るのもある。其間をトマムの剰水《あまり》が盆景《ぼんけい》の千松島《ちまつしま》と云った様な緑苔《こけ》の塊《かたまり》を※[#「さんずい+回」、第3水準1−86−65]《めぐ》って、流るゝとはなく唯|硝子《がらす》を張った様に光って居る。やがて麓《ふもと》に来た。見上ぐれば、蝦夷松椴松|峯《みね》へ峰《みね》へと弥《いや》が上に立ち重なって、日の目も漏《も》れぬ。此辺はもう関《せき》牧場《ぼくじょう》の西端になっていて、林《りん》は直ちに針葉樹の大官林につゞいて居るそうだ。此永劫の薄明《うすあかり》の一端に佇《たたず》んで、果なくつゞく此深林の奥の奥を想う。林学士は斯く云うた、北見、釧路、十勝に跨《またが》る針葉樹の処女林《しょじょりん》には、アイヌを連れた技師技手すら、踏み迷うて途方《とほう》に暮るゝことがある、其様《そん》な時には峰を攀《よ》じ、峰に秀《ひい》ずる蝦夷松椴松の百尺もある梢に猿《ましら》の如く攀じ上《のぼ》り、展望して方向をきめるのです、と。突然|銃声《じゅうせい》が響いた。唯一発――あとはまた森《しん》となる。日光恋しくなったので、ここから引返えし、林の出口でサビタの杖など伐《き》ってもらって、天幕に帰る。
 勝手元《かってもと》は御馳走《ごちそう》の仕度《したく》だ。人夫が採《と》って来た茶盆大《ちゃぼんだい》の舞茸《まいたけ》は、小山の如く莚《むしろ》に積《つ》まれて居る。やがて銃を負《お》うてアイヌが帰って来た。腰には山鳥《やまどり》を五羽ぶら下げて居る。また一人|川下《かわしも》の方から釣棹《つりざお》肩に帰って来た。※[#「魚+完」、第4水準2−93−48]《やまべ》釣りに往ったのだ。やがてまた一人銃を負うて帰った。人夫が立迎えて、「何だ、唯《たった》一羽か」と云う。此も山鳥。先刻《さっき》聞いた銃声《じゅうせい》の果《はて》なのであろう。火を焚《た》く、味噌《みそ》を摺《す》る、魚鳥《ぎょちょう》を料理する、男世帯《おとこじょたい》の目つらを抓《つか》む勝手元の忙しさを傍目《よそめ》に、関翁はじめ余等一同、かわる/″\川畔《かわばた》に往って風呂の馳走《ちそう》になる。荒削《あらけず》りの板を切り組んだ風呂で、今日は特に女客《おんなきゃく》の為め、天幕《てんまく》のきれを屏風《びょうぶ》がわりに垂《た》れてある。好い気もちになって上ると、秋の日は暮れた。天幕にはつりランプがつく。外は樺《かば》の篝火《かがり》が真昼《まひる》の様に明るい。余等の天幕の前では、地上にかん/\炭火《すみび》を熾《おこ》して、ブツ/\切りにした山鳥や、尾頭《おかしら》つきの※[#「魚+完」、第4水準2−93−48]《やまべ》を醤油《したじ》に浸《ひた》しジュウ/\炙《あぶ》っては持て来《き》、炙っては持て来る。煮たのも来る。舞茸《まいたけ》の味噌汁《みそしる》が来る。焚き立ての熱飯《あつめし》に、此山水の珍味《ちんみ》を添《そ》えて、関翁以下当年五歳の鶴子まで、健啖《けんたん》思わず数碗《すうわん》を重《かさ》ねる。
 日はもうとっぷり暮れて、斗満《とまむ》の川音が高くなった。幕外《そと》は耳もきれそうな霜夜《しもよ》だが、帳内《ちょうない》は火があるので汗ばむ程の温気《おんき》。天幕の諸君は尚《なお》も馳走に薩摩《さつま》琵琶《びわ》を持出した。十勝の山奥に来て薩摩琵琶とは、
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