婆ァ婆ァと呼ぶ頬《ほお》の殺《そ》げたきかぬ気らしい細君は、モンペ袴《はかま》をはいて甲斐※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]しく流しもとに立働いて居ると、隅の方にはよく兎を捕ると云う大きな猫の夫婦が箱の中に共寝して居る。話上手の片山君から創業時代の面白い話を沢山に聞く。※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻−296−11]別《りくんべつ》は古来鹿の集る所で、アイヌ等が鹿を捕るに、係蹄《わな》にかゝった瘠せたのは追放し、肥大なやつばかり撰取りにして居たそうだ。鮭《さけ》、鱒《ます》、※[#「魚+完」、第4水準2−93−48]《やまべ》なぞは持ちきれぬ程釣れて、草原にうっちゃって来ることもあり、銃を知らぬ山鳥はうてば落ちうてば落ちして、うまいものゝ例《ためし》にもなる山鳥の塩焼にも※[#「厭/食」、第4水準2−92−73]《あ》いて了まった。たゞ小虫の多いは言語道断で、蛇なぞは人を避《さ》くることを知らず、追われても平気にのたくって居たそうな。寒い話では、鍬の刃先《はさき》にはさまった豆粒《まめつぶ》を噛みに来た鼠の舌が鍬に氷りついたまゝ死に、鼠を提《さ》げると重たい開墾《かいこん》鍬《ぐわ》がぶらり下ってもはなれなかった話。哀れな話では、十勝から生活のたつきを求めて北見に越ゆる子もちの女が、食物に困って山道に捨子した話。寂しい話では、片山夫人が良人《おっと》の留守中犬を相手に四十日も雪中斗満の一つ家に暮らし、四十日間に見た人間の顔とては唯アイヌが一人通りかゝりに寄ったと云う話。不便な話では、牧場は釧路十勝に跨るので、斗満から十勝の中川郡|本別村《ほんべつむら》の役場までの十余里はまだ可《いい》として、釧路の白糠《しらぬか》村役場までは足寄を経て近道の山越えしても中途露宿して二十五里、はがき一枚の差紙《さしがみ》が来てものこ/\出かけて行かねばならなかった話。珍《ちん》な話ではつい其処の斗満川原で、鶺鴒《せきれい》が鷹の子育てた話。話から話と聞いて居ると、片山君夫婦が妬《ねた》ましくなった。片山君も十年精勤の報酬の一部として、牧場内の土地四十余町歩を分与され、これから関家を辞して自家生活の経理にかゝるのであるが、過去十年関家に尽した創業の労苦の中に得た程の楽は、中々再びし難いかも知れぬ。
 九月廿六日。霽《はれ》。
 翁の縁戚の青年君塚貢君の案内で、親子三人|※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻−297−11]別《りくんべつ》の方に行って見る。斗満橋を渡ると、街道の北側に葭葺の草舎が一棟。明治三十五年創業の際建てた小屋だ、と貢君説明する。今は多少の修補をして、又一君と其縁戚の一少年とが住んで居る。直ぐ其側に二十坪程の木羽葺《こっぱぶき》の此山中にしては頗立派なまだ真新しい家が、戸をしめたまゝになって居る。此は関翁の為に建てられた隠宅だが、隠居嫌の翁は其を見向きもせずして寧駅逓に住み、台所の板敷にストーブを囲んで一同と黍飯《きびめし》を食って居るのである。道をはさんで、粗造な牛舎や馬舎が幾棟、其処らには割薪《わりまき》が山のように積んである。此辺は蕨《わらび》を下草にした楢《なら》の小山を北に負うて暖かな南向き、斗満の清流直ぐ傍《そば》を流れ、創業者の住居に選びそうな場所である。山角《やまはな》をめぐって少し往くと、山際《やまぎわ》に草葺のあばら舎《や》がある。片山君等が最初に建てた小舎だが、便利のわるい為め見すてゝ川側《かわはた》に移ったそうな。何時の間にか※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻−298−3]別橋に来た。先夜は可なりあるように思ったが、駅逓《えきてい》から十丁には過ぎぬ。聞けば、関牧場は西の方ニオトマムの辺から起って、斗満の谷を川と東へ下り、※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻−298−4]別川クンボベツ川斗満川の相会する※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻−298−5]別谷《りくんべつだに》を東のトマリとして南に折れ、三川合して名をあらためて利別川《としべつがわ》の谷を下って上利別原野の一部に及び、云わば一大《いちだい》鎌状《かまなり》をなして、東西四里、南北一里余、三千余町歩、※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻−298−7]別停車場及※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻−298−7]別市街も其内にある。鉄道院では、池田駅高島駅等附近の農牧場所有者の姓氏を駅の名に附する先例により、今の停車場も関と命名すべく内意を示したが、関翁が辞して※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻−298−8]別駅《りくんべつえき》となったそうな。市街は見ず、橋から引返えす。帰路斗満橋上に立って、やゝ久しく水の流を眺める。此あたり川幅《かわはば》六七間もあろうか。※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻−298−10]別橋から瞰《なが》むる※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻−298−10]別川の川床荒れて水の濁れるに引易《ひきか》え、斗満川の水の清さ。一個々玉を欺《あざむ》く礫《こいし》の上を琴の相の手弾く様な音立てゝ、金糸と閃めく日影《ひかげ》紊《みだ》して駛《はし》り行く水の清さは、まさしく溶けて流るゝ水晶である。「千代かけてそゝぎ清めん我心、斗満《とまむ》の水のあらん限りは」と翁の歌が出来たも尤である。貢君の話によれば、斗満川の水温は※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻−298−14]別川の其れより三四度も低いそうな。人跡到らぬキトウス山の陰から来るのだ。然《さ》もあろう。今こそ駅逓には冬も氷らぬ清水《しみず》が山から引かれてあるが、まだ其等の設備もなかった頃、翁の灌水は夏はもとより冬も此斗満川でやったのだ。此斗満の清流が数尺の厚さに氷結した冬の暁、爛々たる曙の明星の光を踏んで、浴衣《ゆかた》一枚草履ばきで此川辺に下り立ち、斧《おの》で氷を打割って真裸に飛び込んだ老翁の姿を想い見ると、畏敬の情は自然に起る。
 駅逓に帰って、道庁技師林常夫君に面会。駒場《こまば》出《で》の壮年の林学士。目下ニオトマムに天幕《てんまく》を張って居る。明日関翁と天幕訪問の約束をする。
 昨夕来泊した若年《じゃくねん》の測量技手星正一君にも面会。星君が連れた若い人夫が、食饌のあと片付、掃除、何くれとまめ/\しく立働くを、翁は喜ばしげに見やって、声をかけ、感心だと賞《ほ》める。
 午後は親子三人、此度は街道を西南に坂を半上って、牧場の埒内《らちない》に入る。東向きの山腹、三囲《みかかえ》四囲《よかかえ》もある楢《なら》の大木が、幾株も黄葉の枝を張って、其根もとに清水が湧《わ》いたりして居る。馬牛の群の中を牛糞を避《よ》け、馬糞を跨《また》ぎ、牛馬舎の前を通って、斗満川に出た。少し川辺に立って居ると、小虫が黒糠《くろぬか》の様にたかる。関翁が牧場記事の一節も頷《うなず》かれる。左程大くはないと云っても長《たけ》六尺はある蕗《ふき》や、三尺も伸びた蓬《よもぎ》、自然生の松葉独活《アスパラガス》、馬の尾について殖《ふ》えると云う山牛蒡、反魂香と云う七つ葉なぞが茂って居る川沿いの径《こみち》を通って、斗満橋の袂《たもと》に出た。一坪程の小さな草舎《くさや》がある。屋後《うしろ》には熊の髑髏《あたま》の白くなったのや、まだ比較的|生《なま》しいのを突き刺《さ》した棹《さお》、熊送りに用うるアイヌの幣束イナホなどが十数本、立ったり倒れたりして居る。此は関家で熊狩《くまがり》に雇《やと》って置くアイヌのイコサックルが小屋で、主は久しく留守なのである。覗《のぞい》て見ると、小屋の中は薄暗く、着物の様なものが片隅に置いてある。昔は置きっぱなしで盗まるゝと云う様な事はなかったが、近来人が入り込むので、何時かも大切の鉄砲を盗まれたそうだ。(イコサックルは何を悲観したのか、大正元年の夏多くの熊を射た其鉄砲で自殺した。)
 駅逓にはいる時、大勢の足音がする。見れば、巨鋸《おおのこ》や嚢を背負い薬鑵を提《さ》げた男女が、幾組も/\西へ通る。三井の伐木隊《ばつぼくたい》である。富源の開発も結構だが、楢《なら》の木《き》はオークの代用に輸出され、エゾ松トヾ松は紙にされ、胡桃《くるみ》は銃床に、ドロはマッチの軸木《じくぎ》になり、樹木の豊富を誇る北海道の山も今に裸になりはせぬかと、余は一種|猜忌《さいき》の眼を以て彼等を見送った。
 夕方台所が賑やかなので、出て見る。真白に塗った法界屋《ほうかいや》の家族五六人、茶袋を手土産に、片山夫人と頻に挨拶に及んで居る。やがて月琴《げっきん》を弾いて盛《さかん》に踊《おど》った。
 夕食に鮪《まぐろ》の刺身《さしみ》がつく。十年ぶりに海魚《うみざかな》の刺身を食う、と片山さんが嘆息する。汽車の御馳走だ。
 要するに斗満も開けたのである。
 九月二十七日。美晴。
 今日は斗満の上流ニオトマムに林学士《りんがくし》の天幕《てんと》を訪《と》う日である。朝の七時関翁、余等夫妻、草鞋ばきで出掛ける。鶴子は新之助君が負《おぶ》ってくれる。貢君は余等の毛布や、関翁から天幕へみやげ物の南瓜《とうなす》、真桑瓜《まくわうり》、玉蜀黍《とうもろこし》、甘藍《きゃべつ》なぞを駄馬《だば》に積み、其上に打乗って先発する。仔馬《こうま》がヒョコ/\ついて行く。又一君も馬匹《ばひつ》を見がてら阪の上まで送って来た。
 阪を上り果てゝ、囲《かこ》いのトゲ付《つき》鉄線《はりがね》を潜《くぐ》り、放牧場を西へ西へと歩む。赭い牛や黒馬が、親子友だち三々伍々、群《む》れ離れ寝たり起きたり自在《じざい》に遊んで居る。此処《ここ》はアイヌ語でニケウルルバクシナイと云うそうだ。平坦《へいたん》な高原《こうげん》の意。やゝ黄ばんだ楢《なら》、※[#「木+解」、第3水準1−86−22]《かしわ》の大木が処々に立つ外は、打開いた一面の高原霜早くして草皆枯れ、彼方《あち》此方《こち》に矮《ひく》い叢《むら》をなす萩《はぎ》はすがれて、馬の食い残した萩の実が触るとから/\音《おと》を立てる。此萩の花ざかりに駒《こま》の悠遊する画趣《がしゅ》が想われ、こんな所に生活する彼等が羨ましくなった。そこで余等も馬に劣《おと》らじと鼻孔《びこう》を開いて初秋高原清爽の気を存分《ぞんぶん》に吸《す》いつゝ、或は関翁と打語らい、或は黙《もく》して四辺《あたり》の景色を眺めつゝ行く。南の方は軍馬《ぐんば》補充部《ほじゅうぶ》の山又山狐色の波をうち、北は斗満の谷一帯木々の色すでに六分の秋を染《そ》めて居る。ふりかえって東を見れば、※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻−301−6]別谷《りくんべつだに》を劃《しき》るヱンベツの山々を踏《ふ》まえて、釧路《くしろ》の雄阿寒《おあかん》、雌阿寒《めあかん》が、一は筍《たけのこ》のよう、他は菅笠《すげがさ》のような容《なり》をして濃碧の色くっきりと秋空に聳えて居る。やゝ行って、倒れた楢の大木に腰うちかけ、一休《ひとやすみ》してまた行く。高原漸く蹙《せま》って、北の片岨《かたそば》には雑木にまじって山桜《やまざくら》の紅葉したのが見える。桜花《さくら》見にはいつも此処へ来る、と関翁語る。
 やがて放牧場の西端に来た。直ぐ眼下《めした》に白樺《しらかば》の簇立《ぞくりつ》する谷がある。小さな人家一つ二つ。煙が立って居る。それからずっと西の方は、斗満上流の奥深く針葉樹《しんようじゅ》を語る印度藍色《インジゴーいろ》の山又山重なり重なって、秋の朝日に菫色《すみれいろ》の微笑《えみ》を浮べて居る。余等はやゝ久しく恍惚《こうこつ》として眺め入った。あゝ彼の奥にこそ玉の如き斗満の水源はあるのだ。「うき事に久しく耐ふる人あらば、共に眺めんキトウスの月」と関翁の歌うた其キトウスの山は、彼《あの》奥にあるのだ。而《しか》して関翁の夢魂《むこん》常に遊ぶキトウス山の西、石狩岳十勝岳の東、北海道の真中に当る方数十里の大無人境は、其奥の奥にあるのだ。翁の迦南《カナン》は其処
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